04.introduction(4)
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 『異空間』から離れたジフラールは、自分が想像以上に疲れていることを知った。
肉体疲労とは違う、精神疲労。
こちらのほうがずっとたちが悪い。休んでどうにかなるものではないのだから。
「どうした、天才心臓外科医。まーた悩んでんのか?」
「……ダレン……お仕事は?」
ぽん、と叩かれた肩に、振り返る。
そこにいるのは、見慣れた……そして懐かしい顔。
整形外科医のダレン=クレノイアは、同じ学府で医学を志し、同じ病院に就職したジフラールの同期だ。気心も知れていて、お互いにいい友人関係を築いている。
男性でありながらジフラールと友人関係であるのには、また深い理由があるのだが。
「さっきまで外科のトップツーと頭突き合わせて話し合い。めんどくせーな、あの二人は生半可なことじゃあしらえねーし、かなり準備して行ったってのに痛いとこ突っ込んでくるんだわ」
「それは、お疲れ様。私は……悩んでるんじゃなくって、ちょっと疲れちゃって。放射線室に写真取りに行ってたの」
胸元に抱き締めた封筒を見せて、ジフラールは小さな溜め息をついた。
「悪い人たちじゃないんだけどね」
「まぁな」
さらり、と、ダレンの手がジフラールの前髪をかき上げる。
顔を上げろ、という合図だ。
「なぁに? ダレン」
日の光に透けても、深い漆黒の色を失わない髪。真っ直ぐにジフラールを射る青の瞳は、彼女も、彼女の色を持った彼も思い出さずに済んで、落ち着ける。
「……それだけ、じゃないだろ。またあの人か?」
あの人、と言う言葉に、ジフラールはぴくんと身体を強張らせた。しかし、それも一瞬のこと。笑って、首を振る。
「違うわ、ここのところ、仕事が立て込んでて。身体は休めれば大丈夫なんだけど、それ以外は……ほら、私溜め込む方でしょ?」
「お前がそう言うならそういうことにしてやってもいいけど。また近いうちに付き合えよ。俺もお前と一緒に出かけるの、気分転換になってんだから」
「うん。ありがとう、ダレン」
彼の優しさは、いつもジフラールを安堵させる。笑みで彼に応え、頷く。
「お前がこの病院に来たときは、ホントびっくりしたもんなぁ。やってけるかどうかより、あの人を見てお前が大丈夫かどうか。だから、辛いときはいつでも言え。俺はこの病院で、一番お前のことを知ってるんだって自信を持ってるんだからな」
「そうね……私のこと、何もかも知ってるのよね、ダレンは」
不安だった自分を支えてくれる、この病院で一番親しい人。お互いの抱える秘密を共有し合う、特別な関係。恋愛感情ではなく、友情を抱ける、唯一に近い男性。
ふっと笑みをこぼして、ジフラールは身を引き、踵を返す。
「それで? ダレンもまだ治ってないの?」
「……い、いいじゃないか、別に」
「私……あなたが整形外科医でよかったと、心の底から思ってるわ」
呟く傍ら、耳に入ってきた音に意識を移す。ぱたぱたという、軽やかな足音は子供特有のもの。
「ジルせんせーっ! お話してー?」
くい、と白衣の裾を引かれて、ジフラールは少女と目線を合わせるようにその場に屈んだ。
「あら、マリーちゃん。身体の具合、よさそうね。でも、ちょっと待って? 今先生お仕事中だから、夕方、ご飯が終わった頃に遊びに行くわ」
やってきたのは、最近小児病棟に移ったジフラールの元患者だ。
可愛らしい寝巻きと、ふわふわした金の髪は、ようやく顔色も明るくなってきた彼女の体調を表すようにも見えた。
「ホント! 絶対ね、同じ部屋のコニスちゃんも、先生に会いたいって言ってたのよ! だから、絶対!」
「うん、絶対。約束」
「うわぁい!! それじゃ、せんせー、お仕事頑張ってね!」
きらきら光る、緑の瞳がにっこりと笑って、手を振りながら廊下を引き返していく。
「あんまり走らないで、前はよく見てね」
「はーい!」
しゃがんだままマリーを見送ったジフラールは、壁に向かって自分と同じようにしゃがみこんでいるダレンに、そっと声をかける。
「……ダレン。大丈夫?」
「お、おう、辛うじて……っ!」
そう呟いて、顔を上げた彼は。
「あぁ……いいな、子供は……」
恍惚とした表情で、小さく声を漏らした。
……何を隠そう、ダレンは、怖いくらいの子供好きなのだ。
満ち足りた顔を隠そうともしないのは、ジフラールがすべて知っているから。
他の医師の前では必死に隠そうとするくせに、ジフラールの前では、隙だらけだ。
 こんな関係も悪くない。
幸せそうな彼に微笑みかけて、ジフラールはそう思った。
「でも、それだけ子供が好きでも、子供が欲しいとは思わないんでしょ?」
「ん? ……あぁ……まだいいな。今の貯蓄額じゃあ子供を育てるには足りねぇし……何より、自分の子供が産まれたら仕事どころじゃなくなりそうだし」
緩んだ顔を引き締めるようにぱん、と両頬を手の平で叩いて、ダレンがゆっくりと立ち上がった。ジフラールも、それに続く。
「もう少し金が貯まって、俺の給料も上がって、俺の子を産んでくれる相手を養えるようになったら、な」
にっこりと微笑みかけられて、ジフラールは首を傾げ、同じように微笑む。
「まさかとは思うけど、未成年捕まえて子供産ませようとか……」
「あのなぁ……俺は子供が好きだが、子供をそういう目で見たことはないぞ。そんな可哀相なことが、俺に出来ると思うか?」
ダレンの言葉に、ジフラールは目を瞬く。言われてみればそうかもしれない。
彼が子供を傷つけるだなんて、想像もつかない。
「ダレンの子供は、幸せになるでしょうね」
きっといい子に育つだろう。ちょっとわがままで、それでも親の愛情を受けた幸せな子に。
笑ったジフラールに、ダレンが何かを告げようと口を開いたのが見えた。
が。
「っジフラール先生っ!! あのオカマ野郎見たよな?!」
「はい? っきゃ!」
強い力で握られた手首に、驚いて顔を上げる。
そこにいるのは、怖いくらい真剣な表情をした、精神科医。
「わ、わわ、あの、ちょっと、あぶなっ……ソルティス先生?! 痛っ」
ずんずんとそのままの勢いで突っ込まれて、ジフラールは慌てて後ずさった。とん、と壁に当たった背中の感触に意識が行ったが、それもすぐに引き戻される。壁に縫い付けられるように腕を押し当てられて、ジフラールは思わず悲鳴を上げた。
「ちょっ、ソルティス先生! ジルが、何したって言うんですか、突然そんな乱暴に!」
べりん、と音でもしそうな勢いでソルティスの手が引き剥がされ、ダレンが間に割り入る。
ダレンの背中に庇われているせいで、ジフラールからはソルティスの表情もダレンの表情も窺えないが、なにやら険悪な空気が漂っている。
「ちょっと、ダレン、別に大丈夫よ、平気! あ、あの、ソルティス先生? 何の御用ですか?」
ダレンの背中を押しのけて、ジフラールはソルティスを見上げる。
赤茶色の髪はやや乱れて、黒い瞳は今にも誰かを傷つけてしまいそうな鋭さを帯びている。
普段はごくごく普通の、穏やかな精神科医なのだが、ある人物のことになると怖いくらいに夢中になるのが特徴と言えば特徴だ。
きっと、今はそのある人物を探している最中なのだろう。ある人物自身が……クロウが、そう言っていたのだから。
「あ……じ、ジル先生。悪い……また、取り乱してとんだ迷惑を」
ゆっくりと瞳に感情を取り戻した彼の表情が、途端に崩れた。
張り詰めて引き絞られていたそこかしこの筋肉が緩んだのだろう、自分のしたことに落ち込んで、目尻が下がっている。そうでなくとも元々は人好きのする穏やかな顔つきの彼だ、何やらこちらが悪いことをしたような気分になってしまう。
「いいんですよ、気にしないでください。また、クロウ姐さんを追いかけてらっしゃるんですか?」
「はは……そうなんだ。外来が終わったんで、つい……」
この病院に赴任した頃から、すでに二人の関係はこうだった。追うものと、追われるもの。
クロウは追われていることを知りながら彼をすんでのところでかわし、彼に笑う。
捕まえられるものなら、捕まえて御覧なさい、と。
だから彼は、クロウを追うのだ。
理由は……真面目な彼らしいと言えば、彼らしいのだが。
「まったく、からかわれる方の身にもなって欲しいもんなんだが」
疲れた表情で微笑むソルティスに、ジフラールは同情する。
ジフラールはどちらの味方というわけでもないが、彼の境遇には同情せざるを得ない。悪いのは、多分クロウだろう。
 精神科は、睡眠薬や精神安定剤など、薬の処方が多い。
そのせいなのか、クロウは彼がやってくるたび、あの口調でにっこり笑ってからかっていたらしい。
クロウはもともと男とも女ともつかない声や容姿をしているため、外来の患者さんや短期入院の患者からはすっかり女だと思い込まれている。
そんな患者たちから、ソルティスはたびたび、クロウとの仲を邪推するような言葉を投げかけられたのだそうだ。気の長いソルティスは、クロウがその言葉を否定すればいずれ消えるだろうと思っていたらしいが、ある日、ばったりと出くわしてしまったのだ。
ソルティスとの仲を尋ねる患者に、思わせぶりな言葉で返すクロウに。
確かに、きっかけを作ったクロウが悪いといえば悪いのだが、仮にも年上で、穏やかな人格で有名なソルティスが、突然豹変してクロウを追い掛け回すなど……誰も想像はしなかった。
だが、いきさつを聞けばそれも当然のことと思えるし、今ではこのソルティスとクロウの関係も有名になり、ある意味病院の名物として、患者たちに面白がられている。
別に、悪いことではない。……良くも悪くも、特殊なこの病院でなら。
「クロウ姐さんに会ったのは、大分前ですよ。お昼休みの終わる前に、内科の医局がある階で。次にどこへ行くとかは聞いてませんから、もしかするともうオフィスに戻ってるかもしれませんよ?」
「……そうか……あの、乱暴なことをして、すまなかった。手首、大丈夫か? どこか他に痛むところとか……」
深々と頭を下げるソルティスに、ジフラールは首を振って微笑みかけた。
「大丈夫です。お気になさらず」
「ならいいんだが……っと、マズい、これから出張の用意をしなくちゃならないんだ……学会があって。先に失礼する。引き止めて悪かった」
腕時計に視線を走らせて、彼はぱっと身を翻し、もと来た道を引き返していった。
まるで、つむじ風のような人だ。白衣の背中を見つめながら、ジフラールはぼんやり思う。
「……俺も、仕事戻ろ」
酷く疲れたような声が隣から聞こえて、はっとする。
そう言えば、ダレンと一緒にいたのだった。
「え? あ、ダレン……声かけてくれて、ありがとう。ちょっと、楽になったかな」
笑みを浮かべると、ダレンも同じように笑みを返してくれた。
じゃあ、とお互いに短い挨拶を交わし、別の方向へ向かって歩き始める。
 今日も、ジフラールは忙しい。




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