22.ジフラール医師争奪大障害物競走(5)
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 正面で優雅にお茶を飲んでいたクロウが、つと顔を上げた。
視線が動く。
それを追いかけていくと、ジフラールの目には、二つの人影が飛び込んできた。
「王子様たちのお出ましね」
「……王子、様……?」
今し方まで平気だったはずなのに、急に視界がぼやけてきた。
頬が、体が熱い。
「え、あの、それはどういう……」
「そのままの意味よ。ジルちゃんと一週間の休暇を共にする王子様」
嘘だ、と言いたかった。
それでも声が出なかったのは、自分がそれを望んでいるからではなく、唇が、喉が渇ききって声にならなかったのだ。そうに違いない。
わずかに震える指先が、カップに振動を伝える。
いけない、と、ジフラールはそれをソーサーの上に戻し、改めて、人影の方へと視線を向ける。
そこにいるのは、見間違うはずもない。よく知った人影だったから。

 目の前に、二人の男が並んでいる。
一方は、紅く上気した頬で微笑む外科医。
もう一方は、恐ろしく不機嫌に、普段通りの静けさで佇む内科医。
「見事ゴールまで辿り着いた王子様方、ようこそ、姫君のお茶会へ。ゆっくりしてお行きなさい」
クロウがそう言って微笑んだ。
けれど、ジフラールにはそんな余裕はない。
とても、耐えられるはずがないのだ。
「つまらん口上はいい」
「あら、冷たいお言葉」
嫌われるわよ? というクロウの言葉にさえ、声にならないほどの緊張を感じる。
どうすればいいのだろう。
ここまで来てしまったこの人に、何を言えばいいのだろう。
「ジルちゃん、さぁ、何かおっしゃいよ。二人とも、ジルちゃんを迎えに来たのよ?」
ふふっと笑うクロウが、これほど憎らしく思えたのは初めてだ。
一体、何を言えというのだろう。この状況で。この混乱の中で。
「……嘘」
「え?」
「嘘、でしょう? だって、おかしいです。どうして私が景品で……あなたが、ここにいるの」
そうだ。
おかしいのだ、この状況は。
彼は、ジフラールが彼を避けていると知っている。嫌われている、と信じている。だからジフラールは嫌われているはずなのだ。彼に。
……紅い瞳の内科医に。
「悪いが俺は本気だ。さっさと来い」
さく、と芝を踏む音。
そしてそれが、いつも病院で聞く硬質な音となる。
下げた視線の先に映った彼の革靴は、芝生だったとは言え、地面を蹴ったとは思えないくらいに美しい。
ついと伸ばされた手。
その手は、迷いなど見当たらないくらいに真っ直ぐ、ジフラールを求めてくる。
ゆっくりと、視線を持ち上げた。
指先から手の平、腕、肩……首筋から顎、唇。
そして……真剣な色を帯びた瞳。
「あ……」
――それは、ジフラールの恐れていた瞳ではなかった。
どこまでも澄んだ、何もかもを悟ったような、迷いのない彼女の瞳とは違う。
何かに戸惑い、揺れる意志を秘め、けれどそれを懸命に隠し通そうとする、不安に満ちた瞳だ。
不安を抱いているけれど……真剣な瞳。
彼の瞳が向ける感情の全てが、ジフラールに向けられている。
「でも、私」
「お前が俺を嫌いでも、俺には関係のない話だ。来い」
……どうしてこの人は、こんな風にジフラールを許すのだろう。
泣き出しそうになって、ジフラールはそっと視線を逸らした。
そして、逸らした先にあるものを見つける。
「……ミル先生」
「ジフラールさん、僕だって、本気だよ?」
ふっと微笑んだその人は、手を差し伸べてくれる。
「え……あの」
「ジフラールさんが望むなら」
再び、視線を上げる。
そこには、いつもと同じ微笑みの、ミリエットが。
「一緒に行く?」
青の瞳に、躊躇いはない。いつも真っ直ぐに前へ進む、鮮やかな青。
ゆっくりと、首を回す。
テーブルの向こうには、うっすらと微笑みを浮かべたままのクロウが腰掛けている。
クロウは何も教えてくれない。
ジフラールに、何も。
「待って……おかしい、です」
「何が?」
ミリエットの声に問われて、首を振った。
「だって、全部。私が景品で、ミル先生がここにいて、クロウ姐さんは何も教えてくれなくて、それにそれに、どうして……」
堪えようとしてきた涙が、ぽつりと零れる。
「どうして、ウィルジオ先生は、私を許してくれるの……!」
あんなにも失礼な態度をとってきたジフラールに。
なぜ、どうして。
混乱が頭を支配して、わけが分からなくなる。
「私、あんなに酷い態度をとったのに……」
頭を抱えたジフラールに手が差し出された。
「全部聞いてやる。お前の吐き出したいことを、全部」
その手が、ゆっくりと返り、そっと頭に乗せられる。
髪を梳かれる感触に、再び涙が零れた。
「どうして……!!」
頬が熱い。瞼が、喉が。
乱れた呼吸に、言葉が遮られ、ジフラールは懸命にそれを整えようとする。けれど、上手くいかない。
おかしいのだ。
身体も、理性も。
なのに、撫でられる手には、安堵を覚える。
あともう少しだけ。
そう願ったのに……ジフラールは、感覚の全てを失った。




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22.ジフラール医師争奪大障害物競走(5)