15.鮮明な記憶
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 ジフラールはこのところ、患者への応対とは違う部分で、非常に忙しい。
それは、追い求める研究であったり、その他の物思いであったり、また、ジフラールをどこまでも煩わせてくれるいくつかの足枷、であった。
 そして今目の前に、足枷のひとつが、当然のように立ちはだかっている。
「ジフラール女史。少々、時間をいただけるだろうか」
医局に戻る最中だったジフラールは、溜め息をついて、目の前の足枷に問いかけた。
「何の御用でしょうか。ルヴァール室長」
放射線科担当医、ルヴァール。
きらり、と、分厚い眼鏡のレンズが光った気がした。
「健康診断の結果で、伺いたいことが」
眼鏡の向こうにあるはずの表情は読み取れない。けれど、彼の視線が注がれていることだけは、はっきりと理解できる。
そう。
自分の足に向かって。
「……あの、ホントに。私の足、何か変でした?」
健康診断で、全身のレントゲンを撮る必要など本来であればないのだが、この人骨マニアのレントゲン室長は、毎年それをこの病院の医師たちに強制しているのだという。
もちろん、写真を撮るためにはそれなりの費用がいる。そして、補助が出るのは当然、必要最小限の額だ。では、出ない部分はどうしているのかといえば、彼が個人的に負担しているのだと聞いた。この病院に勤めている医師は、ざっと考えただけでも百人。それら全ての骨格を写すための費用を、彼は、自分ひとりで支払っているのだ。
一体、このレントゲン技師は何者なのだろう。
若くしてこの国立病院へと赴任し、異常な趣味を持つものの、その腕は確かだ。
常軌を逸した記憶力も、思考回路も。
もっと一般的な方向を向いて動けば、ずいぶんとまともな人間になったことだろう。
……もったいない。
ジフラールはそっと溜め息をついて、彼に問いかける。
「骨折した経験とかは、一度もないので、変にくっついてる、とかではないと思うんですけど」
「もちろんだ。そんなことではない」
では、何だというのだろう。
先の読めないルヴァールの言動を予測することに疲れ、ジフラールは、肩から力を抜いた。
緊張しているつもりはなかったのだが、やはり普通の相手とは勝手が違うせいだろう。ずいぶん疲れる。
 肩から垂れかかる漆黒の長髪。蝋のように白い肌。おろしたてに見えるほど、糊のきいた真っ白な白衣。そして、分厚い眼鏡。
もう少し普通の容姿には、ならないものだろうか。
先日突然現れたあの異様な美容外科医ほどに外見に気を遣えとは言わない。
だが、せめてもう少し。
放射線室に入った患者を怖がらせない程度には、どうにかなって欲しいのだ。
じっと見つめられる違和感に耐えながら、ジフラールは、ぼんやりと思い。
ようやく告げられた彼の言葉に、眉を顰めた。
「ジフラール女史。一体あなたは、どうやってそのように美しい骨格を作り上げたのだろう」
「……は?」
 ごく普通の人間が、骨格の出来を気にしながら生きるだろうか。
少なくともジフラールは、気を配った記憶がない。
そもそも、どうすれば美しい骨格になるかだなんて、考えたこともない。
外見を必要以上に気にする趣味はないのだから、その内側はもっとだ。
「いえ、あの、申し訳ないんですけど……私、骨格の作り方は、ちょっと専門外で」
「そういった専門的な部分ではなく、日常的に、何を心がけているか、という話なのだが。今までたくさんの大腿骨を見てきたが、あぁ、よもやこれほどまでに美しいラインが存在するとは想像もしなかった……」
感情はさほど表に出てこないが、それでも、普段の彼の無感動振りを知っているジフラールにとっては、異様な光景だった。
「いや、想像を超えたものを作り上げることこそが現実の不思議。そして、私はようやく出会えたその神の曲線に感謝するべきなのだろう……さぁジフラール女史、私に教えていただきたい、何万もの大腿骨を見てきた私の記憶に、これほどまでに鮮烈な印象を与えたその秘訣を!」
……なぜだろう、この人に対する感情が、どんどんと妙な方向へと曲がっていく。
数瞬前までは、ただの変な人だったのに。
今となっては、要注意人物にまで成長してしまった気がする。
少なくとも、ジフラールとは違う世界を見ている人。
「秘訣、って……別に、これといって」
「そんなはずはない。これほどまでに美しい曲線が存在するからには、何か特別なことをしていたはずだ。もったいぶらずに教えていただきたい」
ずい、と、ルヴァールが身を乗り出してくる。秘訣が本当に存在するのなら、教えて差し上げたいのは山々だが……知らないものは、知らないのだ。
「え、えぇと、だから……あ! ミル先生っ!!」
そこへちょうど通りかかったのが、ミリエットだった。
いつもと同じ、ゆったりした足取りで向かってくるミリエットを、ジフラールは力の限りで呼び止めた。
「あれージフラールさん、こんなところで何してるのさ?」
彼は不思議そうな表情でジフラールの元へと近づいてきて、にっこりと微笑んだ。
久々に普通の人に出会えたような気がして、ジフラールはほっと安堵の息を吐く。
「えぇと……わ、分かりません」
誤魔化すように笑うと、彼は傍らに立っていたルヴァールに気づいたらしい。いたって普通に、挨拶を交わした。
「……あ、ルヴァール室長。こんにちは」
「ミリエット医師。ご機嫌はいかがか」
「うん、普通」
予想外に平凡な会話で、ジフラールは違和感を抱いた。
彼のことだから、きっと、ミリエットが相手でも、普通じゃないと思ったのに。
相手によっては普通なのかしら、などと思ったジフラールを、けれどすぐさま後悔が襲った。
「で? またリサーチして回ってるの?」
「その通りだ。月刊『美しい骨格』に掲載する資料は、多ければ多いほど助かる」
「相変わらずだねぇ。特集組んだって本当?」
「当然だ。私の記事は人気があるらしい」
……やっぱり、普通じゃない。
そもそも、会話の中心に位置する不可解な名称が気になる。
「……あの、つかぬことをお聞きしますけど……何ですかその月刊『美しい骨格』って」
問いかけの言葉に、ミリエットは不思議そうにぱちぱちと瞬き、驚きの表情。ルヴァールは……やはり、これといった感情を浮かべていない。
「ジフラールさん、知らない?」
「……はい。勉強不足で、申し訳ありません」
予想外、を絵に描いたような瞳に見つめられ、ジフラールは肩を落とす。その月刊誌は……本当に、有名なのだろうか。
「気にしないでいいよ? ただ、うちの病院では知ってる人が多い、ってだけで。ルヴァール室長がコラム連載してるんだよ、その月刊誌に。その手のファンにはかなり売れてるらしいけど?」
その手のファンとは、どういう意味なのだ。
聞きたいが聞けない。いや、聞きたくない。
「そういうわけなのだ、ジフラール女史。名前は伏せる。匿名性は重視しているからな。さぁ、案ずることはない。思う存分、私に、その秘訣を語っていただきたい」
「いや、あの、だから……」
「特に左大腿骨。それはもう奇跡のような美しさだった……!!」
「へぇ、そんなに綺麗な骨してるんだ、ジフラールさん。室長がこれだけ褒めるのって、滅多にないんだよ?」
あぁ、と熱い想いを吐露するような息を吐くルヴァールに、いつもと同じ微笑みを浮かべて、ごく当たり前のことのように骨談義へ参加するミリエット。
 ジフラールは泣きたくなる。
案ずることとか、そういう問題ではないのだけれど。
ジフラールは、蓄積されていく疲労を思って、溜め息をついた。




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15.鮮明な記憶