07.恋のベクトル
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 ミリエットは、最近自覚した想いをとても大切にしている。
鉢植えの花を大切に育てていたら、蕾がついた。
そんな、甘い幸せだ。
この幸せが甘さ以外のものも含み始めたら、色々と考えなければならなくなるのだろうけれど、今は、浸っていたい。
蕾が一体いつ咲くのか、その花の香はどんなに芳しいのか、と。
 「うーん……」
「何してるのジフラールさん、それ、ハイスクールの数学でしょ?」
仕事の合間に、ふと覗き込んだジフラールの手元に広がっていたのは、数学の参考書だ。
教え方の上手い数学の教師に出会ったハイスクール時代に、面白おかしく解いた記憶のある問題がいくつも並んでいる。
「あ、ミル先生。あのですね、患者さんの中に、ジュニアスクールの子がいて。その子が、退院後にみんなと同じ学年に戻れるようにって、今からハイスクールの勉強をしてるんですって。分からない問題があるから教えて欲しいって言われたんですけど、私、この問題解き方覚えてなくって。困ってるんです」
顔を上げた彼女の表情は、本当に困惑していて、ミリエットは思わず笑ってしまった。
顔に感情の出やすいジフラールは、とても分かりやすい。本人は嫌がっているかもしれないが、周りの人間は、そんな人がいてくれる方が楽しい。
何より、彼女が彼女たる理由は、そんな素直なところにもあるのだろうから。
「いいよ、僕でよければ手伝うから。ペンと紙貸して?」
「え? あ、ホントにいいんですか? うわぁ助かります!」
言って、満面の笑みを浮かべるジフラールに、ミリエットは安堵する。
隣の椅子を引き、そこに腰掛けると、ジフラールが傍らのペン立てから一本を引き抜き、メモ帳を破り取るのが見えた。その表情は、とても柔らかだ。
こんな仕草に、感じる。
彼女の純粋なところ。しなやかな強さ。
差し出されたペンと紙を受取、ミリエットは笑いながら囁く。
「……ジフラールさんて、可愛いよねぇ」
「……へ?」
同じようにペンを握った姿勢で、参考書の問題を指し示したジフラールが固まったのが分かった。
「えぇ……っと。な、なんですか? 新しい冗談か何かですか」
「いや、本音で。可愛いよねジフラールさんて」
「……ど、どこが、って訊いてもいいんでしょうか」
視線だけをそちらへ注いでみると、彼女は酷く困惑した目で俯いていた。
手元の参考書に視線を落として、ミリエットと目を合わせないようにする彼女のその仕草が、可愛らしいと思うのに。
「どこって、全部だよ。なんて言うか、仕草とかその感情がすぐ顔に出るとことか」
「あのー……それ、褒められてるんでしょうか」
ページ数と設問番号を書いて、必要な数字を書き出す。ペンを動かすことに意識をやっていたミリエットに届いたのは、どこか恥じらいを帯びた声音だ。
視線を上げて、ジフラールの表情を確かめる。
俯いた視線はそっと伏せられ、目元はほんのりと淡く染まっている。
思わず息を詰め、言葉を失う。
「何だか恥ずかしいです、そんな風に言われるの」
「……だから、そういうのを素直に言っちゃうところがね」
可愛いと思うんだよ、とは言葉に出さず、ミリエットは手元へ視線を戻す。
「それじゃ、解いてみようか。まだこの話題引っ張ってもいい?」
笑いかけて問うと、ジフラールは慌てて首を振り、メモ用紙の上へと視線を走らせた。
今はこんな風に、ゆったりとした時間を過ごしたい。
異性として認識されるのが最終目的ではあるが、今は友人関係のような、近い距離にある彼女の存在を失いたくなかった。
ひとつひとつ解き明かしていく数学の公式のように、一歩一歩。
誰かと距離を縮めることの幸せに、心が柔らかくなる。
そうすることがミリエットだけでなく、彼女のためにもなれば、もっといい。
そう思っても……なぜだろう。
どうしても踏み込めない、深い深い悲しみが覗くとき、必ず見え隠れする、自分にとっても大切な、彼……ウィルジオの姿があるのは。
彼と彼女の間に、何があるというのだろう。
……ひたひたと迫り来る暗い感情に蓋をして、ミリエットはペンの動きに意識をやった。
 「……なるほど……そういえばそういうのやった気もする」
「ジフラールさん、ハイスクールの数学は一体どんな成績だったの?」
ふむふむ、と頷くジフラールに、ミリエットは笑って問いかけた。
「どんなって……案外普通ですよ? 私、使わないものはさっさと忘れちゃうから、三角形がどうとかって、多分真っ先に忘れたんだと思います。カレッジで習った化学式なんかは、まだ辛うじて覚えてるんですけど」
そう呟いて紙の上の公式を見つめるジフラールに、ふと悪戯心をそそられる。
「……じゃあ、ちょっと復習問題」
「へ?」
笑いながら、メモ用紙を破り取り、そこに式を綴る。
ただ、その数式にはめ込まれた変数は……人の名前。
「ちょっ、な、何ですかこれ! どうして数式に私とミル先生の名前がっ」
簡単なベクトル計算。
ただ、数字も、答えもない式。
「これに答え書き込んでもらえると嬉しいなぁ」
「答え?! ……って言うか、これ何の計算式ですか? えぇっと……この矢印は、確か」
困惑しながらも取り組む彼女の真っ直ぐなところ。
こんなときに思うのだ。
ミリエットが彼女に向ける想いの大きさが、目に見えるものであればと。




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07.恋のベクトル