13.百万本の薔薇と共に
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 その日のエルスワース病院は、朝からおかしかったのだ。
ジフラールは、わけの分からない違和感に苛まれながら廊下を歩いていた。
朝、ロビーに入った瞬間から、その違和感はずっとジフラールに付き纏い、しつこく自己主張するのだ。
高貴な花の香で。
 いつもなら、もっと大人しい、白を基調とした花が活けてあるロビーに、今朝は、なぜか淡い紫と、黄緑、そして白の薔薇が、花瓶からはみ出しそうなくらいに活けてあった。
別に、それは悪いことではない。ジフラールは花が嫌いではないし、薔薇も人並みに好きだ。
けれど。
外科の医局には微妙に色の異なる三種類の紅薔薇が、医師それぞれのデスクに活けられてあったし、噂に聞く限りでは、他の医局も同じ有様らしい。
ようするに、今日は朝から病院中が薔薇に埋め尽くされているのだ。
「どうしたのかしら、これ」
わけが分からない。
先ほどもナースたちが、せっせと薔薇のコサージュを作っていた。
確かに、薄桃、薄青、生成り色のナースたちの制服に、色とりどりの薔薇の花は彩を添えて美しい。けれど、だからと言って。
「どうしてドクターまで、白衣につけなくちゃならないのよ」
こんなぼやきを同い年の看護主任が聞けば、きっと満面の笑みで言うことだろう、白一色なんてつまらないから、と。
そんなわけで、ジフラールの胸元には、いつも使っている黒い万年筆の隣に、でんと濃い紫の薔薇が鎮座している。美しいのは確かだが、花をつけている、と自覚すると、それだけで無意識のうちに花を気にしながら動いてしまう。もうすぐ昼休みだが、一日中働いたかのように疲れきってしまった。
「早くはずしてもらおう……」
疲労を溶かした溜め息をついて、ジフラールは医局目指して、再び歩き始めた。
そして、
「ひゃん!」
――顔から、誰かにぶつかった。
ぶつかったのは、相手の肩少し下あたり。
ジフラールは、それほど身長が高いわけではないから、この人くらい身長がある女性はたくさんいるだろう。けれど、ぶつかったその部分の肉の硬さは、明らかに女性のものとは違っていた。確かに……男性にしては細すぎる気もするけれど。
「ご、ごめんなさい、私の不注意です」
慌てて謝りながら、その人の補助で、傾いた体勢を立て直す。
離れた瞬間に、ほのかな薔薇の香り。
そして、離れてしまうと同時に、濃い薔薇の香りに襲われた。
「いいや、私も気分が高揚していてね。気にすることはない……曙の薔薇姫」
……今、何やら妙な言葉を聞いた気がする。
「素晴らしい病院だね。私のためとは言え、病院宛に送られてきた薔薇を、こんな風に無駄にせず生かし、そして……君に廻り逢わせてくれたのだから」
「は、はぁ」
「さぁ、曙の薔薇姫! 君も共に私の新しい門出を祝ってくれたまえ! この、百万本の薔薇と共に!」
「ひゃくまんぼん……?」
百万というのは、百が一万個ある、という意味だ。一万が百個、のほうがニュアンスは捉え易い。
しかし、その数を表す言葉が、薔薇の数として使われたというのは一大事だ。
「こ、この病院に百万本?! どうしてそんなにたくさん……!!」
「私の異動を知った花たちが、愛をこの美しい薔薇に変えて贈ってくれたのだよ……あぁ、私は何と罪作りな」
 ソルティスに相談したら、クロウではなく、この人を追ってくれるだろうか。
ジフラールは、胸元の薔薇に目を落としてぼんやりとそう思った。
「だが、過去の花たちを育てた私にも、やはり手に入れられないものはある……分かるかい? 曙の薔薇姫」
問いかけられ、初めてジフラールは、目の前の人を見上げた。
それまで、顔を上げる元気さえなかったのだ。
さらりと肩に垂れかかるのは、銀の髪。長いが、丁寧に手入れされていて、本物の銀のように、光を受けて輝いている。形のいい顎、程よい厚さの美しい唇、すっきりとなだらかな頬に、通った鼻梁。切れ長の瞳の色は、澄んだ碧。整えられた眉、前髪から覗く額に至るまで、何もかもが、卓越した美しさを宿す……変な人。
黙って薄く微笑んでいればいいものを、なぜこの人は口を開くのだろうか。
それだけで、何もかもが台無しになる気がする。
沈黙は金。素晴らしい言葉ではないか。
 すでに疲労のピークを迎えているジフラールは、彼の『曙の薔薇姫』という呼称をやめさせることさえ出来ない。むしろ、自分の名を名乗ること事態が無意味なもののような気がするのだ。それに、礼儀には反するが……正直に言って、名乗りたくない。
「うぅむ、やはり君にも分からないことがあるのだね。よし教えよう。私が手に入れられないもの、それは……何者にも負けることのない究極の美!」
ばばーん、とでも音楽を鳴らせばいいだろうか。
自分の言動に心底陶酔したその人は、優雅に両手を広げ、何らかの感情を表現しているのだろう。
ジフラールには、ただの変な人にしか見えないが。
「この薔薇のように、世界を従えてしまうような美しさ……時代の流れにとらわれず、常に美しくあろうとする薔薇のように! 私の育てる花たちも、咲き誇ってくれればよいのだが……」
悩ましげに瞼を伏せるその姿だけならば、芸術にも値するだろう。
けれど、彼の言葉をわけの分からないまま受け流す今のジフラールには、その仕草さえ拷問に感じられた。
どうしろというのだ。この状況を。
と、言うよりも。
「あの……つかぬ事をお聞きしますが」
「何かね? 曙の薔薇姫! 君の美しい声が何を私に訊ねたいと!」
一言一言に蓄積されていく怒りというか、行き場のない憤りを懸命に押さえ込み、ジフラールは問う。
「あなた、誰ですか」
ばさり、と、彼の手から何かが落ちた。
白い薔薇の花束だ。ジフラールは、それを彼が振り回していたことにさえ気づかなかった。いや、気づくのも面倒だったのか。
ジフラールの問いに、彼はしばしの沈黙で答え、ジフラールも、そっとその答えを待った。
沈黙は金。何と美しい言葉だろう。
そのまま、彼は沈黙を守り、ジフラールも待った。
どれくらいの時間が過ぎただろうか。
彼は、ようやく震える指で髪をかき上げた。さらり、と髪の鳴る音がする。
「……薔薇姫に、失礼なことをしてしまったね。では名乗ろう!」
再び、彼は芝居がかった仕草で両手を広げる。
「私の名はフォレスター! この病院に赴任することとなった、最高の美容外科医だ!」
そうして、彼は笑った。
「君は私の運命だ。曙の薔薇姫……いや、ジフラール君」
あぁ、このまま意識を手放してしまえれば。
どれほど幸せか、と、思った瞬間に、視界が闇に包まれる。

――ジフラールは、そのまま気を失った。




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