02.introduction(2)
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 何度目の溜め息になっただろう。
好きで繰り返しているわけではないのだが、出てしまうものを止めることは出来ない。不可抗力というものだ。
無理やり詰め込んだ感のあるお弁当を片付け、胃と、気分を重くさせる原因のカルテを数枚抱えて医局を出た。カルテにも患者にも罪などないのに、と、再び溜め息がこぼれる。
昼休みは、まだ終わっていない。

 ともすれば止まってしまいそうな歩みを、懸命に叱咤して続ける。
渡せばすぐ済むのだ。これは仕事だ。
自分自身に言い聞かせて、外科とは別の階にある内科の医局を目指す。
すれ違う医師や看護士は会釈や挨拶をくれるのだが、ジフラールはそれに返事をする余裕すらない。辛うじて会釈を返し、重い足を引き摺るように進んで……ようやくたどり着いた内科の医局は、静まり返ってわずかな気配さえ感じられなかった。
「……もしかして、誰もいないのかなぁ……? そう言えば、内科の先生ってほとんどが独身貴族でお昼は食堂か外食って聞いたことあるような……」
さっさと終わらせようと思って、何も考えずに出てきてしまった。
確かに、休み時間だというのに食事も取らず、医局に閉じこもっているような医師はいないかもしれない。若い男性医師であれば余計に、だ。
少なくとも当番の先生は二人ほど残っているだろうが、医局にいるとは限らない。彼が当番だったかどうかなんて、知るはずもない。
「医局に置きっぱなしには出来ないし……どうしよう」
出直そうか、とエレベーターホールまで引き返して来たものの、壁につるされた時計を見上げて考え直す。
わざわざ外科の医局に戻って、またここを訪ねるには、昼休みは短すぎる。
ここで彼が帰ってくるのを待つほうが、きっと効率的だと思う程度には。
しばし考えて、ジフラールは午後からの予約やこれからの予定を崩すより、精神的苦痛を選んだ。時間は有効的に使いたいのだ。
「……私が待ってるのをみて、どんな顔するんだろう」
彼が微笑んでいるところを、ジフラールは見たことがない。
見たくない、というのが正直なところかもしれない。
何をされたわけでもないのに、最初に会ったときから苦手だった。
すぐ傍にいる、男に見えない外科医と対照的過ぎるせいだろうか。
彼は、どこからどう見ても男だ。まぎれもなく。
息を吐き出して、ジフラールは壁際に設置されたソファに腰掛けた。
会わずに済むなら会いたくないのに、どうして自分から彼を探して歩き回り、こうして待たなければならないのか。
いや、待つことが不満なのではなく、彼の目に晒されるのが嫌で……。
項垂れ、鬱々と考え続けていたジフラールの視界に、突然あるものが飛び込んできた。
曇りひとつなく磨き上げられた、濃い茶色の靴先。かつん、と踵の鳴る音が静かな廊下に響き渡る。
――いけない。
ジフラールは、強く拳を握り締めた。
彼は……この病院の内科医の中でも特に患者からの評判がいいウィルジオ=ハヴェルは、ジフラールにとって特別な人物だった。わけも分からず、理由もなく、ただ、彼の前に立つと不安になる。それ故、ジフラールは彼が苦手だ。
「……何をやってるんだ?」
静かに、フロア全体に染み込むように響く低い声音。
どこか気品の感じられる所作も、ミリエットとはまた別の耳障りのいい声も。切れ長の瞳や薄い唇も……彼のすべては、なぜか彼が『男』であることを痛いほど認識させる。
あぁ、だからだ、とジフラールは一人思う。
だから彼が苦手なのだ。彼の前に立つと、自分と彼がまったく違う生き物なのだと、強く思い知らされるから。
「おい……? 大丈夫か?」
問いかけの言葉にはっとする。
俯いた顔を覗き込まれそうになって、ジフラールは慌ててソファから立ち上がった。
抱き締めるようにして持っていたカルテを彼に向かって差し出す。
「だ、大丈夫、です。あの、10日に内科へ移った患者さんのカルテをお持ちしました。時々様子を伺いに参りますので、そのときはよろしくお願いいたします」
「……あぁ、カルテか」
顔を上げていないため、ジフラールに彼の表情は分からない。だが、差し出したカルテはゆっくりとジフラールの手から離れていった。ほっと安堵の息を吐く。彼の手元にカルテは渡った。この仕事は、これで終わりだ。
「こちらこそよろしく頼む。それで、何か特別気をつけなければならないことは?」
「え! ……あ」
不意打ちのように思いがけない言葉を聞いて、ジフラールは顔を上げた。
そして、紅の双眸に迎えられる。
ジフラールは、顔を上げたことを後悔した。
見たくないのに、嫌になるほど視線を引きつける彼の瞳。
彼女とよく似た瞳の色が、胸の棘をさらに深く差し込む。
現実に痛みがあるわけでもないのに、ジフラールはとっさに胸を押さえた。
痛い。抉るように、甦る甘く苦い記憶。
そうだ。忘れていた。
彼のこの瞳も、自分は苦手なのだ……。
「……とりあえず座れ。ミルが仕事のし過ぎだと心配してたが、まさか何か持病でもあるのか?」
突然、彼の大きな、しっかりとした手の平が肩を覆い隠し、強い力で押し倒される。膝の力が抜けていたジフラールは、抵抗することも出来ずぺたんとソファに座り込んだ。
問い質すような厳しい口調で紡がれた言葉は、ほぼ頭上から。
焦点の合わないまま見上げると、壁に手をついてこちらを見下ろす彼の不安げな表情に行き当たった。
心配、しているのだろうか。
ジフラールはそれをほんの少し不思議に思って……彼にかけられた聞き慣れた声で、我に返る。
「そんなところで、誰を口説いてるのかしらウィルジオ先生は。ここはエレベーターホール、昼休みが終わればすぐ先輩同僚後輩が帰ってくるわよ?」
彼は、男とも女ともつかない中性的な声にゆっくりと身体を起こし、首を回した。
深紅の瞳が逸らされ、彼女とは違う、濃い茶色の髪がふわりと揺れる。
彼の視線の先に立っているのは、中性的な体つきをした美貌の人。
「……クロウ姐さん!」
「ジルちゃん、何してるの? 狼に食べられそうな子羊みたいに震えて」
白衣を優雅に翻して近づいてくるのは、エルスワース病院の薬局で主任薬剤師として日々忙しく働いているクロウ=イクスだ。
「内科に何か用か? それとも、またソルに追いかけられてるのか?」
「両方よ。頼まれてたお薬を届けて回ってるんだけど、あの人その後をずっと追いかけてきてるみたいなの。アタシ、案外罪作りなオカマだったのね」
患者然り、この病院の医師然り、クロウに抱く第一印象は「優しい微笑みを絶やさない白衣の女性」といった単語で構成されているはずだ。
確かに、困っちゃうわ、と笑う表情は穏やかで、女性にしか見えないのだが。
クロウは、女性ではない。それは事実だ。そして、本人がオカマだと主張しているのだから、ジフラールはそうなのだろうと思っている。……正直に本心を言えば、彼というか彼女というか、クロウが男でも女でもオカマでも、構わない。
「それにしても……ジルちゃんってば、いつからジオ先生とそんな関係になったの? アタシ知らなかったわ。彼が出来たら教えてね、って、言ってあったでしょう? 秘密にしてたなんて、傷つくわぁ」
「ち、ちがっ、私とジオ先生は、そんなじゃなくって……仕事の話してるときにちょっとよろけたら、心配かけちゃっただけ! もうっ、からかわないでよ姐さん!!」
「あぁん照れちゃって可愛いんだから。いいのよ、姐さん秘密にしておいてあげる。ジオ先生が内科どころか病院からほされちゃ困るものね」
大きな誤解をされて、ジフラールは首を振る。そんな誤解、されたくない。他の人でも嫌だが、ウィルジオが相手ならもっと嫌だ。
どう言えば納得してくれるだろうかと思案したジフラールは、当てもなく唇を開いた。更なる言い訳を続けようとし、それを意外な人に遮られる。
「秘密も何も、俺と彼女の間には隠すものさえない。ただ同じ病院で働いているだけで、それ以上でもそれ以下でもない。妙な勘繰りはやめて欲しい」
滑らかに、わずかな淀みもなくはっきり言いきられた言葉。
同時に、すとん、と胸の奥に重いものを落とされたような錯覚を受ける。
確かにウィルジオの言っていることは事実で、自分もその通りだと思うのだが、なぜだろうか。先ほどの棘とは、別の痛みを覚えた。
傷口が膿んでいるような、熱を持った慢性的な痛みだ。
「あら? ……そうねぇ、それじゃ、そういうことにしておきましょうか」
ふふ、と笑うクロウは、彼の言葉も信じていないように見受けられた。
「……姐さん」
「あぁいけない、忘れてたわ。ねぇジオ先生、ジルちゃんも。レントゲン室の技師さんが、検査入院なさってる方の写真が上がったから取りに来てって言ってたわよ? あそこの室長さんは、相変わらず不思議ねぇ」
それはようするに、一緒に行って来いという意味だろうか。
頬に片手を当て、わずかに考え込むような仕草でさえ、女性の柔らかなものを感じさせるクロウは、自分以上に女性らしいから、何となく言いたいことが分かる。
クロウは、ジフラールとウィルジオの距離をもっと縮めてやろうと考えているのだろう。
確かに、同じ職場で働くには素っ気無い間柄ではある。ジフラールも自覚している。
だが……苦手なものは、苦手なのだ。
「姐さん、私は」
「……あんた、時間はあるのか? あるなら、一緒に行こう。患者の話は、歩きながらでも出来る」
ジフラールの声を遮ったのは、クロウではなくウィルジオだ。
渡したばかりのカルテを持ち上げて、こちらに覗かせる彼の行動や、なんでもないことのように自身を誘うウィルジオの言葉に、ジフラールは溜め息をつく。
彼にしても……どうして、こちらの感情などお構いなしで物事を進めるのか。
こちらのことなど……いや、彼が自身の感情を知っていたとしたら、こんな風に誘うことさえないだろう。彼はいたって冷静で、彼と他者の距離は、あやふやにされることはなく明確にされている。
好ましく思う相手にはそれなりの距離を、嫌いな相手には『嫌われているのだ』と自覚できる距離を。そうでない相手には、特別な感情を抱かせない距離を。
彼のことを苦手だとジフラールは思うが、そんな風に毅然とした態度でいられることはすごいと思う。尊敬、とはまた別の感情だ。
「えぇと……」
「どうせ行くんだろう? 患者の話は、早ければ早いほうがいいし……この先いつ時間が空くかは分からないしな」
彼の言葉は的を射ている。
患者の話をするのだと言われているのだ、拒絶するのもおかしい。
同じ職場で働くもの同士であれば、もしそうでなくとも、時間の空いているうちに、というのは間違っていない。自分たち医者は、いつ何がどうなるか、予測できるようなものと付き合っているわけではないのだから。
手詰まりだ。彼の誘いを断る理由がない。
……ジフラールは感情を無視して、答えるしかなかった。




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