28.謎のベールに包まれた
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 どん、と肩に振動を感じて、それが「おっと」と声を上げたことで、ジフラールは誰かにぶつかってしまったのだと気づく。
「あ、ごめんなさい、ぶつかっちゃって! だいじょ……う……」
昨日も、ウィルジオから借りた資料を読み漁っていて、あまり寝ていなかった。ぼんやりしている自分を恥じて、ジフラールは頭を下げ、見つけたくないものを見る。
 世の中には、お約束、という言葉がある。
それは、三つ編みのお下げの女の子は真面目で読書家だとか、令嬢は病弱であと何年も生きられないとか、高級官僚が賄賂をもらって悪事に手を染めているだとか、そういうことだと思う。
ジフラールだって、世に浸透している映画や演劇、小説の中で、それを売りにして物語が進められるのを悪いことだとは思わない。
三つ編みの女の子が真面目であって欲しいという理想や、令嬢がおしとやかで、可憐であって欲しいと願うのは、ジフラールにもなんとなく理解できるから。
でも、だ。
今ジフラールのそばにある現実だけは、できれば受け入れたくないというのが本心だった。
ゆっくりと、顔を上げる。
喫茶室で、たまたまぶつかってしまったこの人が、この病院では見覚えのない、けれど凄まじく美しい顔貌をしていること……そして、思わず視線を落としたその足元に、そこはかとなく見覚えのある、しかも嫌な予感のする眼鏡が落ちているということは。
「いや、失礼した」
そして聞き覚えのある声。
だが、まさか、という言葉が脳裡を掠める。
そうだ、こんなことが現実にありうるはずがない。きっとこの間のナルシストな美容外科医のように、突然異動になった新任医師か何かだろう。
間違いない。
自分ひとりで無理やり納得して、ジフラールは改めて顔を上げる。
「こちらこそ。ごめんなさい」
「……おや、ジフラール女史ではないか。ちょうどよかった」
当然のように、目の前の男性から名を呼ばれる。ジフラールは、彼の名を知らない……はずなのに。
「え?あ、はい」
「この写真と検査結果を言付けられてな。今医局を訪ねようとしたところだったのだ」
時間の節約になった、と整った顔に感情らしいものも乗せず、彼はジフラールに告げる。
一体、彼は誰だというのだろう。
「はぁ……あの、失礼ですけど」
「うむ、何か?」
「どちら様ですか?」
「……む?」
ジフラールのその問いかけに、初めて、彼の表情が動いた。
不審気、とでも言おうか。
なぜ分からないのだろう、と言わんばかりの視線。
そんな目で見られても、ジフラールだって分からないものは分からない。
さて困った、と両者がわずかに固まった、その瞬間だった。
ふ、とジフラールの鼻先を、薔薇の香が掠めたのは。
「あぁ、私の曙の薔薇姫! こんなところで一体何があったのかね?! 君を惑わせるような衝撃でも?」
……でた。
振り返るのも嫌で、ジフラールはそのまま息を吐き出す。きっと真後ろには、相変わらず薔薇の花束を抱えた銀髪の医師が跪いているのだろう。
衝撃の出会いから数ヶ月がたったが、最初の勝手な呼び名を改めない彼に、何度も自己紹介をした。それでも変わらないふざけた呼び名に、ジフラールは半ば諦めを抱いている。
「……フォレスター先生、えぇ、衝撃が。私の目の前に」
そんな彼も、きっと驚くだろう。
美しいものを何よりも愛している、彼だから。
「何を言うんだい、君の前に現れる衝撃など、私が君を前にして抱いた衝撃に比べればどうというものではな……」
かくん、と彼の顎が落ちた音を、聞いた気がした。
美人マニアの彼が、息を飲むほどの整った配置がなされた顔。パーツのひとつひとつも、さりげなく美しい。
だがそれは、どこか人形めいた美しさであり、ウィルジオのような冷たいながらにほのかな熱を持った美貌とも、ミリエットのような可愛らしさが滲み出た美貌とも違う。
「う……うつくしい」
だが、ジフラールは確かめたい。
ジフラールの閃きが正しければ、ジフラールは彼の名前を知っている。
同時に、ジフラールの名を知っている理由も、おのずと分かる。
ただ、問題は……それを受け入れられるか、否かということ。
「き、君は、一体どこの医局に所属する何と言う医師かね! あぁ、私の目は節穴だ……この美しさに気づかなかったとは! いや、もちろん私の方が美の骨頂とも言うべき美しき姿を持っているのだが!」
この人、どうにかしてやりたい、とずいぶん物騒なことを考えながら、ジフラールは足元の眼鏡を拾い上げる。
「ところで、これはあなたのものでしょうか?」
問いかけに気づいた彼は、おや、と呟いて、ジフラールの手から眼鏡を受け取った。
「これは失礼、気づかなかった」
私のものだ、と彼はその眼鏡をかける。
そして、右手中指で押し上げるのだ。
奥を見通せない、分厚いレンズの嵌った眼鏡を。
「……っだあぁぁぁぁああ!!」
そこにいるのは、見慣れた陰鬱な姿。

 眼鏡の下は、超美麗。
世の中で最もありえないのに、最も愛されるお約束。




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28.謎のベールに包まれた