09.信念の元に
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 「……と言うことで、よろしいでしょうか」
「あぁ。了解した」
普段よりも低く響いた彼の声に、ミリエットは苦笑する。
今は次の手術の打ち合わせ中だ。誰かが突然、このミーティングルームに入ってくることはない。
視線を落としたカルテから顔を上げ、目線を上へ。
行き当たった彼の表情は、やはり不機嫌そうだ。
「何か、粗相がありましたか? アルサス先生」
「いいや。まったく、整形外科のクレノイアに見習わせてやりたいくらいに、よく出来ているよ」
そう言って、テーブルの上に並べた資料を指先で叩く。軽やかな音が響いた。
けれど、やはり表情は不機嫌なまま。困ったな、とミリエットはひとつ溜め息をついて、もう一度、笑った。
「天才脳外科医のアルサス先生は、僕があまりお気に召さないようで」
いつも可愛がっている、ウィルジオとは違って。
 ぽつん、と零れた言葉は、もう戻らない。
あ、と息を呑んで、慌てて顔を上げる。
目の前に腰掛けている脳外科医は、唖然、という言葉が似合いの表情で、ミリエットを迎えてくれた。
「あ、あの、アルサス先生」
今まで見たこともなかった、アルサスの珍しい表情。
こんなものを引き出すほどの失言をしてしまったのだと悟り、ミリエットは焦る。
悪気はなかったんです、ごめんなさい……そう言おうとする前に、彼の表情が、変わった。
「ミリエット。よく聞くがいい」
すぅと細められた瞳は、ミリエットを窘めるときの瞳だ。
この病院でミリエットをちゃんと叱ってくれる人は、とても少ない。
「俺が嫌う人間には、大きく分けて二種類のパターンがある。いいか? まずひとつめは、自分を卑下する人間。そして、もうひとつが、自分の才能を過信する人間だ」
「へ……? あ、は、はい」
同意を求める響きに、ミリエットは頷いた。
一体どんな話になるのか想像もつかないが、彼の話は、ためになるものだ。
ミリエットには、そう刷り込まれていた。
「人の命を預かる医師たるもの、自分の腕に自信を持たねばならない。自分を卑下するような真似は慎むべきだ。自分の腕を信じられないような医師は、手術や治療に携わるべきではない。どこぞのカレッジで解剖やら概論やら、実技に関わらない教授職にでも就くのが最良だろう」
こつ、こつ、と指先でテーブルを叩きながら、彼は続ける。
「自分を信じられない人間は、自分の存在価値を疑うものだ。そんな人間に、俺は執刀などさせたくない」
「はい」
そして、彼は指の動きを止めて、顔を上げた。
「ミリエット。お前は、そんな人間にはなるな」
「……はい」
「最近のお前は、どこか変だ。とても明るくなった、それは俺もいいことだと思っている。だが、どうしてだ? お前は時折、俺やジオに、卑屈な態度をとる。お前は、俺でもジオでもなく、お前だ。お前はお前で、堂々としていればいいものを」
あぁ、やっぱり彼の話はためになる。そして、とても……痛い。
「お前は、自分の才能を、能力の限界をまだ知らない。だから、お前は過信することを知らない。だが、お前が自分を卑下することによって、その才能は開花することなく枯れてしまう。俺は、最高の人材が、その能力に見合うだけの医師へと成長する様を見届けたい。お前は……自分でその才能を捨てるな」
真っ直ぐに見据えてくる瞳は、強い輝きを宿してミリエットを射る。
彼は、いつも正しく、明確な言葉でミリエットを導いてくれる。
迷い、戸惑うミリエットに、次の道筋を、己のあり方を示してくれる。
「迷わず、前に進むことを考えろ。お前には、その力がある」
「はい」
胸にあった不安が、少しずつほどけていく。
この病院に来て、よかった。
そう思える、不思議な安堵。
「もしお前に、何か不安を抱かせているなら、俺のせいだろう。ジオはお前を全面的に信頼し、とても大切に思っている。だが、俺も……お前を、心から大切にしていることを、忘れないでくれ。ジオとお前は同列だ。実の弟のように、大切に思っている」
ゆっくりと、彼の手の平が伸びてきた。
その手が、ミリエットの頭に乗せられ、そのまま、荒っぽく髪をかき回される。
「わ、わわっ」
「確かに、お前の知らないジオを、俺は知っている。ジオと俺は、ずいぶんと長い付き合いだ。だが、想いは共に時間を共有した長さではないと、俺は思うが」
彼の手から伝わってくる、優しさ。暖かさ。
ミリエットは、その温度を信じる。アルサスは、ミリエットの欲しかった、普通の友人で、師であってくれる。
「俺はお前の可能性を、才能を信じている。俺を、失望させるな」
笑い声交じりの言葉に、上目で彼を見た。
柔らかな、ジオに向けるものと同等の笑み。兄弟や家族に向けるような、人を安堵させる笑みだ。
「はい」
頷いたミリエットに、彼は、しっかりと笑ってくれる。
普段通りの、自信に満ちた、天才と呼ばれる者の笑みで。
「では、俺はもう行くぞ。お前もそろそろ戻らねば、ナースたちに叱られる」
「僕、アルサス先生がナースに叱られる姿、想像出来ません」
「俺がいつ叱られると言った? 叱られるのは俺ではなく、お前だ、ミリエット」
お前、ナースたちに可愛がられていると言うか、舐められているだろう。
言われて、言葉に詰まる。ウィルジオにも同じような指摘をされたし、ミリエットも、その通りだと思っていたから。
資料をまとめ、颯爽と白衣を翻したアルサスの背中を、目で追う。
取り残されるように閉まったドアに、もう、ミリエットは寂しさを感じない。
「アルサス先生の、信念の元に」
彼の仕草を真似て、纏う白衣の裾を翻したミリエットは、堪えきれずに吹き出した。




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09.信念の元に