27.甘い甘い吐息
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 空は美しく澄んでいる。
風も鮮やかに過ぎ去る。
日差しはやや強いが、それこそがこの季節のいいところだろう。
なのに。
 ウィルジオの傍らには、今も春真っ盛りの気配を醸し出す男がいる。
「あぁ……ハニーに会いたい……」
……実に、有害な生き物だ。
ウィルジオは、内科の医局でだれる先輩医師を横目に、そっと溜め息をついた。
その溜め息を耳聡く聞きつけたロイは、つと顔を上げ、今度はにっこりと笑う。
甘ったるい笑みではなく、人好きのする柔らかな笑みだ。ウィルジオには決して浮かべられない、幸せを体現するような笑顔。
「何? ジオ君、恋煩い?」
視線を窓の外にそらし、再び頬杖をついて。
「あぁ、僕も愛しのハニーに会いたいなぁ」
そう一人呟くロイに、ウィルジオは再び溜め息をついた。
ウィルジオが見えるのは彼の後ろ姿だけで、その表情を窺い知ることは出来ないが、想像は出来る。
彼の唇に浮かぶのは、きっと彼の脳裏に浮かぶ、彼の伴侶にしか向けられることのない微笑なのだろう。
「……どうして、溜め息ひとつでそうなるんでしょう」
「んー? そりゃあ、この間の障害物競走、大騒ぎになったもん。病院中が震えたよ。号外出るかと思った」
ありえない、と即座に否定しかけて、やめた。
無理だ。どうせ否定したところで、この噂が途絶えるわけではない。
また、それがでまかせであると言えないのが辛いところだ。
「ジル先生をめぐって巻き起こる愛憎の三角関係!」
こんな風にはしゃいだ声で騒ぎ立てられても、どうしようもない。
ウィルジオが否定できることなど、これといって何もないからだ。
ウィルジオは先の休暇で彼女とのわだかまりを解消し、今ではお互いいい関係を築きたいと思っている。
そして、三角関係、とやらの渦中にいる、自分と彼女と、ミリエット。
はっきりと分かることは、自分自身のことだけなのだから。
彼女の想いがどこにどうあるかも、ミリエットの感情が誰にどう向いているのかも。
ウィルジオが、知るはずもない。
「うちのハニーが大喜びだよ、面白くなってきた、って。僕も楽しみだな、この先どう動くのか」
くふふ、と笑って、こちらへと振り返ったその微笑みは……想い合う者の自信に満ちている。
疑う必要のない確かな誓いは、彼の薬指を銀の輪でしっかりと拘束して離さない。
胸の奥に湧き上がるのは、言い様のない不安。
よくない感情だ。
とっさにそれを、呼吸を止めることで停止させ、しばし胸に留める。
暴れる感情を諌めて、ウィルジオは深く呼吸を繰り返し、納得がいってから、顔を上げた。
ロイが不思議そうな顔でこちらを覗いている。
言うべき言葉は、すでに用意されていた。
「……医局の中でその微妙な空気を発するのは公序良俗に反しているような気がしますので、速やかに院内会議にかけ、しかるべき処置をとりますが、よろしいですね?」
「へ?」
言い捨てたウィルジオの言葉を、彼が理解するにはしばしの時間を要した。
きょとんと目を瞬いて、ウィルジオをじっと見据えていた瞳が、すっと驚きに見開かれる。
「ちょちょちょちょっと待ってよ何その準備してあったみたいな滑らかな口上は!」
内容ではなく、あまりにも自然に言葉を吐いたことが気に食わなかったらしい。
不思議なところに目をつける人だ、と思いながら、ウィルジオはそっと頷いた。
「質問があるなら、受け付けますが」
そう言うと、彼は当然だ、と頷いて、ウィルジオにつとにじり寄ってきた。本格的に問い詰めるつもりらしい。
……問い詰められたからといって、困ることは何もないのだが。
「それじゃあ少しずつ訊かせてもらうけど、まず微妙な空気って何?」
「自覚がないのならますます問題ですね。たびたび奥方の惚気を吐いては独身医師を失意の底に叩き込んでいることをご存じないのですか」
「……え、えぇっと。そ、それじゃあ、その公序良俗に反するって何?」
「そのままの意味です。病院の、しかも医局からうつ病患者を出すなと、精神科のソルから泣きつかれました」
「……最後にひとつだけ。何で『よろしいですね』って、もう決定事項なの?」
「この医局の医師からも苦情が出ているのです。そろそろ理事長あたりに訴えに行こうかと」
ごくごく真面目な顔でそう彼に告げると、先輩であるはずの彼は今にも泣き出しそうな表情をして、ひしと縋りついてきた。
「分かったよ分かったからもうやめるってばごめんなさい!」
「それはよかった」
では今この瞬間からやめてください、と釘を差し、ウィルジオは彼に背を向けた。
「……じゃあ、僕のことはいいから、君のことを教えて」
勝った、と思った瞬間に、敵からぶつけられた最後の一撃は、凄まじい力を持つ爆弾だったが。
「……は」
息が漏れ、わずかに背後を振り返る。
思わず、振り返ってしまったが運のつき。
「さぁさぁさぁさぁ! こんな面白いこと滅多にないぞー、あのジオ君に惚気話聞かされるなんて! いやぁ楽しみだなぁ、実は僕も昨日ね……」
新しいおもちゃを手にしたかのような、楽しげな表情。
ウィルジオは、今度は彼に聞こえないよう、そっと溜め息をついて、甘ったるい表情の彼に背を向けた。
自分のことで夢中だったのか、ロイは医局のドアを閉める直前になって、ウィルジオが去ったことに気づいたのだろう。
「うわっ、待ってよジオ君、ずるいよー」
と、かすかな非難の声が聞こえてきたように思うが、忘れよう。
そして、何となく彼女に会いたくなった自分の心は、そっと胸にしまっておこうと、彼の甘さがうつった吐息を、吐き出した。




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27.甘い甘い吐息