Plumage Legend 〜絶佳の奇才〜 44.悲恋(1)
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 目を開ければ、真っ白な天井が見えた。
また色のない、くすんだ世界に逆戻りしたのかと飛び起きて周囲を見渡せば、傍らには色鮮やかな紫の花が、青磁の花瓶に生けてあって、俺は思わず安堵の溜め息をつく。
 生成りの、シャツ。真っ白な上掛けに隠れてはいるが、おそらく肌の色も、纏う布の色も、その陰影さえはっきり見ることができるのだろう。
ただそれだけで、こんなにも喜べる自分がいる。
……お手軽だな。こんな、当たり前のことを奪われていただけで、まんまと踊らされた俺は。

 とても、長い夢を見ていた。
リシュの両親の夢。リシュがいて、リシュの母親がいて、父親……ウミエルがいて。
とても、長い夢だった。
それは、俺の作った虚構の世界ではないと分かる程、整然としすぎた、誰かの記憶の断片。
それを見たおかげか、ずっと俺の中で燻っていたリシュ自体への疑問は解けた。認めるしかないと、そう思った。だがその気持ちは、やはり分からずじまいだ。
結局のところ俺は、リシュの気持ちを汲み取ってやれるほど繊細でもなく、賢くもないのだから。
追い求めて、それでも足りなくて……奪うようにリシュを削り取っていく。
本当はそんなこと、したくない。
それでも、止まらない。
リシュの父親が、リシュの母親に向けていた感情を知った今、曖昧にしてきた俺の中の想いにも、ようやく名前がついた。ひとつの、極端なまでの愛の形を見た、俺は……もう、躊躇う理由を持っていないのだし、な。
 よし、とひとつ言葉を声にする。
リシュに、会いに行こう。
そう決めて俺は、上掛けを剥ぎ取った。
どことなく動きがぎこちないような気がするが、確かめてみても、怪我や妙なところは見当たらない。おそらく気のせいだろう。
何より。そんなことよりも、今は……色彩がはっきりと目に映っている。その事実が、俺に異様な興奮と衝撃を与えてくれる。
見下ろした手の平は、リシュより日に焼けた肌色。透けて見える手首の血管部分は、かすかに青くなっている。自分の顔も見てみたくなって、俺はベッドから降り、濃い茶色の木目を刻んだフローリングへ、素足を下ろした。
木のかすかにざらついた感触と、ひんやりした温度が伝わってくる。
砂っぽいわけでもなく、埃っぽいわけでもなく、ただ、ワックスをかけ損ねたような、微妙な触感だった。
数歩、窓とは反対の方向へ、ドアがあると思われるほうへ足を進める。
だが、部屋を出るまでもなく、俺の目標物は姿を現した。
 ふと、目を逸らしたところ。
薄いカーテンで仕切られた空間に、手洗い場と作りつけの小棚があり、正面には……一枚の鏡がかかっていた。俺が、映っている。いつもとは違う色彩を持って。
 毎朝見る顔に、色がある。それは、不思議な感覚だった。
薄い金の髪。深い、形容しがたい色を湛えた蒼の瞳。かすかに見開いたその目は、鋭く尖っているが、彼女の父親よりは緩やかな弧を描いていると思いたい。窓から入ってくる光が髪で作り出す影は、額に真っ直ぐに落ちていた。
リシュの父親と、同じ色。
髪や瞳はもちろんのこと、肌の色でさえ、どこか似通っているように感じられた。
俺の色がリシュの父親に似ていると、前もって聞いていたせいか、理解しているつもりでいた。なのに、自分の目で確かめると、やはりその事実には驚きを覚える。
これでは……リシュが、懐かしいものを見るような視線を向けても、おかしくない。
一人納得したところで、ドアが軋んだ。
 「サイ? ……目が、覚めたんだね」
「……ファリエル」
きぃ、とかすかな音が耳に届いて、俺は身構える。
だが、ドアの向こうから顔を出したのは、見知った教官の、不安げな表情。
赤茶色の髪と、薄い緑青色の瞳。あぁ、こんな色だったのかと、俺は改めてそれを見つめた。しばらくファリエルの持つ色彩を追いかけて足先まで視線を下ろしてから、俺は顔を上げる。名を呼んだ俺に対し、ファリエルは、微妙な表情で笑っていた。
「……君、やりすぎだよ。彼、怯えてた」
そう言われて、俺は眉根を寄せる。
彼。
あぁ、そう言えば……俺はさっきまで、何をしていたんだったか。
記憶を探っていくと、波が寄せるように頭の奥に鈍い痛みが芽生えた。
痛い。
ただそれだけしか浮かばないほどの、耐え難い苦痛。
我慢ならなくて、俺はファリエルの言う『彼』を思い出すことを諦める。それと同時にすっと引いていく痛みは、俺が思い出すことを拒絶しているのだと知らしめた。
「俺は……何を、したんだ?」
覚えて、いない。
リシュを抱きとめて、その身体を抱きかかえたまま、俺は空の青を見た。世界に、俺の目に色彩が戻ってきたことを理解して、それから……。
それから、先。
俺の記憶は、ここで目を開けたときに繋がっている。
――俺は、誰に、何をしてここに連れてこられたんだ?
「覚えて、ないの? ……なんだ。それじゃあ君は、別人になっちゃったわけでは、ないんだね」
ファリエルが、心からの安堵を思わせる、柔らかな笑みを浮かべた。
別人? どうして、記憶がないことを安堵する?
俺は、何をして……何をされたんだ?
「リシュは、どうしてるんだ。どこにいる?」
湧き上がる不安と混乱に、ふと耳元へ手をやった。
リシュから預けられたカフスがついている、右耳。
触れて、探って……しかしそこに、金属の感触はなかった。
頭に上っていた血が、ざっと音を立てて引いていくのを感じる。
ない。
どれだけ触れてその感触を探しても、そこにカフスは、見当たらない。
ファリエルを押しのけて鏡に映した俺の左耳にも、カフスはついていない。
「サイ? どうしたの? 耳が、何か……?」
訝しげに問いかけてくるファリエルも、今は煩わしいだけだ。
俺の問いに、答えられないのであれば。
「リシュは!! リシュは、どこに行った?!」
「え? さぁ……あのあと、別の療養所に運ばれたらしくて、連絡は細かくとってないから……この間お見舞いに行ったときは、まだ意識がなかったし」
目の前で曖昧に笑うファリエルが、おぞましいものに見えた。
あんなにも親しみをもってリシュに接していたはずなのに……何がこの男を変えたのか。
分からない。知りたくもない。
「ふざけるな……俺は、リシュがどこにいる、と訊いている!!」
ただ俺は、リシュの傍に行きたい。それを実行に移さなければならない。
リシュに、伝えたいことがあるから。
答えられないような男に……用は、ない。
 壁に、手の平を強く叩きつけた。
「うわ! ちょ、ちょっとサイ!!」
木を叩く音とは違う、激しい破裂音と同時に、壁に穴があいたようだが……気にしない。
リシュが見つからないなら、俺はこの世界にいる理由などないのだから。
木の破片が飛び散ったとき、頬を掠ったのか、何かが頬を伝い落ちる感触がある。
拭おうと手の甲を近づけると、その手の中指には、守護石の指輪が嵌っていた。
はずすことをしなかったせいか、いつの間にかそこにあって当たり前な気がしていた、透かし模様の入った、銀の指輪。
壁に穴を開けたせいなんだろう、所々血が滲み、痛む手の平を無視して凝視する。
何かが、足りない。
この手に、何かがあったはずなのに。
何か……。
ふっと、脳裏に浮かぶもの。……あぁ、思い出した。
爺がリシュのために作った指輪だ。
俺の小指に嵌っていた、リシュのものになるはずの、華奢な指輪。
あれが、なくなっていた。
……それ、は。どういう、ことだ?
嫌な予感と、胸騒ぎと。
息が詰まるような不安に、俺はその部屋から飛び出した。




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