01.introduction(1)
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 今日も今日とて日々残業。
ジフラール=メディトの勤務時間は、恐ろしく長い。
本人も納得済みで、残業手当もきっちりもらっているのだから雇用条件に不満はないのだが……一日の4分の3を職場で過ごしているのは、さすがに長いかな、と思わなくもない。
それでも、勤務時間は減らない。
理由は簡単。
「ジフラールさーん!!」
「ジルせんせー」
……ジフラールは、恐ろしく人気者なのだ。

 院内のほとんどの患者・医師から『ジル先生』と親しみを込めて呼ばれるジフラールは、この国立エルスワース病院で、知らない者のいない人気女医だ。
心臓血管外科を主に受け持つジフラールだが、患者たちに呼び止められれば、担当でなくとも耳を貸す。
例えばそれが、今夜の病院食に関することであったとしても、だ。
手術への不安から明日の天気まで、話を聞くことで少しでも患者の気持ちが安らぐならと、ゆっくり話を聞くジフラールに、誰もが好意を持って接してくれる。
25歳という年齢に噛み合わない、まだ学生のような顔立ちも原因のひとつなのだろう。どんな年齢層の患者からも親しまれるジフラールにとって、一日のほとんどを過ごす病院はもはや家のようなもの。
この病院に勤め始めて一月半経つ。4分の1年で職場に馴染んだのだから上出来だ。

 ジフラールは、この夏、とある事情で勤めていた病院をやめ、フリーになった。仕事が恋人だったジフラールの通帳には途方もない金額が貯まっていて、時間にも制限がない。さて、何をするかと思案して、今まで考えもしなかった『療養』だとか『バカンス』という言葉を思いついたのだ。
手始めに王都でも、と観光気分で遊びに来て、王都を一通り観光し終わった頃、この病院からオファーがかかった。
王都でも名を馳せる、何でも会社『トラブル×バスターズ』の医師団を兼ねた国立エルスワース病院へ来ないか、と。
 今まで住んでいた片田舎からわざわざ遊びに来たはいいものの、今まで息抜きの仕方を知らなかったジフラールにとって、療養もバカンスも、ちっとも面白いものではなかった。
つまらない、とまで言い切ることはないかもしれないが、楽しかった、とも言えない。
そろそろ仕事がしたいなと思い始めた頃にかかったオファーは国立病院から。
ジフラールは一も二もなく飛びついて、すぐさま田舎の部屋や荷物を始末し、とんぼ返りして病院のそばに部屋を借りた。
 それから、新しい環境の中で気持ちも新たに一歩を踏み出した。
――胸の奥に刺さった、小さな棘を抱えたままの出発だった。

 「ジフラールさん? なんか上の空だけど、どうしたの? 体調悪い?」
「ふぇ? ……あ、ミル先生。大丈夫ですちょっと考え事」
顔を上げると、そこにはやわらかな微笑がこちらを見つめていた。
優しい青の瞳。首を傾げた仕草にしたがって、麦わら色の柔らかそうなゆるい癖毛がふわふわと揺れる。
昼食を取っている最中だったジフラールの前には、自分で作ってきたお弁当が広げられている。半分食べたところで止まっていた。
「……ジフラールさん、自分で作るの?」
「え、あぁ、まぁ。一応一人暮らしで困らない程度には」
「ふぅん……すごいねぇ。僕掃除は好きなんだけど、料理だけはゼンッゼン出来ないんだよねぇ」
 そう言って笑い声を上げたミリエット=リフは、外科の医者だ。
この病院に赴任したばかりの時、真っ先に優しく色々なことを教えてくれた先輩の医師。腕もある点を除けば超一流なのに、顔だって自分とあまり変わらない童顔っぷりなのに、体つきだって男性と言うよりは女の人のように華奢ですんなりしているのに、一歳上だなんて詐欺だ、と思ったのはジフラールだけの秘密になっている。
薄い唇から紡がれるのは、雰囲気にぴったりの、ふわふわした耳障りのいい声。
こうして会話するだけで、なぜか心が休まるのは気のせいだろうか。
「僕もちょっとご飯休憩しようっと。あんぱんじゃむぱん、くりーむぱん」
「……まさかそれ、全部食べちゃうんですか?」
ごそごそと傍らから取り出した菓子パンの袋は、三つ。テーブルに並べられたその袋に入っている丸いパンのひとつひとつが、なぜか彼の顔ほどの大きさがあるように思うのだが……もしかして、これを全部平らげるつもりなのだろうか。一度にそれほどたくさんの食料が入りそうな身体には見えない。女性とも見まごうばかりの細さなのに。
 不思議そうな顔をしていたのかもしれない。くすくすと小さな笑い声が聞こえてきたのは、それからすぐのことだった。
「え、あの……何か変なこと、言いましたか?」
「いや、ホント、ジフラールさんって可愛い」
「へっ?! や、やだなミル先生、からかわないでくださいってば」
「からかってるわけじゃないんだけど……まぁいいや。食べるよ? ジフラールさんがそれ食べ終わるまでに全部」
にっこり笑って袋のひとつを破り開けたミリエットに、ジフラールは訝しげな視線を送る。
「……本当ですか? 一体、その身体のどこにそんな胃が」
「うーん……多分、このへんかなっ。僕、胃下垂だと思うから」
健康診断の時期が来たら、嫌でもレントゲン撮られるから分かるだろうけど、と、自分の鳩尾少し上辺りに手を当てた彼の仕草は、妙に可愛らしくて、ジフラールはほんの少し笑った。
「……よかった、ジフラールさん笑った」
「え?」
「すごく疲れた顔、って言うか……なんか、悩んでるみたいに見えたから。笑えるなら、まだ大丈夫かな。いい? ここは病院なんだから、早めに診てもらうんだよ? 僕たち医師が倒れたとき、一番困るのは患者さんたちだからね。ジフラールさんは……自分のこと、後回しにする節があるから」
ほんの少し、非難の色が込められた眼差しを向けられて、ジフラールは困惑する。
そんなつもりは……ないの、だが。
「そ、そんなことは……」
「あるんだよ、ジフラールさんは。僕やジ……いや、うん、僕たちが客観的に見てるとね。患者さんを最優先にして、自分の事を顧みなさ過ぎるのも、どうかなって」
そう言ったミリエットは、再び笑って、テーブルの上の袋に手を伸ばした。
ジフラールは、驚いて彼の手元を覗き込む。
そこに……先ほど開けられたばかりだった袋が握られているのを見て、唖然とする。
「ほら、だから言ったでしょ、僕よく食べるんだ。一日五食、日々健康に生きてるよ」
健康なのはいいことだが、一日五食とはどういうことだろうか。
視線を上げ、見つめたミリエットは二つ目の袋の中身にかぶりついている最中だった。小首を傾げる姿は学生のようで、ジフラールは問いかけの言葉を飲み込む。
彼は、そんな人だ。
笑えば、笑い返してくれる。暖かい、温度。
「そんなわけで……ジフラールさん、働きすぎだからあんまり無理しちゃ駄目だよ? 夜勤くらい、いつでも変わってあげるから」
「アハハ……ありがとうございます」
彼の心遣いには感謝するが、いつの間にか出来た院内ルールで、彼が執刀するときには必ず自分が付き添うことになっている。
彼が夜勤で緊急手術を行うことになれば、ジフラールは寝ていようとも叩き起こされる。それなら、自分が最初から夜勤に出たほうが楽だ。
彼の手術には……感動と衝撃と疲労と羨望がごちゃ混ぜになった感情が付き纏うのだから。
と、ドアの向こうから聞きなれた踵の鳴る音がした。
走るでもなく、歩くでもなく、胸を張って肩で風を切る、その姿が妙に似合う、彼の。
「うわぁ、見つかっちゃった」
「え? ……ミル先生、何かやっちゃったんですか?」
苦笑を浮かべて肩をすくめるミリエットに、ジフラールは首を傾げた。
彼は、近づいてくる靴音を気にするでもなく、最後の袋に手を伸ばしている。
そうこうしているうちにもかちゃりとドアノブが回る音がして。
「ミリエット! さっさと打ち合わせに出て来い、早めに昼休みを取っていたことは知ってるんだ!!」
ばたん、とドアが開くのと、ミリエットがパンの袋を破るのは同時だった。
途端、低く、強い意志を持った厳しい声が外科の医局中に響き渡る。
「アルサス先生。ごめんなさい、えっと……これ食べたら、すぐ行きます」
アルサス=レンは、脳外科医。
天才と呼ばれるミリエットと並んでこの病院の評判を高めている凄腕の医者だ。
ジフラールは、彼の怒鳴り声がほんの少し苦手だ……いや、彼は怒鳴ることなどない。厳しい声ではあるが、遠くまで通るはっきりした声だから、怒鳴られているように感じるだけで。強制力があるのは本人も自覚しているらしく、滅多なことがなければ声を荒げたりしない。
……別の意味でなら、高らかに声を上げるのだが。
「あぁすぐ来い、そしてこの俺様の天才的な手腕に驚くがいい!!」
「はぁい」
パンをくわえたままのミリエットを責めるでもなく、ふはははは、と高笑いを残して、アルサスが視界から消えた。
あれさえなければ、とジフラールはいつも思う。
「アルサス先生はいつも通りだねぇ。……まぁあの人はあぁじゃないと逆に不安になるけど」
もごもごとパンを頬張りながらそう言うミリエットに、ジフラールはこくりと頷き返す。
あれさえなければ、と思うものの……あれがなければ、彼が彼でなくなってしまう。
「ジフラールさんも、無理しないでつらいときは休みなよ? ……さて、僕はまた先生にせっつかれないように行ってこようかな」
ふふっと笑うミリエットの横顔に、ジフラールもつられるように笑みをこぼした。
「行ってらっしゃい、ミル先生。お気遣い、ありがとうございます。……あの、無理なんてしてないんですよ? ここのお仕事は楽しくて。だから……」
「うん。分かってるよ。それならいいんだ。……っと、いけないいけない。ジフラールさんと一緒にいると、時間忘れちゃうからいけないね。また怒られちゃう。それじゃ」
そう言って、ミリエットは片手に自身の担当患者のカルテを抱えて、立ち上がった。
三枚の袋をゴミ箱に投げ入れているところから見て、結局本当に全部平らげてしまったのだろう。
表には出さず、ただただ驚きながら、ジフラールは空いている左手を彼に向かって振る。
「アルサス先生のお相手、頑張ってくださいね」
「オッケー。ジフラールさんもね。午後から、内科に用事があるんでしょ?」
頑張ってね、と笑いながら医局を出て行くミリエットの背中に、ジフラールは身体を強張らせた。
そうだ、忘れていた。内科に移った患者のカルテを引き渡さなければならなかったのだ。
……彼に。
「あ……ど、どどどどうしよう、あぁぁ、もう、どうしてこういうときに限ってロイ先生じゃなくてあの人なのよぅ」
行き場のない困惑と不安が、ぱたぱたと振った腕に現れる。が、からん、と床に響いた金属音ではっとした。なんだろうか、と足元を覗き込むと、そこにはフォークが。右手を見れば、握っていたはずのフォークはない。
「……参ったなぁ」
溜め息をついても、仕事は仕事。
ジフラールは、床にしゃがみこんでフォークを拾い、医局ごとに設置されている給湯室へ向かって足を踏み出した。
……こんな気持ちで食べたら、消化不良を起こすのではないかと不安に思いながら。




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