10.午後のひととき
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 一体いつからだっただろう。
暇を見つけては、この天才と呼ばれる外科医が、ウィルジオのいる喫茶室のテーブルにやってきて、茶を飲むようになったのは。
「ジオの隣は、居心地がいいんだ」
そう言って笑う、ひとつ年下のミリエットを、わざわざ拒む理由もない。ウィルジオはいつも、向かいに腰掛けて、自分の作業を進めるのが常だった。
 ウィルジオは内科医で、循環器系を専門とする。
すなわち、心臓の医者、だ。
だから本当であれば、消化器系を中心に診るミリエットではなく、心臓血管外科……数ヶ月前にこの病院へやってきた若い女医と、交流を深めなければならないはずだった。ウィルジオも、そのつもりでいたのだ。女医だからといって、特別気にすることはない。腕のいい女医は、たくさんいる。この国立病院へ引き抜かれて来たということは、それだけの才の持ち主に違いない。そういう意味では、期待していたくらいだ。
けれど。
ウィルジオには後ろめたいことなど何もないのに、彼女の方は、酷くウィルジオを避ける。
初対面からそうだった。
こちらの顔をまじまじと見て、息を詰まらせたように上着の胸元を掴んだ。
何でもありません、と言って、再び顔を上げたときの青白さなど、見られたものではなかったのに。彼女は、こちらが見ていても痛々しいような泣き出しそうな顔で、微笑んでいた。かける言葉など、探しても見当たらなかった。
 それが、ウィルジオと、ジフラールの出会いだ。
それからことあるごとに顔を合わせ、廊下でも鉢合わせたが、彼女の態度は変わらない。まるで、視界に入れるのも嫌だと言わんばかりに、目を逸らす。他者の態度に、これと言った思いを抱くことの少ないウィルジオでも、さすがに心苦しい。彼女にそこまで拒絶される理由を、ウィルジオは持ち合わせていないのだから。
 好きでこんな顔に生まれたわけではないが、せっかく両親からもらった顔だ。あるものを使わないのは馬鹿のやること。今までは、表情のコントロールさえ誤らなければ、取り立てて嫌われることはなかった。
好意を持って接してくるものには、それなりの対応を。知人には知人の、好ましくない人物には、それ相応の対応をしてきた。
だが、自分がその対応を決める前に拒絶されたのは、初めてのことだった。
顔も見たくないと目を逸らされたことは、一度もなかったのだ。
「ジオ? ……大丈夫?」
「あぁ。少し考え事だ」
答え、顔を上げると、小首を傾げたミリエットの姿がある。
この男も、もう二十代後半に差し掛かったというのに、なぜこんな仕草に違和感がないのか。ウィルジオがやれば、きっと末代まで伝わる恥になるに違いない。
「珍しいね、ジオが、書類ほったらかしで考え事、なんて。ジオは書類書くとき、躊躇ったり考えたりって、ないもん」
「あぁ……書類に書くことは決まっているだろう。その内容が場合によって違うだけで」
「その内容がよくわかんないから僕は迷うんだよ」
小さく笑って、ミリエットが手の中の紙コップをテーブルに置く。
頬杖をついて、何かを考え込む仕草。
「ジオの考え事、当ててみていい?」
「分かるのか?」
そこまで思考を読まれるほど、垂れ流しにしていただろうか。
他人に言わせれば『呆れるほど表情のない』顔なのだから、それはないはずだ。
だとすれば。
「だって、ジオの考え事なんて、わけの分からないものとか、理不尽なものの分析だけでしょう。ジオは、選択を躊躇わない。何事も即断即決、って感じだもん。だから、分かるよ。ジオにとって今、一番理解不可能なもの」
目の前のミリエットは、訳知り顔で微笑んでいる。その笑みの奥に、わずかな不安が見えるのは、ミリエットがウィルジオと違い、とても素直で、綺麗な心の持ち主だから。
だが、その不安の意味は、ウィルジオには、分からない。
「ほら、来た。ジオの悩み事」
そう言ったミリエットの視線を追って、顔を巡らせた喫茶室の入り口に。
彼女が、いた。
「ジフラールさーん、やっほー」
室内に、まるでカレッジの食堂で聞いたことのあるような声が響く。
ウィルジオ自身は、さほど食堂に居座ったことはないが、それはどう考えても学生時分の軽い口調であって、仮にもこの病院稀代の星、とまで呼ばれる有名外科医が発していい言葉ではないはずだ。
思わず、脱力する。
「……ミル、お前、もう二十六、だよな?」
「うん、そうだけど? この秋に二十六。ジオはもうすぐ二十七だね。ジフラールさんは、二十五になったばかりだから、まだまだ先のことだけど」
それがどうかした? と、こちらを振り返るミリエットの表情に、大人ぶった気配や、思考は見当たらない。どこまでも純粋に、清らかに。
ミリエットは、変わらない。
「……そうだな。お前は、そのままでいい」
「え、何、それ。ジオ?」
「ウィルジオ、先生?」
え、と、思わず顔を上げた。ウィルジオたちのついているテーブルから、数歩離れた位置。
そこに、声の主が立っている。
「あ、あぁぁあの、その、お、お邪魔しました」
ぱっと目をそむけて、ジフラールは、頭を下げた。
 日の光に透けると、その瞳が濃い紫から、菫色に変わるのを知っている。薄茶の髪が金に見えるのも。
けれど、彼女はウィルジオを見ない。真っ直ぐに、こちらの目線に向かってくることがない。この病院において、彼女が視線を合わせようとしない人間は自分ひとりに違いない、と、ウィルジオはつまらない自信を持っていた。
何せ、小児科の患者に話しかけられれば、その場に屈み、視線を合わせてから会話を始めるような女だ。背の高い相手であれば、顔を上げる。けれど、ウィルジオ相手には、決して顔を上げない。ようするに、ウィルジオの顔を見たくないのだ。
それでも時折、彼女が油断するのか、目が合うときがある。彼女はすぐに苦痛の色を浮かべて、時には胸元に手をやって、すぐさまウィルジオの視線を拒絶する。
 ウィルジオにとって、紫の瞳に出会うその瞬間は、一種の自己満足だ。視線が合った途端、途方もない安堵が湧いてくる。だが、次の瞬間には、それが後悔に摩り替わる。
まただ、と。
同じではないのに、それでも。
瞳の色、柔らかな髪の色。
安堵が後悔に摩り替わろうとも、それによって自己嫌悪の念が沸こうとも。
ウィルジオは、躊躇わない。
今はもうないはずのその色を、見つけられることの安堵。ただの感傷であり、彼女への侮辱であることは知っている。
それでも。
ウィルジオは、彼女と向き合いたい。
失ったものとは別のものである彼女を、感じてみたいと思うのだ。
「邪魔なんて、されてない。ここでよければいればいい」
「えっ、や、でも、そんなわけにはっ」
呟いた言葉に、彼女は露骨な反応をした。予想外の言葉への驚き。
「そうだよー、大体、僕がこっちおいでよって呼んだんだからね。ジフラールさん、ここにいてよ」
「で、でもっ、邪魔するかもしれませんからっ」
ミリエットの言葉にまで首を振るのは、やはり、そうなのかもしれない。
「大丈夫だってば。ね? ジオ」
「あぁ」
「だって、そんなの」
紙コップを手の中に包み込んで持つ彼女から感じられる、困惑。それでも、ウィルジオは、彼女を知りたい。この顔を真正面から見られない、その理由を。
「ほら、コーヒー、冷めちゃうよ?」
「え、えと、うーん……じゃ、じゃあ、ちょっと、だけ」
あぁ、と、納得する。ミリエットの誘いには乗っても、自身の誘いには乗らない。
つまり、ウィルジオは邪魔なのだ。いくら鈍くても、さすがに分かる。
彼女はウィルジオが苦手で、ミリエットに好意的。
だから、彼女は……そういうこと、なのだろう。
 意識を手元の書類に向ける。ペンを握り直し、ひとつ呼吸。
ライトの電源を入れるように、切り替わる意識の全て。
特徴の薄い、模範のような文字を連ねながら、頭の片端で、彼女が余った椅子に腰掛ける音を聞いた。
ただ、この書類を書き上げ、席を立つことが出来るようになるまではそこにいて欲しいと、ぼんやり思う。




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10.午後のひととき