08.それが2人のタイミング
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 廊下を行く足取りが軽いのは、この先にいる人への好意ゆえだろうか。
ジフラールはそっと笑いながら角を曲がった。
そこにあるのは、薬剤師のいる薬局だ。
ただし、ジフラールの目的は、薬局にある点滴のパックでも、患者のために処方した薬でもなく、それらの処方箋を書く薬剤師のクロウなのだが。
「クロウ姐さーん、こんにちはー」
「あら、ジルちゃん。いらっしゃい。どうしてアタシの休憩時間を知ってるのかしら」
カウンターテーブルに向かっていた白衣の背中が振り返った。
一見女性に見える柔和な顔立ちが、ジフラールの姿を認めると同時に、さらに柔らかく温かい微笑を浮かべる。
この人の性別が女じゃないなんて、神様は選択を間違えたんじゃないだろうか、とジフラールはいつも思う。
肘を突いて受付のカウンター越しに、クロウが身を乗り出してきた。ジフラールは、持ってきたケーキボックスを見せびらかすように持ち上げる。
不思議そうにジフラールの手元を覗き込んでいたクロウの表情が、ぱっと花が咲いたように明るくなった。
「今日は何の日かしら。ジルちゃんのお手製ケーキが食べられるなんて……アタシは幸せものだわぁ」
「どの口がそんなこと言うのかしら。私より料理、上手いのに」
「アタシが作るのは、食事だけですからね。お菓子みたいに繊細なものを作るのは、苦手なのよ」
満面の笑みで誤魔化されて、ジフラールは溜め息をつく。
「ほら、入っていらっしゃいな。美味しいケーキを持ってきてくれたお礼に、アタシの淹れられる最高のお茶をご馳走してあげるから」
クロウがカウンターからするりと離れて、奥まったところにある薬局のドアを開けてくれた。結局、クロウに自分が敵うはずがないのだ。
根負けしたジフラールは、クロウの開けてくれたドアをくぐって、こうして一緒にお茶を楽しむとき、必ずつくいつもの場所へと腰を下ろす。
「ところで姐さん、休憩してるくらいだから出来てるのよね?」
「……え?」
にっこりと微笑んだまま、クロウが固まった。
ジフラールも同じように微笑みを返して、問いかける。
「いつもお願いしてるお薬、調合済んでる?」

 ジフラールが持ち上げた小花の散った陶器のカップの向こうで、申し訳なさそうな顔のクロウが、真剣に秤の針とにらめっこしている。
こんなふうに黙って唇を引き結んでいると、とても綺麗な男の人に見えなくもない。
けれど、ジフラールはクロウが男でも女でも、本人の主張する通りオカマでも構わない。クロウがクロウであることは変わらず、ジフラールにとっては、それだけが重要なのだから。
喉に流れていく温かい紅茶の香りを楽しみながら、ジフラールはぼんやりと思った。
 常に貧血気味のジフラールは、クロウが特別に調薬した丸薬を処方してもらっている。この病院に入る前から貧血には悩まされていたのだが、やはり腐っても国立病院、片田舎の病院とは比べ物にもならない忙しさに、ジフラールは喜びが半分、そして、倒れてしまったらどうしよう、という不安が半分あった。とは言え、赴任して一月あまりで、その不安が現実のものになるとは、さすがに思っていなかったが。
 確かこの薬局でのことだった。赴任してすぐに仲良くなったクロウは、時々ジフラールを休憩時間に招いて、お茶をご馳走してくれた。その日も、今日のようにクロウの招きでこの場所に座っていたのを覚えている。ちょうど何かを受け取ろうとして、慌てて立ち上がったときに、立ち眩みで派手に床へと倒れ込んだ上、受け取ろうとしたものを取り落としたのだ。
事情を聞いたクロウが、手持ちの薬草から調薬してくれたのが始まり。
何度か改良を重ねて完成した、今ジフラールが飲んでいる薬は、忙しいジフラールにとってなくてはならないものだ。それまでずっと全身にこびりついていた疲労がすっきりと取れて、楽になる。立ち眩みもずいぶんと減った。
「姐さんのおかげで、私、ずいぶん助かってるわ」
「あら、嬉しいこと言ってくれるわね」
ぽつん、と呟いただけの言葉に、クロウからの返事があった。
え、とカップに落としていた視線を上げると、秤からそっと薬草を下ろすクロウが目に飛び込んでくる。乳鉢に下ろされたそれは、これからすり潰され、丁寧に丸められて、ジフラールの頼もしい味方に変身するのだろう。
「ジルちゃんのお薬、今さっきまで忘れてたはずなのに、材料はちゃんと二日前に買い入れてあったの。不思議ねぇ」
「そうなの? ……姐さんってすごいのね」
思えば、クロウはいつも、先回りしたかのように必要な薬を調達していた。
突然の患者に必要な、普通ならば置いていないはずの点滴液。年に一度、必要になるかならないかの解毒のアンプル。入手するのが困難な薬草。
それらが、入用なとき必ずあるのは、国立病院だから、というわけではないだろう。
「多分ね、タイミングがいいのよ、アタシの仕入れは」
そう言って、クロウが笑う。作業を進める手は、決して止まらない。
「ジルちゃんが来るまでは、そうでもなかったの。必要かなー、と思ってから3ヶ月くらい、ズレがあってね? でも、ジルちゃんが来てからは、必要だ、って、頭じゃなくて手が先に動くのよ。で、注文して数日後にジルちゃんやジオ先生がありますか、って訊きに来るの。すごいのは……アタシと、ジルちゃんのタイミング、かしら?」
「やだ、姐さんたら。そんな風に持ち上げたって、何も出ないんだから」
二人の、と言われたことが、妙に気恥ずかしく、けれど、とても嬉しい。
照れ隠しに手元のカップをいじる。いつだったか、クロウがジフラールのために用意してくれたカップだ。
専用だから壊さないでね、という言葉が、嬉しかった。
「……ジルちゃんは、アタシの救いよ」
「え?」
大仰な褒め言葉、というよりは……強い依存の言葉、に聞こえた。
クロウからは想像できない言葉で、ジフラールは思わず問い返す。
「いいえ。何でもないわ。ちょっとした独り言。ジルちゃんが大好きだ、って言ったの」
その深い瞳の色が、ジフラールの目に焼きつく。
大好き、と言ったクロウの微笑みが、今にも消えてしまいそうに、儚いから。
「わ、私だって、姐さんのこと大好きよ」
それをこの場に繋ぎとめるように吐き出した言葉は、振り返ればとても気恥ずかしい。
「……ありがとう、ジルちゃん」
赤くなった頬を、カップから離した手の平で覆う。
そっと上目遣いに見上げたクロウは、やはり儚い微笑みをジフラールにくれる。
「それじゃ、お薬、仕上げちゃうわね? あとで医局に配達してあげるから、ジルちゃんはもうお帰りなさい」
「え? でも、まだ……」
乳鉢を持ったクロウが、静かに席を立った。
ジフラールも引き摺られるように立ち上がり、クロウの姿を目で追う。話したいことがあるのに、と、続けようとしたけれど。
「だってジルちゃん、休憩時間終わっちゃうわよ?」
時計を見上げて、唖然とした。
「休憩明けにアルサス先生との打ち合わせ!!」
どうして忘れていたのだろう。資料の用意はしてあるが、彼との打ち合わせは、資料だけで片付くほどの生易しいものではない。
「あらあら。でも、思い出してよかったわね」
「タイミングがいいんでしょ? 私と、姐さんは!」
先ほどの言葉を、無理やり利用した。視線を送ったクロウの顔には、明るくなった笑みがある。よかった、と、ジフラールは根拠なく思った。
「ものは言い様、ね」
「それじゃあ、クロウ姐さん、お薬お願いね! いってきます!」
ばさばさと白衣を翻して、ジフラールは薬局を抜ける。
「いってらっしゃい。頑張ってね」
背中にかけられたクロウの柔らかな声音に、強張った肩から、重みが少し降りたのを感じた。




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