06.見てはいけないもの
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 別に、彼が悪いとは言わない。
実際、悪いわけではない。周囲に多少の有害さを振り撒くだけで、彼は悪ではない。
悪ではない。……悪では。

 ジフラールは、いつも思う。外科、メスを握る者は、自分の腕を疑いすぎてはいけない。そうでなければ、患者に不安を植え付け、自分自身の決断さえも鈍らせる。外科医は、一瞬の迷いですべてを無に帰すことも出来るのだ。
迷わず、確かな選択を。そして、選んだ道を疑わないこと。
だが。
「ミス? 何を言うか、この俺様に……ミスという言葉は存在しない」
これは、どうかと思うのだ。
……人として。
 目の前にいるのは、今回の手術の執刀医だ。
彼が専門とする、脳外科、それも得意分野の手術とあって、彼はとても冷静だ。
いいことだと思う。患者への応対も家族への説明も、非常に分かりやすく簡潔で、彼の経験や自信のほどをうかがわせる。
「アルサス先生って……ミスとか、経験ないんですか?」
問いかけた言葉に帰ってきたのが、さっきの発言だった。
「それじゃ、失敗とかは?」
続けて問いかけると、自慢げだった表情がわずかに曇った。
「君は……俺から、何を聞きだしたいんだ? 残念ながら手術に失敗したこともないが」
「……そうですか。すごいんですね、やっぱり」
何をいまさら当たり前のことを、とアルサスが苦笑する。
ジフラールも、同じように苦笑して小首を傾げた。
「私は……失敗って言うか、挫折のようなものはありますから」
「ほう? それは意外だな。君は迷うことなく今の場所にたどり着いたものだと思っていた」
「残念ながら。ただ、私自身は……迷わなければ得られなかったものも、あると思ってますし」
手元の資料に視線を落として、ジフラールは胸を軽く押さえた。
大切なものが、ここには眠っている。何物にも代えられない、強い想いが。
「……俺にはミスも失敗はないが。君が苦手とするジオには、色々とあるぞ?」
「へ?」
ジオ……ウィルジオ内科医。いつも冷静で、不安など何もなさそうな立ち姿。
彼に、色々?
「えっと……それは、もしかして聞かせてもらえるんですか?」
「そうだな……」
「あれー? 二人ともまだこんなところにいたんですか、ナースたちが探してましたよー」
パタン、と軽い音を立ててミーティングルームに入ってきたのは、同じ外科の医者、ミリエットだった。もし噂をしていた本人だったら、と思わず身構えたジフラールは、ほっと安堵の息を吐き出す。
「ミル先生」
「なにジフラールさん、誰だと思ったの?」
笑うミリエットをどうかわそうかと口ごもったジフラールに、自嘲にも似たかすかな笑い声が届いたのはすぐのことだった。
「あいつの『色々』は、本人からでなければな。君が俺から聞いても、信じられないような話でもある」
「……アルサス先生?」
彼の声音に問いかける。
何を言いたいのか、と。
「あいつ?」
だが、ドアのそばからかけられたミリエットの訝しげな声に、ジフラールは慌てて首を振った。彼と仲のいいミリエットに、こんな話は聞かせられない。
「な、何でもないんです! ……えっと……そ、それじゃあ、機会があったら直接聞いてみます」
「そうするがいい」
薄く微笑んで席を立ったアルサスに、ジフラールは困惑して、後を追うように席を立つ。
「あ、あの、ひとついいですか。どうして、私にそんなこと……」
「そうだな……君があいつに、少し似ているからだろうか」
「似て、る……?」
「手術中は、ミスも失敗も知らないような顔でいてくれたまえ」
向けられるのは、自信に満ち溢れた、ゆったりした笑み。
彼の言葉は思わせぶりで、ジフラールはただ戸惑う。
ウィルジオと、あまりにもかけ離れた自分。
一体、どこが似ているというのか。
ジフラールには、分からない。
「ジフラールさん? 何かあった? あいつって……」
覗き込まれて、ジフラールははっと我に返った。
アルサスの姿は、すでにない。
「え? あ、えっと、何もなかったです。ただ、ちょっと……」
「ちょっと、どうしたの?」
不安を湛えた瞳で見つめられて、ジフラールは微笑んだ。
彼に心配をかけるのは申し訳ない。
「アルサス先生って、すごいですよね」
「うん、すごいよ」
「あの自信が、特に」
「まぁ、自信過剰に見えてそうでもないところがすごいんだけどね」
同意してくれるミリエットの言葉に、ジフラールは苦笑。
「私は……あそこまではなれないなって」
「ならなくっていいよ、ジフラールさんは。今のままで十分」
「そうですか?」
言葉が優しく降りてくる。
さすがに、努力どうこうの問題ではない次元にある彼のように、非の打ち所のない医師になれるとは思っていないが、出来ることなら、彼のように迷いを抱かない生き方をしたい。
確かに小さいとは言えない傷を抱えてはいる。だがそれをいつまでも引き摺って迷い、躊躇い続けたいわけでもない。
強く、なりたいのだ。
今の、とても弱い自分は。
 だから、アルサスの姿には劣等感を刺激される。
ミリエットの姿には、無力感を抱かされる。
ウィルジオの姿には……すべてを思い出させられる。
思い出したいことも思い出したくないことも、何もかもを。
「ジフラールさんは、強いと思うよ、僕は」
「え?」
突然の言葉に、ジフラールは手元を狂わされる。
ばらばらと、資料が床に散らばった。
「うわわ、だ、大丈夫?」
「え、は、はい、大丈夫です、ごめんなさい」
謝りながら、屈んで紙を拾い上げる。
ミリエットの手が、紙を揃えてこちらへ差し出してくれた。それを受け取る。
「ジフラールさんは、患者さんたちの気持ちがよく分かるみたいだから。患者さんには、そういうの全部通じてるよ、だから大丈夫」
「あ……」
優しい、優しすぎるほどの言葉。
「じゃあ、僕は先に行くね。ジフラールさんも早くおいで?」
「はい……っあの、ありがとうございます!」
「……どういたしまして」
ドアが閉まる音、静かな部屋の中で、ジフラールは胸の奥にある想いを抱き締めた。
直視してはいけないもの、まだ、受け入れられないもの……残像を消し去るように目を閉じて、息を詰める。きりきりと絞られる痛み。過去の証。
「……大丈夫。まだ、頑張れる。まだ……頑張らなくちゃ」
深い呼吸を繰り返し、目を開ける。
資料の枚数を確認して、立ち上がった。
胸の幻痛は、もうなくなっていた。




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