19.ジフラール医師争奪大障害物競走(2)
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 「あの……姐さん」
「なぁに?」
クロウは、楽しげに微笑んだまま小首を傾げた。
その視線が柔らかなのはいいことだが、それとこれとは別の問題だ。
「私は、一体いつの間に着替えたのかしら」
確かに今朝着ていたはずの紺のハイネックシャツと、ベージュのプリーツスカートと白衣。
それらは見る影もなく、薄桃のキャミソールワンピースに摩り替わっていた。
全体に紅色の小花が散った、シフォンのキャミソールワンピース。
薄く透ける生地を何枚も贅沢に使用したこの服に、ジフラールは見覚えがない。けれど、サイズはぴったりだ。こんなに露出度の高い服なんて滅多に着ないジフラールは、妙に意識してしまう。
「大丈夫よ、着替えさせたのは、アタシじゃないわ」
「……むしろ姐さんであって欲しかったかも」
そうすれば、自分の体の肉付きや、今身につけている下着に後悔なんかしなかったかもしれないのに。
深く息を吐き出したジフラールに、クロウは目尻を下げ、困惑、の表情。
「やぁねジルちゃんってば。一応アタシはオカマだけどね? そんなこと言われちゃったらアタシ……男が目覚めちゃうかもしれないでしょう?」
ふふ、と楽しげに笑ったクロウの言葉の直後、なにやら重い音が二つ、三つと響いた。
何だろう、と顔を上げ、音の出所を探して周囲に目を配る。
「見に行く? ……アタシが睨まれるだけかもしれないわね」
「どういう意味……?」
問いかけても、クロウから明確な答えは返ってこない。
「はい、これ羽織って。暖かいけれど、用心にね」
「用心……?」
「あら、まだ気づいてないの? ……まぁいいわ。すぐ分かることだし」
再びクロウは笑って、ストールをかけたジフラールの肩を抱き、立つよう促した。
ジフラールは、クロウの誘導に従って東屋を出る。
そして、下を見下ろした。
「……え?」
目に飛び込んできた、複数の色彩。
それは確かに、ジフラールに向かっている。
「さぁ、どうしましょう。ジルちゃんに、ちょっと嬉しい告白をされてしまったわ。このままじゃアタシ、オカマ返上かもしれないわね?」
嬉しそうなクロウの声さえ、まともに耳に入ってこない。
真っ直ぐ注がれる、青の瞳が二対。黒の瞳が一対。そして……似て非なる赤の瞳が二対。
「ジフラールさん」
声に導かれるように、視線が移る。普段は柔らかな青の瞳は、今日はやけに鋭く見えた。まるで……執刀中の彼のように、何者も寄せ付けない、鋭い視線。
「少し待ってて。すぐ行くから」
「へ? あ、は、はい」
わけも分からず頷き返すと、別の方からの強い視線を感じた。そちらに目を向けると、あんぐりと口を開けたまま呆然とジフラールを見つめてくる、ダレンの姿がある。
「ダレン? どうしてここに……」
「っつーかお前、その格好……」
え、と、再び自分の姿を見下ろす。
よくよく確かめると、ずいぶんと裾が短い。
「きゃ!」
焦って裾をつかむと同時に、風が吹いた。
「やだっ……姐さん! どうしてこんな服っ……」
「ジルちゃんに似合うだろうなぁって思って。ほら、いつも抱きついてくれるから、服のサイズとかもよく分かるし」
「確かにそうかもしれないけどっ……」
クロウに縋りつくと同時に、背中を貫くような鋭い視線まで感じる。
「……あら? 余計に焚きつけちゃった?」
ふふっと楽しげに笑うクロウに縋ったまま、ジフラールはゆっくりと視線の持ち主を探して振り返った。
 感じる。その視線の先にあるのは、きっと。
「あ……」
深い、深い紅。
吸い込まれてしまいそうなくらいに、懐かしく、愛しい色彩だ。距離はずいぶんとあるはずなのに、なぜだろう、瞳に影を落とす睫毛の瞬く様さえ見えるような、それは怖いくらいの錯覚。
けれど、その瞳は、絡まり、深くつながったかと思うと同時に、するりと切れた。
そして、どさり、と何かが振り落とされる音。彼の足元には、何となく見た記憶のある男性……確か泌尿器科の医師だったと思う、その体が転がっていた。
「あ、あの……今更、なんですけど。皆さん……何してらっしゃるんですか?」
「クロウさん、まだ説明してないの?」
「そうなのよー。じゃ、これから説明するから、殿方たちは必死に頑張って頂戴?」
ミリエットの問いかけに応え、うふふ、という可愛らしい微笑みがその場に響く。そのまま丘の下に背を向けたクロウに促されて、ジフラールは元の東屋に戻った。
 「それで? どういうことなの、これ。先生たち、一体何を……それにお仕事は?!」
わけの分からないまま、クロウに従って元のクッションの上へと腰を落ち着ける。
さぁどうぞ、とクッキーを勧められ、言われるままにそれを一枚手にとって。
はっと顔を上げ、ほんの少し視線を険しくした。
「急がないでも、ちゃんと説明してあげるから、ほら、お茶飲んで。クッキー食べて」
「……もう。姐さんたら、マイペースなんだから」
クロウは急かしてもジフラールの思い通りにはなってくれない。
だから、ジフラールは手に取ったクッキーを、ほんの少し躊躇ってから口元に運んだ。
クロウは、説明すると言った。なら、ちゃんと説明してくれるのだろう。
それに……最近、あまり食欲がなかった。食べろ、と言われ、食べれるのだから食べた方がいい。
クッキーはさくさくと歯ざわりがよく、甘い香りと、バターの風味が舌に心地よかった。
「あのね、今、障害物競走やってるの」
「……ふぇ?」
口の中に残ったクッキーを嚥下して、ジフラールは小首を傾げる。
「何、それ。障害物競走、って……?」
「そのままの意味よ。既婚者と女性で今日のシフトは埋まってるから、病院の運営は滞りないし。脱落した人から仕事にも戻ってるから、心配は要らないわ。大丈夫よ、アタシが計画してるんだもの」
悪戯っぽい笑みに、現状に対する納得は出来た。
「でも……じゃあ、どうして私はここに、こんな格好で座ってるのかしら」
「あぁ、それは、ジルちゃんが景品だから」
「――は?」
間抜けな声が出て、思わず口元を覆う。
けれどクロウは、気にした様子もなく、ごく自然な微笑みを浮かべて言った。
「このバトルに勝った人は、ジルちゃんと一緒に一週間のお出かけ休暇がもらえるのよ。素敵でしょう?」
……クロウの微笑みにわずかな怒りを覚えたのは、このときが初めてだった。




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