11.ハタ迷惑な人々
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 向かう先が医局ではなく、個人の診察室であると、こんなにも気が楽なのか、と、ジフラールは足取りも軽く廊下を歩きながら思った。
目指すのは、例の彼ではなく、その先輩内科医であるロイ医師だ。
同じ外科の医師から頼まれた書類が入った封筒を大事に抱えて、ジフラールは機嫌よく笑う。
 この間は、災難だった。
ミリエットの体に隠れて見えなかった彼……ウィルジオと、ほんの数分ではあったが、同席することになるなんて。
もし何か話しかけられたら、と不安を抱いていたのだが、ジフラールが席についた後、彼は文書処理だけに専念していた。そっと覗き見た書類の上の彼の字は、人それぞれの癖を排除した、お手本のように綺麗な形をしていた。
彼が、そこにいる。同じテーブルについている。
ただそれだけのことで、なぜだか、ミリエットと交わした言葉さえ、記憶に残っていなかった。
 そうこうしているうちに、目的の場所へと辿り着く。
診察室、と記されたプレートの下には、ロイ医師のフルネームが。
ここだ、と、ジフラールは扉をノックする。
「はいはーい、どーぞー」
奥から、聞きなれた声が響いた。
「お邪魔します、外科のジフラールです」
「んん? あ、ホントだ。やぁ、ジル先生。いらっしゃい」
扉を開け、室内に身体を滑り込ませる。布製の衝立の向こうから、彼の声。
「おいでよ、今、暇だから。座って」
「はい、失礼します」
かかった声に従い、衝立を回り込んで避ける。
その向こうに、目的の人はいた。診察室にひとつずつ配置されている事務机に向かって、書き物をする背中がまず視界に飛び込んでくる。白衣を纏っているため、真っ白だ。そして、少し上に視線を上げると、淡い金の髪が、窓から入ってくる風に揺れていた。
ロイの金髪は、苦痛ではない。彼女の髪は、とても濃い金髪だった。けれど、彼の髪は、日の光の中にでもいれば銀糸に見えるほど色素が薄い。だから、彼のように拒絶したくなるほど、過去を思い出さない。それは、ジフラールにとって一種の逃避だった。
分かっていてもどうにも出来ないことは、世の中にたくさんある。人の心は、特に繊細なものなのだから。
患者が座るための、背もたれのない丸い回転椅子に腰掛ける。
「よし、と。はい、こんにちは」
「こんにちは」
まるで診察を受けに来たようだ、と少し楽しく思いながら、ジフラールはロイに向かって頭を下げた。
柔和な、人柄を表した微笑み。ジフラールが懇意にする医師の中で最年長となるロイは、いつもジフラールを、優しく見守ってくれる。青とも緑ともつかない瞳には、いつも、穏やかな光を宿していた。
「さてと、で? 今日は、どうしたの?」
「はい、外科のムール先生から、書類を渡してきて欲しい、って頼まれました」
どうぞ、と封筒を差し出す。ロイは、ほんの少し不思議そうな顔で、けれど、ちゃんとその封筒を受け取ってくれた。
「ムール君? 不思議だねぇ、今朝、会ったばかりなのに。忘れてたのかなぁ」
「……そうなんですか? ムール先生、いつもすごくきっちりしてる人だから、どうしたのかな、って、ちょっと心配だったんですけど」
ムールは、ウィルジオと同期の外科医だ。時間に厳しく、規律正しく。無駄のない行動のあちこちに、彼の有能ぶりを垣間見ることが出来る。
「……嫌な予感」
「え?」
「いや、独り言」
ぱたぱたと手を振ったロイに、ジフラールは緊張させた肩から力を抜いた。
「まぁ、ムール君が忘れたくらいなんだから、さほど大切なものじゃないでしょ。この書類は後で見るとして」
「はい。それじゃ、長居してもお邪魔ですので、失礼しますね」
「うん。ありがとう、お疲れ様」
席を立ったジフラールに続いて、ロイも椅子から腰を上げた。
「またいつでもおいで。心配なことがあるなら、相談に乗るから。彼のこととかも、ね」
「え、か、彼、って、あの、その」
分かっている。ロイの言いたいこと。ジフラールにとっての『彼』。
慌て、狼狽して、足の運びを誤ったのだろうか。
「っきゃ……!!」
ずるっ、と足を滑らせる。一度経験したことがあるのだが、この床は転ぶと痛い。本当に、本当に痛いのだ。出来た青痣が数週間に渡って消えなかったことを、まだ覚えている。
嫌だ、と、とっさにそばにあったものを掴む。するとそれが、ジフラールを掬い上げるように、しっかりと支えてくれた。
「……え?」
「大丈夫? ジル先生、結構危なっかしいねぇ」
掴んでいるのは、真っ白な白衣の袖。
ジフラールが抱きとめられているのは、ロイの、体。
「あ、あ、えと、ごごごごめんなさいっ」
「いや、別にそこまで慌てなくても。怪我なくてよかったよ」
「ロイ先生……」
自分がどじを踏んだのに、ロイは優しい。
やっぱり素敵な人だ、と思ったその瞬間だった。
「アナター? ご飯一緒に……」
ノックもなしに、正面の扉が開いた。
顔を覗かせたのは、看護主任のシーナ。ロイの、愛妻だ。
 まずい、と、瞬間的に思考を働かせたのは、両者ともだったらしい。
いつもは穏やかで名医と評判のロイだが、妻が絡むと途端に変貌する。
彼は医師だが、男である前にシーナの夫で、いつでもどこでも甘い空気を醸し出しているのは、周知の事実。
また、同様にシーナも、夫であるロイをこよなく愛していて、理由はどうあれ、こういった状況になると。
「だ……ダーリンのバカぁぁぁっ!!」
「ちちち違うんだハニー誤解だ! 誤解なんだよこれには深い訳がぁぁっ!!」
「言い訳なんて、聞きたくないわっ!! ジル先生が相手じゃ、私なんて、私なんて勝てっこないじゃないっ!!」
「そんなことはない! 僕は断言できる! 僕は、シーナを愛してるんだっ!!」
「だ、ダーリン……」
「さっきのは、転びそうになったジル先生を支えただけなんだ。僕が愛しているのは、ハニー、君だけなんだよ……」
あまりの速さで展開される夫婦喧嘩と仲直り。
これが、犬も食わない何とやら、という奴なのだろうか。寄り添いあう二人を見て、ぼんやりと思う。
 だが、せめて。
せめて、ジフラールが出て行くための扉をふさぐような形で繰り広げるのは、やめていただけないものだろうか。
すでに二人は、新婚もかくやの甘やかな雰囲気に包まれている。それ自体に、不満はない。ジフラールはロイを素敵な人だと思うが、それは恋愛対象としてではないのだから。
診察室から脱出することもかなわず、ジフラールはすでに二人の世界を築き上げられたあたりを極力見ないようにしながら、そっと、そっと溜め息をついた。
ここから出ることが出来たら、真っ先にムールに文句を言いに行くのだ、と決めて。




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