23.I pray to you.
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 先生、と、彼女の声が己を呼ぶ。
十を少し越えたくらいの小さな身体は、大きすぎる悪夢を抱えてそこにいた。
ジフラールは思い出す。
先生、と、彼女の声が己を呼ぶ……ただそれだけで、言い様のない幸せと、底知れぬ不安に包まれていたのだと。

 「ねぇ、先生。一緒に遊んで?」
それは、言葉にもならないほど、たくさんの思い出がつまった、懐かしい声。
笑顔も、涙も。全てを見て、触れて、共有してきた……ジフラールにとっては、何よりも大切な少女の記憶。
「うん、いいわよ」
これが夢であることを知っていながら、ジフラールはあの頃と同じように微笑んだ。
壊すことは出来ない。いや、ジフラール自身が、壊したくないのだ。
 その少女の名は、リディーナと言った。ジフラールがまだ、田舎の病院で勤務していたときの患者だ。
濃い金の髪と、柘榴色の瞳。病的な白い肌の中、瞳だけが強く、眩しく輝いていた。
けれど、彼女の心臓には、不治の病魔が巣食っていた。
癒すことの出来ない、先天的な疾患だ。
発作さえ起こらなければ、日常生活に支障のない彼女は、小さな発作を繰り返すせいで、普通の生活を送ることは出来なかった。
にもかかわらず、彼女の家族は深く彼女を愛していて、残り少ない彼女の生を、大切に、可能な限り幸せにしたいと心から願っていた。
だからだろうか、彼女は決して精神を病まなかった。
入退院を繰り返す彼女のためにジフラールが出来るのは、これ以上の悪化を防ぐことだけ。
不甲斐ない己の姿に、ジフラールは苦悩した。
 けれどリディーナは、短い命を嘆くわけでなく、ただ可憐に微笑んで、懸命に生きるのだ。
「ジル先生? 私ね、幸せよ?」
あぁ、どうして。
神様、なぜこんな無垢な少女に、重い重い枷を与えるのですか。
ジフラールが神に願っても、どれほど研究を重ねても、彼女の抱える病を取り除く術は……見当たらなかった。
 そんな何も出来ない主治医のジフラールを、彼女は決して責めない。
むしろ、労わるのだ。
「先生、無理しないで? 私、先生がやつれてくの、見てて辛い。ちゃんと休まなくちゃ」
リディーナの、心からの言葉。
それだけで、胸がいっぱいになってしまう。主治医であるジフラールが不甲斐ないせいで、彼女はこのまま、若くして死を迎えることになるかもしれないのに。

 リディーナとは、三年の歳月を共にした。
彼女は三年で、愛らしい少女から美しい乙女へと成長した。
だが、ある日。
「……先生。私、次は死ぬのね」
突然にやってきた発作が、彼女の短い命を攫っていったのだ。
そのときは何とか持ち直したものの、次の大きな発作が来れば、彼女の命は、儚く消えることだろう。
……患者に死期の宣告をするなんて。
あまりの悲しさに、ジフラールの方が泣いてしまった。
リディーナは穏やかな表情でジフラールの言葉を最後まで聞き届け、そして、言ったのだ。
「先生。私、まだ何もしてないわ。まともに学校行けなかったし、友達も作れなかった。恋もしてない。友達と一緒に、日の光をいっぱい浴びて、露店のアイスクリーム食べたり、ウィンドウショッピングしたり。だから、ね?私、全部の夢を叶えてこようと思うの」
顔を上げた少女の表情を、ジフラールは生涯忘れない。
リディーナは、笑っていたのだ。どこまでも透き通った純粋な瞳で、迷いなど抱く気配もなく。
微笑みには死を覚悟した悲愴な色はない。あるのは先の見えない命を信じ、不確定な未来を楽しもうとする鮮やかな眩しさだけ。
「だから、先生。退院許可を、ください」
病院のベッドの上で死ぬなんて耐えられない。
彼女の瞳は、ただひたすらに生を求めていた。
「生きてるって、実感したいの。死ぬんだって、それを待ってたくないの」
「リィナちゃん」
「ねぇ、先生。私、運命の恋人に出会いたいの。運命的な出会いをして、夢みたいな展開を共にして、奇跡が起こって……素敵な告白をされて恋人同士になるのよ? それって、すごく楽しそうだと思わない?」
ふふ、と可愛らしく微笑む仕草は、無垢な童女に似た無邪気さがある。
けれど、その無邪気さは、残酷さと紙一重だ。
そして、もう幼い『女の子』ではない彼女は、微笑みの裏に生への執着を窺わせる。
「私は……いつかその人の記憶の中で、生きるようになるの。私の運命の恋人は……それを許してくれる人」
「……それじゃあ、私も。リィナちゃんを死なせたりしない。今まで、医学は確実に進歩してきたんだもの。見つからないはずない。いつかは絶対に治せるようになる。探して探して、絶対にリィナちゃんの病気、治してみせる」
微笑む彼女の小指に、自身のそれを絡ませる。
「約束よ? 私、リィナちゃんと運命の恋人が、一緒に笑ってるところ、見たいんだから。だから……そんなこと言わないで」
きゅっと力を込めた小指に、彼女のひんやりした華奢な指が絡んでいる。
「それに、私は嫌よ? いくらリィナちゃんの運命の恋人でも、リィナちゃんを独占されるなんて。私だって、リィナちゃんと一緒にいたい。リィナちゃんのこと、大好きだもの」
ね、と微笑むと、リディーナはきょとんと目を丸くしていた。
「私……」
「え?」
しばし目を瞬いた彼女は、ゆっくりと瞼を伏せ、それを押し開き。
「先生が男の人だったら、先生を運命の人だと思ったわ」
今度こそ、花のように純粋な微笑みを見せてくれた。
「先生、私、絶対先生に会いに行く。恋人と一緒に、先生に」
「……本当に?」
「うん、本当。それまで、絶対死んだりしないわ。だって、病気、治るんでしょう?」
そっと近づいてきたリディーナの顔を、ジフラールは戸惑いながら見つめ返す。
彼女は、悪戯っぽい笑みを浮かべて。
「私も、先生のこと大好き。だから、私が会いに行くそのときは……先生の運命の人にも、会わせてね?」
頬に、そっとキスをくれた。
「り、リィナちゃん?!」
「先生可愛い。ね、絶対約束よ?」
離れていく温度、真っ直ぐな微笑み。
深い柘榴色の瞳は、ジフラールの目に焼きついて離れない。
ジフラールの、大切な思い出。




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