05.そしてまた朝が来る
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 「おはようございます」
医局へ入ったと同時に、引き締まった声が朝を告げる。ミリエットはあくびを噛み殺しながら、にこりと笑って挨拶を返した。
「おはようございます、ジフラールさん」
声をかけられても、彼女の視線は、一冊の医学書へ向けられたままだ。スタンドライトは、つけっぱなし。
ブラインドの隙間から漏れる朝日が、彼女の薄茶色の髪を照らし、金にも見せる。肩にかけた若葉色のストールは、彼女がいつからここにいるのかを言外にミリエットへと伝えていた。きっと、徹夜したのだろう。彼女は、そういう人だ。
 ぱらぱらと紙のめくれる音がして、重ねられた論文にマーカーでラインが引かれる。
ここ最近の彼女は、ずっとそうしている気がした。
「調べ物、お疲れ様。コーヒーでも用意しようか?」
問いかけた言葉に、ようやく彼女は顔を上げる。疲労を滲ませた、しかしそれでいてとても美しい表情。
うっすらと微笑む瞳には、真っ直ぐに目指す何かを秘めていた。
なりふり構わず、追い求めずにはいられない真理のようなものを。
ミリエットにはそれが何なのか、分からない。
「あ……サーバーに二人分くらいなら残ってると思います。ミル先生もどうですか?」
「うん、わかった、温めて持ってくる……っと、ジフラールさん、とりあえずスタンドライト消しなよ」
「え? ……やだ、忘れてた」
慌てて、手元を照らす明かりのスイッチに指を伸ばす姿は、徹夜明けだからこそ見える彼女の気の緩みなのかもしれない。それをわずかにも覗かせてくれるだけ、彼女は自分に気を許してくれているのだろう。
それが嬉しくて、ミリエットはいそいそと給湯室へ足を運んだ。
彼女がいつも使うカップと、自分のカップを用意する。火にかけたガラス製のサーバーが、ことことと音を立てた。
火を切り、サーバーをカップの上で傾ける。注ぎ込まれるコーヒーの芳しい香りが給湯室全体に広がって、ようやくミリエットは朝を迎えたような気がした。
彼女の存在を認めることで、ようやく。
 ミリエットには、自分が際立っていると言う自覚がない。
ごくごく普通の人生を歩んできた、そしてこれからも歩んでいくのだと思っているミリエットにとっては、天才だの神の手だのと尊敬の眼差しを注がれるより、同じ職場に働くものとして気持ちよく迎えてくれる方がありがたい。
後者だったのが、この病院に配属になってから知り合ったウィルジオや、アルサスだった。
手術の最中は傷の処置にしか頭が回らなくて、施術以外のはっきりした記憶は残っていない。そんなミリエットを奇異の目で見るものは多いが、彼らは優しく、そして厳しかった。
 今までなぜか得ることが出来なかった、二人の理解者。彼らがいれば、それでよかった。
その当時の環境に甘えていたミリエットを受け入れる、真っ直ぐな人が現れるまでは。
 懐かしいことを思い出して、ミリエットは一人微笑んだ。カップを持って、医局に引き返す。彼女の名を呼ぼうとして……そこで見つけたのは、意外な人物だった。
「……あれ? ジオじゃない。おはよう。どうしたの? こんな朝早くに」
デスクに顔を伏せているジフラールを覗き込む後姿に、ミリエットは声をかける。
濃いブラウンの髪がかすかに揺れ、振り返る。彼の紅い瞳がそっと細められた。
「おはよう、ミル」
外科の医局にウィルジオが、しかもこんな朝早くにやってくるなんて……滅多にないことだから、驚いてしまった。ミリエットは、彼の声に苦笑する。
「こいつが、貸して欲しい本があるとリストを持って俺のところへ来たものだから。とりあえず半分持ってきたんだが……」
言った彼の声は、ようやく聞き取れるほどに潜められていた。それは、机に伏せた彼女のため。低く届く声は、きっと彼女を起こしはしないだろう。
もし聞こえたとしても……彼女が彼の声を聞いて起きることはないと、ミリエットは知っている。
彼女は、なぜだかウィルジオを避けているから。
「一体、何をそんなに調べてるのか……身体がいくつあっても足りなさそうだ」
ジフラールの隣のデスクに積み上げられた本は、きっと彼が彼女のために持ってきたという『貸して欲しい本』なのだろう。腰までのデスクに乗せて、ウィルジオの肘辺りまで。
彼の言う通り、何を調べているのか気になるところだ。
「確かに珍しいよね、ジフラールさんがジオに頼みに行くなんて」
彼自身、彼女に避けられているのを理解している。それでもウィルジオに頼ったことへ、何か追い詰められたものを感じたのだろうか。ミリエットの知る限り、低血圧なウィルジオがこんな早朝に白衣を着ているのは、急患か夜勤のときだけだったから。
 積んだ本に肘を突いたウィルジオの、こぼれる溜め息や仕草からは、彼女への気遣いが見える。彼自身は気づいていないだろう、ささやかな甘さも。
「だから緊急事態かと思ったんだが……一体、いつ寝てるんだ?」
「それは君にも言えることだけどね」
「俺は人並みに寝てるぞ」
人並みの睡眠時間が3時間だったら、世の中は何もかもが24時間体勢に決まっている。
「少なくとも、今日はこのあとお休みになってるはずだよ。そうじゃなきゃ、いくらジフラールさんでも僕がコーヒー淹れに行った短い間で眠っちゃうなんてありえないもの」
「……そうか」
呟いて、ウィルジオは身を翻した。
彼女のために持ってきたはずの、本を抱えて。
「え? ジオ、それ持って帰っちゃうの? 渡しとくよ?」
「いや……」
躊躇った彼のわずかな間は、一体何を示すのだろうか。
「また来る。ここに俺が来たこと、言わないでくれ」
「え、ねぇ、ジオ?」
こちらに耳を貸そうともせず医局を出て行ったウィルジオの後姿を呆然と見送って、ミリエットはゆっくりと椅子に腰掛けた。
 一体、何だったのだろうか。
ひとまず彼女のカップをデスクに置いて、自分のカップに口をつける。
ジフラールが眠ってしまったことは別に悪いことではないし、ウィルジオがここに来た痕跡はないのだから、彼がさっき本を持ってきてくれたことなど伝えなければいい。
彼女の寝顔を覗き込んでいた彼が、どんな表情をしていたか、ミリエットには分からない。
「……苦い」
口に含んでようやく、給湯室で、砂糖を入れ忘れたことに気がついた。
「どうしてかなぁ……」
無理やり、コーヒーを喉に流し込む。
口の中に残る苦い後味が、無性にウィルジオの存在を意識させる。
彼は大切な人だ。そして、彼女も。
どちらが、と言われて、答えられないほどに、二人は特別な存在で。
「まぁいいや。考えてどうなるものでもないし。少なくとも、ジフラールさんが自分からジオの元へ行っちゃうってことはなさそうだし」
二人が離れて行ってしまうなんて、考えたくない。
今は、まだ。
「さぁ、仕事仕事。今日も一日頑張るぞ、っと」
無理やり笑みで意識を遮断し、ミリエットはカップを濯ぎに給湯室へと引き返した。




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