Plumage Legend 〜絶佳の奇才〜 07.月氷流華
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 さっきまでのどじっぷりが嘘のように順調に進んでいたリシュが、ふと振り返って俺を見た。
澄んだ翡翠色の瞳に、飲み込まれるような錯覚に襲われる。
「あの……」
「何だ?」
「サイは、花に触っちゃ駄目ですよ」
きっぱりと言い切られて、俺は問うた。
「理由は」
冷たく響いただろう声をものともせず、リシュは小さく微笑んで答える。
「月氷流華って、字の通り、氷の花なんです」
「氷の花……?」
「はい。月氷流華の咲く場所は、川や湖、泉の源泉です。湧き出たばかりの水辺に、梢から漏れて届く壱の月の光で芽を出します。月からの光を存分に浴びて育ち、凍れる蕾から花開くのが、月氷流華。あの花は朔の日が来ると、月からの光が途絶えて溶け崩れてしまうんです。それが、月氷流華の寿命だし、開いた花の美しさを際立たせます。とても脆くて、その脆さがますます美しく感じさせるのかもしれませんね」
……月氷流華のことはよく分かったが、それは俺が触ってはいけない理由になってないと思うんだが。多分リシュは、気づいてないんだろう。
「結局、俺が触れない理由は何なんだ」
「あれ? ……あ、ごめんなさい、あの、だから……月氷流華は氷の花だから、火属性のサイでは駄目なんです。普通の力しか持っていない人ならともかく、ファリエル教官から聞いた限りではサイの力はお父様くらい強いんですよね? 火の攻撃属性しか持っていないサイが、無意識のうちに展開する保護障壁の波動だけで花を溶かしてしまうかもしれないんです。持って帰るときには、ちゃんと結界を張るので平気なんですけど、それまでは。お母様が言ってました。強大な火天使の攻撃力と、それに連なる保護障壁は、無意識に外へと放出されているから、私やお母様とは違って、近づいちゃいけないものもあるんだ、って」
お父様、お母様の好きな花なのに、一人で摘んでくることも出来ないなんてって苦笑いしてらしたわ、と懐かしそうに笑う。
 理由は、分かった。山のような疑問を引き連れて、だ。
……お父様、お母様だと?
 俺たちは、自然の中で生み出され、養成所より下の、育成所で育つ。
親という概念は、基本的には存在しない。
期間は様々だが、自我が安定してくるとそのままエスカレーター式に養成所に入り、ファーストからフィフスグレード、最終学年を経て一人前になる。
こいつは精霊に育てられたと聞いた。それだけでも、この世界ではありえないことだ。
その上両親がいるって言うのか。
さっきの話を聞いた限りでは、こいつの言うお父様お母様が精霊ってわけでもなさそうだ。
ウミエルと比較される俺と、同じくらい強い。そんな天使は、知らない。ウミエルにしたって、記録に残っているのは、歴代で最も早く四天使長になり、最も強く美しい天使だったということだけ。
……訳が分からない。
どういうことだ、と言いそうになって、止めた。
プライベートまでは、踏み込むことはない。踏み込んではいけない。
 今は、課題が優先なんだ。
忘れろ。……言い聞かせるように頭の中で繰り返して、小さなリシュの背中を追った。

 耳に、かすかなせせらぎの音が届いた。
「もうすぐ、木が脇に避けて少し開けた場所に出ます。そこに入る前に言いますから、待っててください。花が溶けないように結界張ったり、時を止めたりしないと、動かせないんです」
リシュが俺に背を向けたままそう言った。
広げられた枝から漏れてくる光の向きは、日が落ちるまであと3刻だと告げている。ここまで飛んでくるのに、大体1刻半はかかったと思う。
「……間に合うのか?」
「間に合わせます。……ひとつめの課題から落とせませんもの。サイに、迷惑かけたくありません。足も、引っ張りたくありません」
きっぱりと言い切ったその言葉の強さに、少し驚いた。
穏やかだった口調が、やや緊張を帯びているような気がする。
その表情が見たいと思った。
「……ここで、少し待っててください。ほら、あそこに咲いてるのが、この月最後の月氷流華……奇跡の花です」
木が、空間を広げるように斜めに生えていた。
その中央に、かすかな清水のせせらぎと、細く流れ出す川の源があった。
ごつごつした岩に囲まれ、その隙間から力なくこぼれる水から、細い、糸のような茎が立ち上がっている。その半ば当たりに、蔦に似た葉が2枚つき、その先には、小さな、花が咲くのかどうかも分からない華奢な蕾が乗って……ただ真っ直ぐに凛と立つその姿は、どこかリシュに似ている気がした。どうしてリシュと重なったのかは分からない。
ただ、漠然とそう感じた。
「それじゃ、行って来ます。結界を張ったら、ちゃんとお見せしますね」
いつの間にか、その花の造形に見入っていた自分に気づく。
リシュはくすりと笑って、通り道のように開いた狭い木の隙間に、身体を滑り込ませた。

 「あなたの姿をこの瞳に、煌く花びらをこの胸に、短い命のその時を、僅かに留めてこの手の中に」
裾の広がったスカートを風に翻して、歌うように、聞いたこともない呪句を口ずさみ、花にそっと手をかざす。
背中の羽は具現していないのだろうが、それでもかすかに白い残像を残して、その姿を俺の目に明確に焼きつけた。
目を凝らし、力の渦が巻き上がるのを視る。そこには、風、水、木、大地……リシュを守護する精霊たちが、その場を離れるようにと言い聞かせるかの如く花を取り囲んでいた。
眩しいくらいに、光の満ち溢れた空間。
言葉にならない光の色、それに照らされ輝く、ひとつとして同じもののない梢に宿る葉の緑のグラデーション。薄く苔のむした濃灰の石の色。日の光を軽く受けて、きらきらと光る透き通った氷の茎。
夢の中のように、現実味のない世界。
そこに、見事に溶け込んで調和した、パートナーの姿がある。
「……ごめんね。あと少しの命を早めるような真似をして。でも、あなたの美しさをたくさんの人に広めたい。あなたの幻と呼ばれた姿が、こうして存在するのだと知って欲しい。場所は、決して教えない。だからお願い。あなたの命が尽きるまで、私と一緒に、来てくれないかしら?」
優しい、労わるような言葉さえも、力を含んだ呪句になる。
こんな力の使い方を、見たことがない。精霊を使役するのではなく、精霊に助けられる、そんな感じだ。
これが、天界で最高の癒しの天使。
――全身に、緊張が走った。
呪が発動するまで、それは理解の範疇を超えた、想像も出来ないほどの速さ。あまりにも自在に扱われる力の流れに、身震いする。
普段の姿からは想像もつかないが、こうして実際に力を振るうところを見ると、信じざるを得ない。
 本当に、こんな清らかな存在が、俺のパートナーなのか。
諦めや無力感に囚われた俺の隣にいていいのか。
……急に、今を信じられなくなった。
 意識を蝕む不安、それに気をとられていたとき、突然強い風が吹いて思わず目元を庇う。
頬を撫でる風の穏やかさに顔を上げれば、そこには小さな丸い氷の籠に入れられた、儚く華奢な月氷流華がリシュの腕の中で煌いていた。
「結界、完成しました。日が暮れてしまわないうちに、行きましょう」
微笑むリシュの、かすかに上がった息、淡い薔薇色に染まった頬。その背後に広がる森は、鮮やかな……緑、では、なかった。
 さっきまで広がっていた極彩色の世界は、いつの間にかセピアへと変化していた。
色褪せた世界に浮かび上がるように、リシュと、その手に抱かれた冷たい光を放つ月氷流華。
 それは、たった一瞬の変化。
例え一瞬の極彩色であっても、今目の前に広がる風景が色褪せたようなセピアで彩られていても、今までより確実に広がった色彩に胸が高鳴る。
訳が分からない。頭の中は疑問で埋め尽くされている。
それでも、俺は確信した。
リシュが、俺に色を取り戻してくれるんだと。




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