18.ジフラール医師争奪大障害物競走(1)
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 ジフラールは、今日も忙しく院内を歩き回っていた。
やりたいことも、やらなければならないこともたくさんある。時間は、一秒たりとも無駄に出来ない。
急ぎ過ぎたせいだろうか、あっけなく上がった息を静めるために、ジフラールは少しずつ歩幅を縮め、歩みの速度を落とす。角は、ゆっくりと曲がった。
「あ、ここにいたのね、ジルちゃん」
耳に届いた、柔らかな声。
男性にしては高く、女性にしてはやや低いこの声を持つ人は、なかなかいないだろう。
ジフラールは振り返って、その姿を探す。
「クロウ姐さん」
「もうジルちゃんったら、探し回っちゃったわ。悪いんだけど、アタシのお願い聞いてくれる?」
さらさらと衣擦れの音だけを残して、クロウが近づいてくる。浮かべる微笑みは、普段なら穏やかで安堵さえ覚えるほど優しげなのだが、どうしてだろう。今日のクロウの微笑みからは、なぜか不穏な気配を感じた。
「お願い、って……あの、でも姐さん、私今ちょっと忙しいんだけど……」
言いよどんだジフラールに、クロウは困惑の表情を浮かべ、こちらを窺ってくる。
「そこを、何とかお願いできない? どうしても、駄目かしら?」
「後で、じゃ、駄目なの?」
「そうなの。今じゃなくちゃ。……でも、ジルちゃんがそう言うなら、仕方ないわね」
肩を落とし、落胆、の表情でクロウは微笑んだ。クロウは物分かりがよくて助かる。他の人ではこうはいかない。
「ごめんね、姐さん。今度、埋め合わせするから」
「あら、埋め合わせ、だなんて。そんなの必要ないのよ?」
どこか悪戯っぽい口調。
ジフラールは、クロウの瞳の奥に苦笑を見た。
埋め合わせの必要がないというのは……どういう意味だろう。
「さぁ、シーナちゃん? 出番よ」
「はぁい、ちょっとすいませーん、カートが通りますよー」
クロウの声に呼ばれてやってきたのは、看護主任のシーナだ。
にこにこと微笑み、銀色のカートを押している。
その上には、一本の注射器。
「あの、姐さん? 看護主任まで呼んで、一体何を……ひゃあ!」
ぐい、と白衣の袖を捲られ、すぅ、と二の腕から肘の内側にかけての皮膚が冷たくなって、思わず声を上げる。身じろぎと同時に立ち上ってきたのは、消毒用のアルコールの匂い。
「え、あの、ちょっと……まさか私、実験台?」
注射器の中身確認と気泡抜きを行ったシーナが、注射器を構えて、にっこりと微笑んだ。
顔を上げると、クロウまでもが楽しげに笑っている。
「実験台じゃないわ。ちゃんとした完成品よ? 即効性の……睡眠薬」
「ちくっとしますけど、大人しくしててくださいね。変に動くと針折れちゃいますよ?」
「え、あ、それは、知ってるけど……んっ」
腕を、どうしても慣れることの出来ない痛みが襲う。
「……て、言うか……待って、姐さん。あの、即効性の睡眠薬、って……」
する、と、針を皮膚の下から抜かれる、違和感。
顔を上げると、そこにはクロウが立っている。柔らかな、とても穏やかな微笑み。
「こんな方法しか思いつかなくて、ごめんなさい。でも……心配してるの。分かって」
「姐さん……」
視界が、ぼやけてくる。薄れ始める意識の中、ただ、かすかに触れられる感触を覚えた。
それすらも、すぐに消えてしまう。
「ジルちゃんは、働きすぎよ。少しおやすみなさい?」
そっと抱き寄せてくれる身体に、ジフラールは力を抜いた。
相手はクロウだ。
大丈夫。
ぼんやりとそう思ったような……その記憶さえ、意識とともに途絶えた。

 浅い眠りの中で揺れるジフラールを覚醒させたのは、心地よい紅茶の香りだった。
ゆっくりと瞼を押し上げると、梢の緑と、木漏れ日が映し出される。
ぼんやりした頭のままでは、状況の把握が出来ない。
意識を叩き起こすために、ジフラールはいまだにままならない身体を叱咤して、上体を起こした。
そして、身体を起こして初めて、自分の体がたくさんのクッションの上に寝かされていたことに気づく。木漏れ日を浴びていたということは、屋外にいるということだ。
けれど……ゆっくりと目を泳がせて、周囲の状況を確認する。
今いるのは、どこかの東屋だ。小高い丘の上に立っているらしい。
そして、今腰掛けている場所からは見えないが、なにやら丘の下が騒がしい。まるで、乱闘でもしているような……。
「あら、ジルちゃん。目が覚めたのね? よかった。薬が効きすぎたのかと心配したわ」
まだぎこちない全身に気を使い、ゆっくりと、首を巡らせる。
いつもの微笑を浮かべて、可愛らしいオールドローズの絵付けがされたティーポットを抱えているのは、クロウだ。
クロウは相変わらず、落ち着いた仕草で近づいてきた。
ゆっくりと東屋内部の様子を窺うと、ジフラールの寝かされていた場所は、備えつけの木製ベンチの上だったらしい。白とベージュのクッションが白いレース編みのクロスで覆われ、さらに手触りのいいリネンのシーツが被せられていた。
ジフラールの前には、ベンチと同じ木製のウッドテーブルがあり、その向こうには、木製のスツールが二つ。
クロウがスツールの一方に腰掛けた。微笑みを浮かべて、慣れた仕草のままポットを傾ける。テーブルの上は、お茶会でも始まりそうな様相だ。可愛らしいティーカップは、クロウが持っているティーポットと揃いのものらしい。注がれる透明な紅い液体は、飲み慣れた柔らかな香り。ティーセットと合わせて揃えられただろうテーブルウェアの数々、皿の上にはスコーンやクッキーなどのお茶請けが並んでいる。
「いつもはジルちゃんに任せきりだから、今日はアタシが用意したの。喜んでもらえるといいんだけれど……」
クロウの吐息に、ジフラールはゆっくりと体の向きを変え、座り直した。
真っ直ぐ向けられる、クロウの視線。
「あの、姐さん……ここは」
「はい、どうぞ?」
す、と差し出されたティーカップに、ジフラールは素直に手を伸ばした。受け取り、一口喉に流し込んで……はっと顔を上げる。
「まさか姐さん、あの、これにも何か入ってたり……」
「しないわよ? もう、アタシのお願いに従ってくれてるでしょう、ジルちゃんは」
満足げなその表情に疑問を覚え、ジフラールは目で問いかける。
「姐さん、そのお願いって結局」
「心配しないでも、ちゃんと説明してあげるわ。もうすぐ分かるだろうし」
クロウの笑みに、ジフラールは根拠のない安堵を覚えた。今のクロウの微笑みには、院内で見た何かを企んでいるような気配はない。
大丈夫、と、胸に手を当てて深い呼吸をひとつ。
だが、胸に当てた手の感触が、普段とは違う。まるで肌に触れているよう。
疑問に思って、視線を落とし……あまりのことに息が詰まった。




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18.ジフラール医師争奪大障害物競走(1)