17.美の基準
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 あぁ、もう二度と会いたくない。
それくらいの気持ちでいたのに、人生とは何と残酷な。
ジフラールの目の前には、無情にも、絡みつく鉄球レベルの足枷が二つ、転がっていた。
「少々よいだろうか、フォレスター氏」
「いいや、よくない!! まったくよくないよ、ルヴァール君!!」
別に、この二人が一緒にいるからといって、何の問題もない。
むしろ、二人だけで仲良くしてくれていれば、どれだけ楽だろうかと思う。
けれど。
ここは内科の医局の前であって、この二人にはまったく関係のない場所なのだ。ジフラールにも関係ないと言えばその通りなのだが、今日は用があってここへ来た。この二人がどこかへ移動するか、ジフラールを無視したまま口論を続けてくれるのなら、まったく構わないが……この状況下で、それは不可能だと思う。
運が悪いのね、と、ジフラールは溜め息をついた。
 「ですが、健康診断のレントゲン写真に関することで、少し、申し上げたいことがあるのです」
「あぁ、では、手早く言いたまえ! この私の美意識は君を視界に入れたくないと懸命に拒絶を……あぁ! 動かないでくれたまえ!!」
彼らからはずいぶんと距離を置いた位置にいるジフラールだが、早くも後悔していた。
このまま、引き返してしまおうか。
けれど……廊下の向こうから現れた一つの長身に、それさえも諦めた。
ジフラールにとっては、この上なく、不利な状況となりつつある。
 かつん、と彼の革靴が床を叩いた。
言葉が声にならず、喉の奥で喘ぎとなって漏れる。顔を上げても、いいだろうか。
「何をしている?」
予想外だったのは、彼の声が思いのほかよく通ったことだった。
「これは、ウィルジオ氏」
「あぁウィルジオ君! やっと現れたか!」
彼の声にぱっとこちらを振り返った二人の目が、ウィルジオではなく、自分自身に注がれたのを、ジフラールははっきりと認識した。
「あぁぁ曙の薔薇姫までいるではないか!! 君は薔薇で飾らずとも薔薇のように芳しく華やかだね……! さぁ、迷わず私の胸に飛び込んできたまえ!」
歌うような声に、さっと顔から血が引いた。
生理的な嫌悪。
悪い人ではないのだろうが、それでも、ジフラールは彼と対峙する気力を持ち合わせていない。焦って身を引くと、傍らの彼が、一歩前に出た。
「言う割には、俺の声に振り向くまで気づかなかったんだな。ずっとここで、立ち往生していたようだが」
「ぐっ!」
結構です、と拒絶する前に、彼は鋭くそう言い放った。言葉に詰まったフォレスターを押しのけ、現れたのはルヴァールだ。
「ジフラール女史、もしや協力してくれる気になったのかね?」
「だから、その件は……!」
お断りしました、と言う前に、再び、彼は声を響かせる。
「ルヴァール。確か、俺の提示した条件をのんだな? 破棄するのか?」
「……忘れてくれ、ジフラール女史。その話はもう済んでいたのだった」
……よく、分からない。
どういうことだかは知らないが、少なくとも、美しい骨を作る秘訣、に関する話とは、はっきり決別できたらしい。
「あの、ウィルジオ先生……条件って……?」
「お前が気にすることではない。関係ない」
う、とジフラールは言葉に詰まる。
そっと上げた視線と、彼の視線は決して合わない。
深い紅の瞳。
あの瞳が、もうこちらを見つめてくることはないのだろうか、と、少し寂しく思って……ジフラールは、自分の身勝手さに苦笑した。
なんてわがまま。
見るのが怖くて、思い出すのが怖くてずっと避けていた瞳。
注がれていた視線に応えられない自分を彼が見限るのは当然なのに。
視線が注がれなくなった途端に、それを欲しいと思うだなんて。
馬鹿な子ね、と口の中で一人呟いて、ジフラールは視線を、目の前の障害物に向けた。
「あの、それで……お二人ともこんなところで何をしてるんですか。内科の医局でしょう? 私、書類を届けに来たんですけど」
問いかけると、銀の髪をかき上げて、フォレスターがゆったりと微笑んだ。
「私はウィルジオ君に少し用があってね」
芝居がかった仕草のフォレスターをさして気にする様子もなく、ルヴァールはごく平坦な声で答えを寄越す。
「こちらはフォレスター氏に用があるのだ」
「なら、さっさと済ませろ。俺も医局に用がある。この辺でうろうろされるのは、迷惑だ」
彼は相変わらず、歯に衣着せぬ物言いをする。
あまりにも明確な言葉に、ジフラールは純粋な尊敬さえ抱く。
ジフラールでは彼のようにはいかない。なめられているのかもしれない。
「ではこちらから済まさせていただきたい。フォレスター氏。一度、整骨院へ行くことをお薦めする」
……その言葉を、一体どれだけ理解できただろうか。
「……整骨院?」
思わず反芻したジフラールの声は、酷く空虚に廊下へと響いた。
う、と閉口しつつも、その言葉の意味は知りたい。ただ静かに、ルヴァールの言葉を待つ。
「フォレスター氏、関節の乱れが酷すぎる。あれは目も当てられないほどの乱れ具合だった。どうか、頼む。整骨院へ行っていただきたい」
つ、と、ルヴァールが頭を下げた。
ジフラールの知る限りでは、こんな光景は、一度たりとも目にしたことがない。
こんなこともあるのか、と、思わず息をのんだ。
「何と……では、私では彼の代役など務まらないということか……?!」
「まさか、用事はその話か」
隣に立っているウィルジオが、馬鹿らしい、と呟く声をジフラールは聞く。
確かに……馬鹿らしいことこの上ない話だ。
「当然ではないか! ウィルジオ君、君の美しさは私も認める、だが、この私こそが全てにおいて美しい! 違うかね?!」
「比較するのも申し訳ないほど痛々しい背骨だったが」
「き、君は黙っていたまえ!!」
狼狽するフォレスターに向かって、ルヴァールはごくごく冷静に、淡々と続ける。
「まず、フォレスター氏の骨格は全体的に華奢で、一般成人男性としては美しいものではない。中性的な、小作りな骨格であるからして、私の美的感覚にはあまり。その点、ウィルジオ氏の骨格は素晴らしい。それぞれの均衡と言い、大きさ、太さ、密度。どれをとっても素晴らしいのだ。だからこそ今回、被験者として選ばせていただいた」
次第に熱を帯びてきたルヴァールの骨談義に、彼を否定していたはずのフォレスターは、なぜかすっかり聞き入っている。
分からない。
ジフラールには、両極端に位置するようなこの骨格マニアと美人マニアが意気投合するだなんて……とても考えられず、そして、考えたくなかった。
「だが、フォレスター氏のような性別の曖昧な骨格をこよなく愛する方も存在するのは確かであるからして、ぜひ整骨院へ赴き、歪み矯正を行っていただきたい。そうすることで、貴殿の美しさには磨きがかかることだろう」
「何と! 私は、まだ美しくなれるというのか!! よし、行こう、行ってやろうではないか整骨院とやら!! 私は美しくなるためであれば、どのような苦痛も厭わない!!」
「それでは、よい整骨院を紹介しよう。紹介状と詳しい状態説明を書くので、時間がよろしければついてきていただきたい」
ルヴァールの言葉に、フォレスターは二つ返事でその後を追いかけて行った。
後に残されたのはジフラールと、ウィルジオの二人だけ。
「……えっと」
「医局に用なんだろう。来い」
するり、と、隣に立っていた彼が歩き出す。
ジフラールの足枷は、すでに二人仲良く廊下の向こう側。
「……入らないのか」
声にはっと視線を向けると、ウィルジオが医局のドアを開けて、そこで待ってくれている。
「行きます!」
胸元に抱えた封筒を持ち直して、ジフラールは足を踏み出した。
身体に蓄積した疲労は、減ってなどいない。
けれど、なぜだろう。
不思議と、胸の奥は軽く、暖かかった。




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