26.2人きり
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 聞こえるのは、自分と、彼の分の呼吸音だけ。
あとは、胸の奥で大きく脈打つ心音くらいだろうか。
彼の手の平が、視界を阻んで先を閉ざしている。
けれど、身体に当てられる冷たい感触だけは鮮明で、ますます鼓動が早く荒くなっていくような気がした。
 けれど反対に、頭の中は冷めていく。
もしかしたら、彼は聞こえなかったと思っているのかもしれない。
……聞こえなかったら、どれほどよかっただろう。
ジフラールは、診察の間中顔を見せてくれない紅い瞳の内科医に、胸の中で悪態をついた。
 聞きたいことは、たくさんある。
どうしてあの東屋で、まるで子供と接するような優しさを見せたのか。
どうしてあのとき、彼はジフラール以外の、おそらく……女性の名を呼んだのか。
それならばなぜ、彼はジフラールを、あれほどまでに強く抱き締めたのか。
分からないことだらけだ。
 分からないのは、自分の気持ちも同じだった。
彼には失礼な目に遭わされているのに、どうしてちっとも不快感を覚えないのか。
説明してもらう権利があるはずなのに、どうしてこんなに躊躇っているのか。
自分は一体……何を恐れているのか。
ジフラールは、静かに瞬いた。
彼の手の平は大きく、ジフラールの目を、被さるように覆っている。
だからジフラールは、しっかりと目を開けたまま彼の診察を受けていた。
瞬くたびに、彼の手の平を睫毛が滑ることだろう。
それで分かってもらいたいのだ。
目を閉じる気はない、と。
もう、目をそむける理由はないのだから、と。
 今日こそ、訊ねるんだ。
ジフラールは一人決意し、彼の手の平が離れる瞬間を待った。

 「あの、訊きたいことが、あるんですけど」
「……なんだ」
一度こちらに背中を向けたウィルジオは、ジフラールの声に振り向いてくれた。
夢の中久し振りに出会った懐かしい紅の瞳は、彼のそれとはまったく異なる印象を持っていた。
だからジフラールは、もう、彼の瞳を見つめ返すことに躊躇いはない。
けれど、反対に彼は、ジフラールを見ているのかどうか、はっきりとは分からない。
ジフラールには、彼が彼の大切な誰かを、ジフラールに重ねているような気がしたのだ。
「……どうして、先生のお家にまで連れてこられてるんでしょうか」
「俺とミルとクロウと、三人の中で最も家が近くて予備のベッドがあったのがここだったからだ」
そう、ここはエルスワース病院でもジフラールのアパルトメントでもなく、ウィルジオの家だった。
「それに、病院でお前がゆっくり休めるかと言えば、そうではないと判断したからな。どうせ患者が山のように押し寄せるに違いない。勝手にベッドも抜け出すだろうし」
確かに、病院のベッドではゆっくり休む気にもなれなかっただろう。
そこにはジフラールの患者がいるのだ。とても横になっていられない。
「じゃあ、どうして先生は、四六時中私に付いてるんですか」
「見張ってなきゃお前は絶対に逃げ出すだろう。そうでなければ書庫に閉じこもる。だからこの部屋に閉じ込めてあるんだ」
「書庫……」
「体調が元に戻ったら、頼まれていた本の残りを貸してやる。今は大人しく休んでいろ。それが仕事だ」
改めて、ウィルジオの姿を確認する。
黒のTシャツに、ダークグレーのワークパンツ。白衣は着ていないのに、首には聴診器がかかっている。
「先生も……お休みなんですか?」
「あぁ……いや、少し違う。お前の専属医師としてだ」
「それって、見張り、とも言います?」
問いかけたジフラールの言葉に、彼は少し目を見張って、頷いた。
「その通りだ」
……こうして見つめられていると、彼の瞳がちゃんとジフラールを見てくれていると分かる。
けれど、確かにあのときの彼の目は違った。
わずかに過ぎった、過去の誰か。
それが、枷のように重く纏わりつく。
「……もうひとつ、教えてくれますか?」
「あぁ」
傷つけるだろうか、この人を。
見つめ返す紅い瞳に、今は感情らしい感情を見つけられないけれど。
「ノエルさんって、誰ですか」

 時間が止まったように感じられた。
彼はわずかに息をのんだだけで呼気ひとつ漏らさず、ジフラールも、問いかけの答えをもらうまでは折れるわけにはいかなかった。
もしかしたら。
ジフラールはふと思い出す。
いつだったか、アルサスが言っていたではないか、彼の抱く過去。
ジフラールに似ているという、そのわけが。
ジフラールであれば、それが彼女に似た紅い瞳にあったように、彼であれば、あのとき漏らした『ノエル』という女性にあるのかもしれない。
だとしたら……とんでもないことを言ってしまったかもしれない。
ジフラールは即座に後悔し、ごめんなさい、と謝ろうとした。
けれど。
「聞こえたのか、あのとき」
「……は、はい」
沈黙を守っていた彼が、不意に口を開いた。
その声に、明確な乱れはない。
聞いても……いいことなのだろうか。
「ノエルは、俺の妹だ」
「……いもうと」
「ずいぶん前に他界したが」
何でもないことのように告げられた事実に、息をのむ。吐き出した息で呼吸は乱れ、押さえ切れない何かが、胸から涙腺へと駆け上がった。
「ご、ごめんなさ」
「謝るな。お前が謝ることなど何もない。……知りたいのか?」
懸命に息を殺して、涙を堪える。
本当ならば、ここで首を振るべきなのだろう。
けれど、出来なかった。
聞きたいと……思ってしまったから。
「……知りたい、です。聞かせてください、ノエルさんのこと」
声はやはり、震えていた。
それでも、目は逸らさない。
彼の瞳がジフラールを見てくれる限りは、逸らしてはいけないような気がしたのだ。
「……休みは長い。ゆっくり話してやる。その代わり、お前も話せ」
「え?」
「お前が俺の目を見なかった理由を。……どうやら俺たちは、とても些細なことで認識を誤っていたらしい」
彼から目を逸らさなかったジフラールは、彼の小さな変化も逃さず見ることが出来た。
……彼は、確かに小さく、微笑んだのだ。
「俺は、お前のことを知りたい」




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