20.ジフラール医師争奪大障害物競走(3)
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 「姐さん!!」
わずかな怒りを湛えたジフラールに怒鳴られる。
クロウはそれさえも嬉しく、楽しくて、思わず笑ってしまう。
「もう! 私をからかって、そんなに楽しい?!」
「あら、嫌だ。からかってなんかいないわよ? 確かに、ジルちゃんをからかうのは楽しいけれど。これは、事実だもの」
むっと膨れる彼女に、クロウは腰を落ち着けたスツールから立ち、再びポットを持ち上げる。
「みんなね、ジルちゃんのこと、大好きなの」
「……でも……私が、景品って」
戸惑った彼女のカップの縁に、クロウはストレーナーをかけ、ポットを傾ける。
きらめく滴が流れ出し、ジフラールの瞳がほんの少し明るくなった。
「冷めちゃったから、はい、これ。ミルクは?」
「欲しいかな。クッキー、美味しい」
「喜んでもらえて何よりだわ」
笑って、ポットをテーブルへ。ストレーナーを下げ、そこに温めたミルクを注いだ。
「お砂糖は?」
「いらない」
伸ばされた手に、ソーサーをジフラールの傍へ押しやる。
彼女はうっすらと微笑みを浮かべたまま、カップの取っ手に指を絡ませた。
「毎年、この時期に障害物競走は開催してるんだけどね? 今年は、ちょっと趣向を変えて。既婚の先生方まで喜んで協力してくれるものだから、ちょっと驚いちゃったわ」
「……普段の景品は?」
「二人一組で障害物競走に参加して、優勝チームには一週間の休暇」
ふぅん、と相槌を打って、ジフラールはカップを傾ける。
「国立病院のお医者様は、みんなこんなに暇だったの?」
「あら、珍しい。ジルちゃんが厭味だなんて」
「厭味のひとつも、言いたくなるわよ。ミル先生に、ダレンに、どういうこと? アルサス先生やソルティス先生、おまけに……」
彼の名を呼ぶことに躊躇して、彼女はほんの少し、口を閉ざした。
「ウィルジオ先生もね。だから、言ってるでしょう? みんな、ジルちゃんのことが大好きなの」
笑ってそう言ってやると、ジフラールは、わずかに目尻を下げ、ふっと微笑む。
「そんなこと、ないよ。私、嫌われちゃったもの。ウィルジオ、先生には」
どこか物悲しい声音に、クロウは眉を顰める。
「まさか。そんなはずないわ。ウィルジオ先生、さっきから大健闘なのに」
「……大健闘?」
「どのコースも、ほぼ一位で通過中。ミル先生もびっくりするくらいの勢いで。なんか、ほとんど優勝確定してるようなものよ?」
独走状態なの、と囁くと、彼女は不思議そうに目を瞬いて、嘘、と呟いた。
「さっきも楽しそうに、技師さんを踏んづけてたわね。十人リタイアさせると先に進めるようになってるの」
「……踏んづけて。じゃあ、ストレス解消か何かで」
そうだ、と、ジフラールが一人呟いた。
「だからこんなところにいるんだわ。きっとそう」
きゅっと胸元に手を当て、肩にかけたストールを掴む。
言葉とは裏腹に、彼女の視線は、この東屋から見ることの出来ない丘の下へと向かっている。
見ることの出来ない、彼の瞳を探して。
 クロウは、ジフラールがウィルジオの紅い瞳を意識していることを知っている。その理由までは知らないが、ただ、ジフラールにとってウィルジオの深い紅の瞳は、何か特別な意味を持つようだ。同じ赤でも、やや明るいアルサスの瞳に、ジフラールは過剰な拒絶を示さない。
彼女は、彼の深紅の瞳を恐れながら、けれど、それを見たいと思っている。
 羨ましい、と思う。
どんな意味であっても、ジフラールの意識を遠く離れていながら攫ってしまう彼を。
彼自身が気づいているのかどうかは分からないが、彼の目も、ジフラールを追っている。時折酷く物憂げに、哀しげに……紅の瞳を揺らして、普段の冷静な彼など想像もつかない姿で。
お互い、自覚のないままに相手を意識している状況。
だが、傍で見ているものは簡単に気づく。
二人がそれぞれ、絶対に視線に気づかれない距離から、お互いを見つめていることに。
 けれど、誰もそのことについて触れない。
言えば、二人の距離が近づいてしまうのは必至だ。だから、指摘しない。
誰もがジフラールに好意を抱いているから。
誰か一人のものになってしまうなんて、耐えられないから。
例えばジフラールの想い人がジフラールを好きでも。
きっと、誰一人として、ジフラールに自発的な協力はしないだろう。
 ジフラールの恋愛感情に、必要以上に関わりすぎないこと。
それはいつの間にか、病院内で彼女を密かに想う者たちのルールとなっていた。
「……それなら、お休みが欲しいだけなんだわ。他の理由なんてあるわけないもの」
ジフラールの声に、クロウは顔を上げる。
正面にいるのは、ティーカップを大切に抱えて、カップの中に視線を落とす少女。
なんて可愛らしいのかしら。
ふっと微笑んで、クロウは自身のカップに手を伸ばした。
「ねぇ、ジルちゃん?」
「え?」
ゆっくりと顔を上げた彼女の瞳には、大きな不安が抱えられている。
それは、彼を案ずるが故の不安なのか、それとも、彼が優勝したとき、共に過ごすこととなる休暇に対する不安なのか。
どちらにせよ、今のジフラールを支配するのは、あの紅の瞳であることは間違いない。
「心配しなくても、ウィルジオ先生は紳士だから、痛いことも怖いこともしないと思うわよ?」
「……痛いことも怖いことも、って……? あの、それは一体」
「ジルちゃんが嫌がれば、絶対にやめてくれるから」
様々な意味を込めて言ってみるが、ジフラールがその意味に気づいているかどうかは分からない。
今も、クロウの言葉を懸命に考えながら、丘の下にいるだろう彼を、探している。
いや、今のジフラールは、ウィルジオ本人を求めているのではなく……彼の紅の瞳を探しているだけに過ぎない。
「先生たち、大丈夫なのかしら」
本当に。
自分が突然睡眠薬で眠らされて、着替えさせられてこんなところで、景品になれと言われたのに。
彼女は、混乱の中、それでも知人を案じるのだから。
あの二人……もちろん、ウィルジオとミリエットが、これほど必死になって他の医師を蹴散らしている理由が、分かる気がする。
「まぁ、それだけが理由じゃないでしょうけれど、ね」




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