25.誰よりも何よりも
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 この年頃の女の目覚めを待つのは、苦手だ。
いや、この女医は……実年齢は確か二十五だったはずだ。ウィルジオが苦手なのは、二十歳前後の女。だが、彼女の外見年齢はそれくらいに見えるのだから、苦手意識を抱いてもおかしくないだろう。
 記憶の中にいる彼女の髪は、もう少し濃い茶色だった。
時折見ることの出来た彼女の瞳は、もう少し薄い紫だった。肌の色はよく似ている。
ただし、彼女の肌は、もっと青白くて、常に死の気配をさせていたけれど。
 ウィルジオは、知っている。
ただ眠っているように見えても、その眠りが覚めるかどうかは分からないのだ。
ウィルジオの知る女のように、いつの間にか永遠に覚めない眠りについてしまうことがある。
彼女がそうならないとは限らない。
それが、怖かった。

 その日も雨が降っていた。
その頃、ウィルジオはまだカレッジを卒業していなくて、ノエルも、ウィルジオが年に数度、彼女の病室を訪ねたときには、ちゃんと起きている姿を見せてくれた。
絶対お前の病気を治してやる。
そう誓って、そのためだけに医者を目指してきた。
けれど。
ウィルジオは、間に合わなかったのだ。
医者になるための学業に励んでいた、そのせいで……全てに。
 彼女は、いつもと同じように眠りについたそうだ。いつもと同じように、おやすみなさいと言って。
彼女は、その言葉を告げて……それから、二度と目覚めることはなかった。
発作も起こさず、苦しんだ様子もない、いつもと同じ寝顔のままで。
今にも目を開き、ウィルジオに笑いかけ、名を呼んでくれそうな。
ウィルジオが逆に、彼女の死を受け入れられないくらい、その顔はごく自然な表情をしていたのだ。
揺さぶれど目を覚まさない、眠ってしまったノエル。
ただ無力感に苛まれ、呆然と立ち尽くして、ようやく分かった。
……深く愛していた。彼女のことを。

 ウィルジオは、泣き出してしまいそうな自分を哂う。
なんて馬鹿な。
色彩以外は似てもいない彼女の顔を見て、何をこんなに緊張することがあるのだろう。
不安ならば脈を取ればいい。聴診器を胸に当ててもいい。手の平を口元にかざし、その呼吸を確かめればいい。
ウィルジオはもう、無力な学生ではないのだから。
この病院に不可欠だと、誰もが言うような知識と技術を持っているのだから。
それでも不安ならば……唇でもふさげば、目を覚ますことだろう。
きっと現実に気づいて、泣くに違いない。
嫌っている相手に唇を奪われることほど、嫌なことはないだろうから。
けれど――そうすればウィルジオは確かめられる。
彼女が生きていることを。
ノエルのように、眠ったまま目覚めないことなどないと。
鮮やかで深い紫の瞳を、大きく見開いて、涙を溜めて。
ノエルの力ない声などかき消す、激しい怒りの満ちた声で。
 ベッドサイドのスツールに腰掛けて、見下ろしたジフラールの閉じられた瞼が、つと揺らいだ気がした。
「……ん……」
仰向けに寝ていた彼女は、ゆっくりと寝返りを打った。
その姿勢でしばらく上掛けの中でもぞもぞと動き、止まったかと思うと、再び寝返りを打って、ウィルジオの方へと体を向けた。
目覚めの兆しだろうか、睫毛がそろそろと揺れ、やがて……その奥から深い紫が覗く。
あぁ、生きている。
ウィルジオはほっと息を吐き、そして、自分が呼吸まで止めて彼女の目覚めを待っていたという事実に、再び笑った。
……今度は自嘲の笑みではなく、確かに、安堵の笑みだった。
「……あれ……?」
「気がついたか?」
彼女は、なかなか状況が受け入れられないのか、ぼんやりと視線をさまよわせたまま、ウィルジオを見た。
その視線が向けられる場所に、ウィルジオはわずかに息をのむ。
彼女は、今、確かにウィルジオを見ている。
苦々しい表情で逸らされた視線はなく、真っ直ぐに、ウィルジオの目を。
「――ウィルジオ、先生」
覚醒の瞬間。彼女がウィルジオを呼ぶ。
彼女は大きく紫の瞳を見開いて、確かに、この目を見た。
射るように真っ直ぐ向けられた視線が、ウィルジオをはっきりと、認識する。
「私……」
そう呟いて、彼女は上体を起こした。
彼女の体格のせいか、ベッドに身を起こしているというのに、ベッドより低いスツールに腰掛けているウィルジオと、視線の高さは同じだ。
揺らぐ紫の瞳の中に、確かに自分の姿が映っている。
「あの、先生、私……」
もう一度彼女の瞳を覗き込み、己がそこにいることを確認する。
そして、確信した。新たに芽生えた想いを。
「っ……ノエル……」
ウィルジオは押し殺した声で彼女に別れを告げ、あらん限りの力で、目の前にある細い身体を抱き締めた。

 どれくらいの時間が流れたのだろう。
思いの丈をぶつけるように抱き締めたジフラールが、腕の中身じろいだ。
そして、己の行為に息をのむ。
「……すまない」
謝罪の言葉を告げるものの、体が言うことを聞かなかった。
……離したくない。
過去を重ねた代償がこれか、と、ウィルジオは自分自身に溜め息をつく。
「えっと……別に、構わない、って言うのも、なんか違う気がするんですけど……そうじゃなくて、だから……お、落ちそうなんです」
「……あぁ、なんだ」
そんなことか、とウィルジオは彼女を抱いたまま、そっとその身体をベッドの中央へ下ろした。
「お、重くなかったですか……?」
妙なことを気にするジフラールに、ウィルジオはわずかに眉を顰め、首を振る。
「お前くらいで重いと感じたら、患者をベッドに移すときに大変だろう」
「えぇと、うーん……そう、なんでしょうか」
「あぁ」
不審気な口調に、そっと腕を緩め、彼女の髪を梳く。乱れた部分を普段のように整え、逆の手を額に当てて、その温度を確かめる。やはり、熱い。
「……ずっと微熱が続いていただろう」
「え、あ、その」
「体に疲れが残っていると自覚していただろう?」
「……あの……は、はい」
そこまで分かっていて、なぜ休まないのだろう。
思わず溜め息が零れたが、彼女が休むということを知っているなら、こんな事態には陥らなかったはずだ、と考えを改める。
「クロウがなぜお前を景品にしたか分かっているか?」
「えっと、それが、いまだによく……」
「お前が過労で倒れそうだと知っていたからだ」
そう言ってやると、彼女は予想外のことを聞いた、とでもいう風に瞳を瞬いて、数拍遅れて目を丸くした。
「……えぇっ?!」
「現にこうして倒れただろう」
言って、首からぶら下げた聴診器に手をやる。
「大人しくしてろよ、診察だ」
「え、や、ちょ、ちょっと待ってくださいやだそんなの」
「患者は黙れ、このアホが」
言い捨て、ウィルジオは彼女の目を、自分の手で覆った。
……そうしなければ、きっと上気した顔を見られてしまうだろうから。




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