14.健康診断
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 だって、嫌なものは嫌なのだ。
「ミル先生っ!! この通りですっ、お願いだから、見逃してくださいっ……」
泣き出しそうな自分の心を奮い立たせ、合掌し、力いっぱい頭を下げたのに。
「んー、いくらジフラールさんの頼みでも、それは聞けないよぉ。ジオが苦手だから内科検診やだ、なんてさ」
それでも、嫌なものは嫌なのだ。
だって、内科検診。ということは、心音を聞かれて、肌に触れられる。
検診なのだから当たり前、と言われればそれまでだが、ジフラールにはそれが自分の体調云々よりもずっと重要なのだから。
「だだだだってミル先生、私これでも女ですよ?! ウィルジオ先生は、男性でしょう? は、恥ずかしい、じゃないですか!!」
本当はそれだけで嫌がっているわけではないのだが、まっとうな意見を言っておいたほうが、通りやすいはずだ。懸命に主張してみる。
だがしかし。
「そう? だって、他の女の先生、嬉々として診察受けに行ってたけど。他の先生なんか見向きもしないでさ」
そうだ。この病院において、まっとうな意見など存在しない。一般的に見てまっとうな意見は、この病院では少数派意見にあたる。
普通の反応を求めるだけ、無駄なのだ。
「だから、私はウィルジオ先生の手を煩わせたくないし、別の先生に……!」
「そんなこと言っても、ねぇ。今の時期、学校や会社の健康診断に行ってるとか、学会があるとか、みんな慌ただしいから、他の人にしたって手を煩わせるのは同じだよ」
懸命な反論も、簡単に打ち砕かれる。
こんなときばかりは、普段とても優しいミリエットも、はっきりと言う。
つまり、付け入る余地はない、ということ。
「うちの病院は、手の空いてる人が医師の検診を担当するのが決まりだもの。それが今年は、ジオだった、ってだけのことでしょう? ジフラールさんと仲のいいロイ先生は、毎年女性の検診は絶対にしないし」
それでも。
それでも……こんな状態で、まともな検診結果がでるとは思えない。
ウィルジオが診察するのだと思うだけで、こんな風に手の平に汗をかくほど緊張する。脈など乱れきっているだろうし、心音がおかしくなる自信もある。
とても、耐え切れそうにないのだ。
「ミル先生……どうしても、駄目ですか?」
「というか、どうしてジフラールさんがそこまでジオを嫌がるのか、僕は不思議だよ」
何気ないミリエットの言葉に、ジフラールはさっと汗が引いていくのを感じた。
血の気が引いて、薄寒い記憶に支配される。
ぎゅ、と、強く胸元のシャツを掴んで、耐える。激しくなる動悸に、背中を嫌な汗が流れた。
まだ、駄目だ。こんなことでは、とても彼女に会えない。
彼女に会うためにこの病院を選んだというのに、こんな自分のままでは……きっと、彼女の目を見つめる事さえ出来ない。
あの輝く柘榴色の瞳。眩いばかりの金の髪。
愛玩人形のように可愛らしく、繊細な少女。内に大きすぎる悪夢を抱えていた、哀しい、少女。
覚えている。何も出来なかった自分の不甲斐なさを。旅立つ彼女の、潔い微笑みを。
彼女のようになりたい。
年下の少女の眩しいばかりの強さを、羨ましく思った。
「ジフラールさん!」
「え?」
「……どうしたの、顔、青いよ。大丈夫? ごめん、何か、いけないこと……」
「いえ、そんなこと、ないです。ちょっと、昔のことを思い出しちゃって……でも、大切なことです。ありがとうございました」
そうだ。大切なことだ。
彼女との思い出。忘れられない約束。今もまだ続いている、確かなつながり。
頑張らなければ。
「へ? あの、ジフラールさん?」
「健康診断、行ってきます。どうせ後回しにしても仕方ないし」
ミリエットが、困った顔で見つめてくるのに、微笑みを返す。
ミリエットは、とても、優しい人。
そして、とても厳しい人。アルサスやウィルジオに繋がる、厳しさと決断力がある。
ここまで粘って、もう、手も尽くした。
覚悟を決めなければならない。ジフラールは、よし、とひとつ呼吸を置いて、内線電話の受話器を上げた。震える指で押した4桁番号と、続いて響いたコール音が切れると、低い、はっきりとした声が胸を震わせる。
「外科の、ジフラールです。内科検診の、予約をお願いします」

 予約のつもりが、今すぐになるというのは、一体どういうことだろうか。
だが、今なら空いているから来るなら来い、という言葉に逆らうことは出来なかった。
電話の向こう側から告げられた『暇な時間』は、ジフラールにとって都合の悪いものばかりで、言いよどんでいるところに、それなら今すぐ、と言う提案。
嫌でも無理でも、そうするしか、仕様がなかった。
「……ロイ先生の診察室に行く足取りの軽さは何だったのかしら」
やはり、行き先にいる相手によって、足の重さは変わるものなのだな、などと考えながら、ジフラールはようやく、彼の診察室にたどり着いた。
ドアの前で、ひとつ深呼吸をする。
頑張れ、自分。
力づけながらゆっくりとドアノブに手を伸ばし、そして。
自分で扉を開く前に、扉が開いた。
「ドアの前で何してるんだ」
当然のことながら、ドアの向こうから顔を出したのは、深い紅の瞳を持つ、ウィルジオ、だった。
 「下着は外せ、薄いシャツがあるならそれは着たままでいい」
首に聴診器をぶら下げたままのウィルジオに、あぁ、これから診察されるんだ、などと漠然と思う。
いっそこのまま逃げてしまおうか、と思ったが、相手は彼だ、逃げてもすぐつかまるに違いない。
「……さっさと済ませて、早く帰りたいだろう」
確かに、と納得しかけ、ん、と違和感に首を傾げる。
電話越しでは分からなかったが、彼の声が、心なしか硬い。
ジフラールはその声の理由を、知っている。
あれは……彼にとって、どうでもいい人間に向かってかける声、だ。
今までは、そうでもなかった。ミリエットがいたからなのかもしれないが、それでも、今耳に響いた声よりは、まだ親しみを持って接してくれていた気がする。
なのに。とうとう、きてしまった。彼に、見放される瞬間。
この声はきっと、ジフラールの今までの失礼な行動が積み重なった結果に違いない。
胸に、きりりと痛みが走る。
「……おい」
「すぐ支度します」
硬い声に、震える呼吸を叱咤して、何とか前へ進む。衝立の前にあるかごへ、白衣を脱ぎ捨て放り込んだ。
 「……身体を見るのが目的じゃない。心音と肺の音を聞くだけだ」
分かってるだろう、と言われ、はい、と頷く。
それでも、診察用の丸椅子に座れば、緊張するのだ。
目の前に、彼が座っていることへの緊張。
「俺の顔が見たくないなら、目を閉じていればいい」
「……はい」
まるで……彼が自分自身を傷つけるためのような言葉。
けれど、ジフラールはその言葉に従って、目を閉じる。
見たくないわけではない。
本当は、彼の目が好きだ。
深い色。人の体の中に流れるものと、よく似た色。
ただ、ジフラールの内に眠る記憶が、その瞳を見つめることを拒絶する。
見たいけれど、見てはいけない。
彼に彼女を重ねたくないから。
目を閉じ、そっとシャツを捲られる感触に息を呑む。
大丈夫、と、自分自身に言い聞かせた。
 あの瞳を、彼の瞳として見つめられるようになったら。
本当のことを話そう、と、ジフラールは決めた。




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