03.introduction(3)
<< text index story top >>



 彼と並んで歩いてみて、分かったことがいくつかある。
ひとつは、女性からの視線が痛いこと。
これは分かりやすい。ウィルジオは整った顔をしている。閉鎖された環境の中で、憧れや恋の対象になるのは、見目のいい医師や看護士だ。こんな風に彼の隣に立つのは今だけだろうから、気にしないでいられるけれど。
 そしてもうひとつは、彼の背が思っていた以上に高いこと。
精一杯顔を上げなれば視線を合わせられないため、顔を上げずに済む。これには助かった。
院内を歩いているときは、気を配らなければならない要素が多い。彼の瞳の色に、いちいち過去の感傷を引き摺られるわけには行かないのだ。
だが……頭では分かっていても、引き摺られてしまう。だから見たくない。
こんな自分本位の理由で彼に苦手意識を抱いてしまうことを、ジフラールはほんの少し申し訳なく思った。彼に悪いところなど何もないのに。
 頭の片隅でそんなことを考えながらも、足は進み、言葉は紡がれる。彼の差し出すカルテを見ながら、一通りの説明や申し送りを終えて、ジフラールはほっと安堵の息を吐いた。
「……上の空だな。やっぱり体調でも悪いか?」
「え? ……あぁ、そんなことはないです」
そういえば、今日はそんな風に誰からも心配されてばかりだ。自分の頼りなさに少し笑って、ジフラールは首を振る。
「ミル先生も、そんな風に心配してくれましたけど。私だって医者なんですから、大丈夫ですよ、健康管理くらいできます」
「……まぁ、それならいいんだが」
特に気にした様子もない彼の表情は、冷めている分感情を読み取り難い。こうして隣に並んで歩くだけでも、妙に緊張する。早くこの状況が何とかなって欲しいと、思ったジフラールの元へひとつの声が飛び込んできた。
「先生! ジオ先生、あの、患者さんが……!」
振り返れば、そこには青ざめた顔でウィルジオを呼ぶ看護婦。
「すぐ行く。……悪いがあの変人室長に伝えてくれ、今日中には取りに行くと」
「あ、は、はい」
「じゃあ」
頷き返したと同時に、彼は声の主の元へと身を翻した。
ばさりと、白衣の裾が舞い上がり、靴音が遠ざかる。
「……大丈夫、かな」
看護婦の硬い表情が、事態の大きさを主張するようで、少し不安になる。だが……ここは、病院だ。人の命が動く場所。
何より、ウィルジオの能力を、疑う余地のない技術を、ジフラールはちゃんと知っている。不安を感じる必要など、ないのだから。
軽く拳を握って、ゆっくりと呼吸をひとつ。
ジフラールは、後ろ髪を引かれつつも、目指していた部屋へと歩き出す。
昼休みの終わりを告げるチャイムが、ひっそりと鳴り響いた。

 「こんにちは、心臓外科のジフラールです」
そのドアをくぐると、いつも別世界がある。
「っわああ!! し、室長! 何するんですかっ写真が……!!」
今日は……部屋が真っ暗だった。その中を、ばさばさと鳥の羽ばたきに似た音が響き、それを遮るように情けない声が上がる。
「何を言っているんだ、ハリス君。この写真たちに写る骨の持ち主を、私が覚えていないとでも? 私の頭の中には、今まで見てきた数千枚の大腿骨が記憶されている、こんな異なる部分を写した二十枚くらい、どうというものではないよ」
「そういう変人発言やめましょうよっ!! ただでさえこの部屋、先生方から『異空間』だの『電波室』だのと言われてるんですから!!」
「惜しいなハリス君、ここは『異空間』でも『電波室』でもなく、正確には『放射線室』であり『レントゲン室』だ」
「もうどっちでもいいですっ!!」
彼らは、相変わらずのようだ。この部屋を訪ねたら、二人は必ずと言っていいほど口論をしている。ジフラールは小さく溜め息をついて、顔を上げた。
と、薄暗い室内の中、紙のような白い肌が視界に飛び込んできた。そして、こちらに向かって、眩しく光る眼鏡のレンズ。眼鏡の奥に隠れた瞳が、ジフラールを捉えたような気がしたのだが……気のせいだろうか。
「……おや、ジフラール女医。ようこそ。ここは『異空間』でも『電波室』でもなく、れっきとした『放射線室』だが何か? もしやレントゲンを撮りに? ……それでは至急バリウムを用意しよう」
部屋が暗くてジフラールには確信がもてなかったのだが、どうやらルヴァールはこちらに気がついてくれていたらしい。だが、言葉の内容から見てジフラールがここに来た理由は分かっていないようだ。
「何か、って……クロウ姐さんから言伝を聞いて、写真取りに来たんですけど。それに、医者が勤務時間中にレントゲンを撮る理由なんてないし、私バリウム飲むの下手ですし」
「……あぁ、そういえばそんな託けをしたような気もするな。ハリス君、明かりをつけてくれたまえ」
「はいはい……もう、いい加減にしてくださいよ、先生方にご迷惑がかかるんですから」
ぱちん、と音がして、部屋が明るくなる。見渡した、さして広くもない部屋の床一面には、たくさんのレントゲン写真とカルテが散らばっていた。
「うわぁ……」
思わず、溜め息混じりの声が漏れた。
「室長がちょっと取り乱しちゃって……ばらけちゃったんです。今集めますから」
かけられた声に振り返ると、濃いグレーの髪をした青年が、困った顔で立っている。
この部屋で技師助手をしているハリスだ。
「私のせいだけにしないでくれたまえ。元はと言えばハリス君、君が足元のコードに気づかず、力いっぱいそれに引っかかって……」
「それは室長が部屋真っ暗にして、上がった写真をにやにや見てるのが怖かったからっ」
先ほど十分やりあっただろうのに、ハリスはまだ言い足りないらしい。ルヴァールに向かって食って掛かる姿も、余裕のあるときであれば待ってやれたのだが……今は、精神的な余裕がない。ウィルジオと目を合わせてしまったことが一番の原因だろうということは火を見るよりも明らかで、少し悔しいが。
「あ、あのー……ちょっと急いでるんですけど」
このままではいつまでたっても写真が受け取れなさそうで、ジフラールはしかたなく、尚も言い募ろうとするハリスの言葉を遮った。
「あぁっ! ご、ごめんなさい、今すぐ! ったくもう……写真にカルテのナンバーメモしておいてよかった」
「……ハリス君、まだ私のことを信用していないのかね? 言っただろう、記憶している、と。そうだな……」
呟いて足元の写真に手を伸ばしたルヴァールは、今までの緩慢な動作が想像もつかないほど俊敏にカルテと写真を組み合わせ始めた。
「この写真はこれ、これとこれ、これとこれ……あぁ、君が持っている写真は入れ違いになっているだろう、逆だ、その右手に持っているカルテの患者は左側の写真。……不安なら、照らし合わせてみたまえ」
「……あ、あってる……これも、これも……室長が合わせたものは? こっちも、ホントに全部あってる……す、すごい、さすが骨マニアのルヴァール室長ですね!」
「お褒めに預かり光栄だよ、ハリス君」
骨マニア、という言葉が褒め言葉なのかどうかは疑わしいところだが、本人が喜んでいるので構わないだろう。いい印象を持つのは不可能に近いが、彼を表す言葉としてはぴったりだ。
「えぇと、心臓外科の写真ですよね……では、こちらです。お確かめください」
手早くクリップでまとめた何枚かのカルテと写真のセットが、ハリスから手渡された。
「はい、それでは確認させていただきます……っと。はい、確かに受け取りました。全部揃ってます」
それじゃ、ここにサインをお願いします、と記帳欄を指差したハリスに従い、ジフラールは胸ポケットからボールペンを取り出す。書き慣れた自分の名を記し、記帳ボードを彼に返した。それと引き換えに、封筒に入れられた書類が手渡される。
「どうも、いつも騒々しくて申し訳ありません。いつもはもう少しましなんですけど……」
そういう問題ではないと思うのだが。
思わず心の中で突っ込んで、ジフラールは微笑む。
別に、ハリスが悪いわけではない。ルヴァール自身も、大真面目なのだ。
ただ、少し変わっているだけ。この病院が、全体的に。
「室長が、もう少しまともになってくれれば……先生方に敬遠されることもなくなると思うんですけどねぇ」
そう言って苦笑するハリスに、手元のレントゲン写真をぺらぺらとめくっていたルヴァールの手が止まる。憮然とした表情の彼は、ゆったりとした、丁寧すぎるほどの仕草でテーブルの上へと置き、口を開いた。
「君は、自分の上司をもっと信用すべきだ。私は今でも十分普通だが?」
彼が整形外科の道を選ばなくてよかった、とジフラールは思う。
「どこがですかっ!! そのあからさまに嘘と分かるような言葉、撤回してください!」
 今同じ病院に勤めている、古い知り合いの整形外科医から話を聞く限り、整形外科は想像以上に楽しいものではないらしい。それに、いくら骨が好きでも……彼は美しい骨が好きなのであって、折れた骨にはきっと興味がないのだろうから。
 叫ぶハリスに吐息をこぼすルヴァールは、ジフラールの思考など知らない……そのはずなのだが。
「まったく……あぁ、話はずいぶんと変わるのだが、ジフラール女史。非常に美しい骨格をお持ちだ……特に足。何かスポーツでも?」
「……はい?」
ジフラールは、自分の耳を疑った。
思わず、下肢を見下ろす。
膝丈のスカートから覗くこの足が、何だと言ったのだろうか?
「健康的な美しい形をしている。きっと、骨はさぞかし……ふふふふふ」
「っ……し、失礼しますっ! お世話になりました!」
「健康診断を楽しみにしておりますよ、ジフラール女史」
なにやら危ないものを見た。いや、危ないものを知ってしまった気がする。
ふぅ、と息を吐き出す。もう済んだことだ。忘れてしまえばいい。
そう自分を強引に納得させたジフラールは、医局に戻ろうとして……ふと立ち止まった。
何かを、忘れている……それは確信。
ここに来るまで覚えていたはずだ、誰かに何かを頼まれた。
何だったか……しばし記憶を攫えて見て、ようやく思い出す。
「ウィルジオ先生から、伝言があったんだ……」
今日中に写真を撮りに行くから、用意しておけと伝えておかなければならない。
忙しそうな彼だから、自分のような展開が目の前で繰り広げられたら、喧嘩を吹っかけかねない。いくらなんでも、病院内で怪我人や病人が出るのは遠慮したい。
放射線室から数歩進んだところでよかった、とジフラールは踵を返し、再び数分前にも叩いた扉をノックする。
「あ、あのー……」
再び扉の向こうを覗き込むと、そこには。
「うわぁぁ!」
……先ほど部屋を訪ねたときと、同じ光景が広がっていた。
「……ウィルジオ先生から伝言です。今日中に写真を撮りに行くからまとめておいて欲しい、そうです。それと、私からも」
「へ……? あ、えっと、そのっ……!」
「お二人とも、いいかげんになさいね?」
にっこり笑うと、カルテと写真をぶちまけたハリスは、床に座り込んだままこくこくと頷いた。




<< text index story top >>
03.introduction(3)