続・王子様たちと私 穏やかな陽光・乱れる想い
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 こんな風に天気のいい日は、大抵、書庫でじっとしていた。外に出れば、虐められるのは目に見えていたから。
雨の日は、いつも、外を走り回った。探し物をするためだ。
弱かった幼い日々は、アーサーの中に今も薄暗い記憶として染み付いている。
 オークに出会い、剣術を習い、自分自身の腕で受けた痛みを返せるようになったとき、アーサーはようやく、ごく普通の子供の生活を手に入れることが出来た。とても、とても長い日々だった。
そして、普通の毎日を手に入れたアーサーは、ある日ほんのわずかな光を見つけた。
手が届きそうで届かない。それを掴むために、更なる力を欲した。人を傷つけることを覚えた。
けれど、どれだけ頑張っても、どれだけ強くなっても、アーサーはその光に近づけなかった。縮まらない距離に歯痒さを覚えたとき、すでにアーサーの周りに敵はなかった。
 それなのに、やはり光を掴むことは出来ない。欲しいのは、人々の畏怖の目でも、嫌悪の目でもなく、そこにある光だった。求めても求めても、届かない。そのもどかしさ。
こんなに欲しても手に入れられないのなら、いっそいらない、と、見ない振りをした。
求めても逃げるばかりの希望など、望むだけ虚しい。
 堕ちるところまで堕ちた。そこから見上げて、これなら届かなくて当然だと、笑って言えた。
なのに。
どうして今は、こんなにも夢中で、彼女を追い求めているのだろう。
光そのもののような彼女が、こんなにも黒く澱んだ自分の、手に入るはずもないのに。

 「っ!!」
飛び起き、見開いた瞳を眩い光が焼いた。
慌てて目を閉じ、乱れた呼吸を整えて、ゆっくりと瞼を開く。
晴天だ。
「アーサー酷いや! 寝ちゃうなんて! 見ててやるって言ったくせにっ!!」
子供の声が近づいてきて、とすんとアーサーの膝の上に乗りかかった。
「……ナイン、重い」
「うたた寝してた罰」
目の前で腕組みをした、膨れっ面のナインが、そっぽを向く。
よほど拗ねているのだろう、夢見の後味の悪さを残したままのアーサーは、かける言葉を懸命に考えた。
それにしても……嫌な、夢だった。
「うたた寝とは、いい度胸ですね?」
「うっ」
追い討ちのように上からかけられた、日の光とは正反対の冷たい声。
反論に困って、アーサーはそろそろと視線を上げる。
そこにあるのは、にっこりと微笑むファスの唇と、ちっとも笑っていない瞳。
「いや、その」
「僕に稽古を任せて、ご自分は休憩ですか。本当に酷い人ですね」
「……だから、えーと……」
返す言葉が見当たらず、前髪をかき上げて、言葉を濁す。
 ファスは、アーサーのかわりに、ナインに剣術の稽古をつけてくれていた。
アーサーが、自分では満足に教えてやれないのだとファスに直訴したからだ。
困惑気味のファスだったが、無理やり剣を持たせれば、仕方なく、といった顔で、ナインの指南役をこなしてくれた……のだろう。途中で眠ってしまったアーサーは、それを最後まで見届けていない。責められて当然だ。
「悪かった」
「それでは、ひとつお手合わせ願いましょうか」
「は?」
素直に謝ったアーサーへとかけられたのは、予想外の言葉だった。
「ずいぶんとお暇なようですから。確かに僕では物足りないかもしれませんが、彼の相手よりは、幾分ましではないかと」
「えぇと……」
いいことを思いついた、とでも言いたそうな、楽しげな顔。
だが、アーサーにとっては少しも嬉しくない申し出だ。
「これでも僕は、武官になる道もあったのですよ?」
そんなことを心配しているわけではない。軽く息を吐いて、うな垂れる。
そうではなく……。
「俺は、あんまり本気出したくないんだが」
「僕は、出していただけたほうが嬉しいのですが」
「いや、だから」
さらにいい募ろうとしたが、顔を上げ、改めてファスの表情を見て……諦めた。
無駄な説得など、疲れるだけだ。
「分かったよ。やればいいんだろ、やれば」
まだ膝の上に乗っているナインに、降りるよう言って、アーサーはゆっくりと伸びをした。

 渡された木剣を、手の中でくるりと回す。
切っ先は丸くなっているし、両刃をかたどった部分も、擦り切れて緩やかなカーブを描いている。柄尻も、柄も、尖ったところはなさそうだ。
「これなら、大丈夫か」
「どういう意味ですか?」
「いや、別に」
言うに言えず、アーサーは首を振った。
――くたびれた剣でないと、酷い怪我を負わせてしまうかもしれないから、なんて。
とても……言えなかった。
「それでは、始めましょうか、一本勝負」
「あぁ、いつでも」
「では……参ります!」
風が、吹いた。
 基本の型を守り、応用の型を見事に組み込む。
ファスの太刀筋を読みながら、アーサーは感嘆の声を上げた。
「さすがだなぁ……こういう綺麗な剣の振り方、俺にはとても出来ない」
「そのように褒めていただいても、一本取れなければ、意味などないのですよ!!」
つ、と、彼の額から散った汗に、何気なく視線を流した。
その先に……思いも寄らない人物を、見つける。
「あぁ、ディオネだ。ディオネがいる」
そこにいるのは、銀の歌姫。目を見開いて、驚いた顔をしていた。
こんな偶然があるものなのか、とアーサーは流されそうな意識の片端で思う。
「余所見をしている暇など、ありません!」
そう言ってファスは、振りかぶった剣を、アーサーの剣に向かって打ち下ろした。
 ファスの太刀筋は、型に忠実だ。
流派の数だけある型だが、逆に言えば、その流派を知っていれば、ある程度は次の手を読むことが出来る。
数日間をこの国の王宮兵と共に過ごしたアーサーは、手合わせした兵の数だけ、この国の剣術の型を知っていた。ファスの型も、彼らと同じものだ。太刀筋が綺麗な分、余計に先を見通せる。
 だが、アーサーに、そういった決まった『型』は存在しない。
あの強い王太子に勝つには、彼から教わった技術だけではとても無理だったからだ。今アーサーが振るう剣の太刀筋は、様々な武術を混合させ、アーサーなりに改良を施してある。
だから、アーサーが身につけているのは、初歩中の初歩のいくつかの型と、我流の応用。
アーサー以外、使い手などいない。
 気配で感じ取っていたディオネは、すでにそこにはいなかった。
回廊からこちらを眺めて、そして、すぐにその場を去った。
表情の変化を見ることは出来なかったが、体調は、幾分かよさそうに感じられた。
少なくとも、ちゃんと睡眠をとっているようだ。よかった、と、安堵が胸に満ちる。
だが、それもすぐに、がつ、と木剣のぶつかり合う音で意識を引き戻される。
真っ直ぐに向けられる切っ先。迷いのない視線。
どうしてこんなことになったのだったっけ、と、ぼんやりアーサーは考え……それさえも、煩わしくなって。
アーサーは、こぼした溜め息を合図に、思考の全てを切り離した。

 「やめてあーさーっ!!」
強く服を引かれて、立ち止まる。剣を振り上げた姿勢のまま、体が固まった。
「……あ、れ?」
目の前には、驚いた表情のファスが腰を落としていた。
何に引っ張られているのかとゆっくり背中を覗き込めば、ナインが泣き出しそうな表情でアーサーを見つめてくる。
「終わってるから、もう、いいでしょ……?」
「いいんですよ、ナイン・アルス。これは、無理を言って殿下に剣を持たせた、僕の責任です」
あぁ、と息を吐き出す。腕から力が抜け、ずるりと下がる。
手の中の木剣が、力を失った指から滑って、からんと地面に落ちた。
「……ずっと、不思議に思っていました。どうして、本気を出して剣を振るわないのか、と。そうすれば王宮兵に厭事を言われることもなく、その実力で、分からせることが出来るのに」
ファスの、真っ直ぐ向けてくる視線に、唇を噛んだ。
アーサーにとって、それは、そんな簡単に済ませられる問題ではなかったから。
「あなたは、己の身を守るために、傷つけることを厭わない剣を振るうのですね。平和に慣れてしまったこの国の王宮兵は、傷つけずに捕らえることを前提とした剣を身につけます。けれど、あなたは……危険に身をさらしていた王子は、そのような甘い太刀で、許されはしなかったのですね」
ファスが、淡々と言葉を続けていく。
それは歪んだ真実であり、美しい嘘だ。
身を守るため?
違う。
本来なら、普通に考えればそうであったとしても、アーサーは違った。
オークから剣を習いたい、そう思った頃は、自分の身を守るためだった。それは間違いない。純粋な気持ちがあった。
けれど、やがてそれは意味を変えた。ずいぶんと、歪んだ形へと。
アーサーが幼い頃から、あれほど真面目に剣術に取り組んだのは、自身を傷つけようとするものを、傷つけるためだ。
己に与えられた痛みを、相手へ刻み込むために。
彼が言うような正しさに満ち溢れた言葉では、アーサーの内に眠る真実など、語れるはずもない。
「今度から、外に出たときは、ナイン・アルスに稽古をつけましょう。たとえ、あなたが本気を出さなかったとしても、木の国の王太子殿下を師とするあなたに、僕が勝てるはずもなく、また、教えられることなど、存在しないのですから」
申し訳ありませんでした、と、謝罪の言葉を聞き届けて。
唇にかけた力を、ゆっくりと抜く。
――言えない。
とても、彼に真実は言えない。
この王宮は、とても平和だ。安らぎが満ちている。
けれど、暖かくて、冷たい……アーサーのいた、温度差の激しい浮遊大陸の王宮は、この王宮のように、清らかではない。
 王位継承者が、複数いるからだったのかもしれない。
アーサーが、王子の一人が、普通の枠に嵌らない存在だったからかもしれない。
どちらにせよ、王位継承にもめることのないこの国では。アーサーの声を、特別なものと見ることのないこの王宮では、アーサーの身に降りかかってきたことなど、知ることは出来ても、理解することは出来ない。
誤解を正さないことと、真実に口を噤むことへの謝罪を、心の中で呟いて。
アーサーは、落とした木剣を拾い上げた。


 頬を滑る雫が、雨なのか涙なのか、それさえも分からないような嵐の日だった。
その日は、一緒に書庫に行くはずだったのに、シーザーが熱を出してしまって、急遽取りやめになった。アーサーは一人取り残された。城中の人間が、シーザーの身を案じ、アーサーのことなど、二の次だった。
それは、別に構わない。シーザーの体調の方が大切だ。
けれど、城に遣える者たちがシーザーで手一杯だったということは、その子供たちもアーサーと同じように暇だった、ということだ。
だから、アーサーは彼らに隠された物を探して、城中を走り回っていた。
 その頃はまだ、アーサーの剣術もそれほど強くなくて、まだ基礎の段階を終えたくらい。
体術にいたっては、受け身を取るだけで精一杯だった。
だから、アーサーは耐えていた。
胸の奥に宿る暗い熱を持て余しながら、その先にあるものを目指してただひたすらに耐えた。
絶対に、見返してやる。
走りながら、拳を強く握った。
 アーサーを虐める者たちは、アーサーの声を聞いてはいけない、と知っていた。
アーサーがやめろと叫べば、彼らは意志に逆らって手を止めるしかなかったし、返せと言えば、彼らはアーサーから奪い取ったものを素直に返すしかなかった。
だから、彼らは決してアーサーと顔を合わせなかった。
アーサーのいないところでこっそりと目当てのものを取り上げて、それをどこかへと隠してしまう。
アーサーはいつも、そうして隠されたものたちを、何の目星もない状態から見つけ出さなければならなかった。
自分の境遇を、嘆く余裕さえなかった。
『今』を保つことに、必死だった。
 両親はアーサーを確かに愛してくれたし、シーザーもなぜかよく懐いてくれた。
けれど、だからこそアーサーは、彼らに自分の受けた仕打ちを、打ち明けることは出来なかった。
彼らは、知らないのだ。
アーサーが受けている痛みも、それをもたらしている相手も。
アーサーがそのことを打ち明ければ、確かに、両親は彼らを罰してくれるだろう。
では、そのあとはどうなる?
もしもアーサーが虐める側だったとしたら。
告げ口をした弱い立場の者に、どんな行動をとるだろう。
 答えは簡単だった。
二度と告げ口をしたくならないように、痛めつける。
それでも駄目なら……アーサーならば、弟を使う。
アーサーがまだ年端も行かない弟を、目に入れても痛くないくらい大切にしているのは誰もが知っている。
疑問を抱くものも多いが、アーサーにとっては、無条件に慕ってくれる弟が、可愛くて仕方なかった。
だから、アーサーが虐める側なら、幼い弟に対象を移す。
そうすれば、嫌でも口を噤むはずだ。
アーサーは、シーザーに矛先を向けられるくらいなら自分を犠牲にする。
小さなシーザーを、傷つけたくないから。
アーサーは、ただひたすらに沈黙を守り、耐えるしかなかった。

 なかなか会えないオークに与えられた課題を消化するために、一人で木刀を振るっていたアーサーは、あるとき、一人の男性貴族に出会った。
その人はいつも、アーサーのことを少し離れたところから見守っていて、アーサーをからかいに子供たちが飛び出してきたとき、偶然を装って、わざわざ声をかけてくれたりした。
隠されたものを探す最中に、彼らが走っていった方向を教えてくれたり、落ちていたからと言って持ってきてくれたりした。
アーサーはその人の名前を知らず、なぜ助けてくれるのかも分からず……ただ、ありがとう、と。そう囁くことしか出来なかった。
大人を信じるのは、怖かったから。
何か裏があるのかもしれない。アーサーを通して、この国の王である両親の耳に名を伝えさせ、一旗上げようと考えているのかもしれない。子供相手なら取り入りやすいと思って、近づいてきたのかもしれない。
そんな風に疑い始めたらきりがなくなって、アーサーは、彼の名を聞くこともせず、深く関わろうともせず、ひたすらに、与えられる優しさにひっそりと甘えた。
 忘れたくて仕方ない、嫌な過去の記憶の中で。
彼の存在は、アーサーにわずかな安らぎと、心の余裕をくれた。
大切に抱え込んだ、色褪せた遠い記憶。
血縁者以外で、唯一信じられたオークのいない王宮で、数えるほどの、ささやかな暖かい思い出。
 やがてアーサーは成長し、剣の重みに振り回されることもなくなり、意のままにそれを扱えるようになった。王位はシーザーにと主張する貴族たちから執拗な嫌がらせは続いていたが、やろうと思えばいつでも行動に移せる強さが、アーサーに余裕を与えてくれた。
成長に伴って纏わりつくのは、炎に引き寄せられる羽虫のような女たち。
この声に酔って、一夜限りの夢を見る女たち。
それで遊ぶのにも飽きて、どうでもよくなった。
彼女の噂を耳にしたのは、ちょうど、その頃だった。
 止まりかけたねじが回され、再び動き始める。
出会った奇跡は、今、アーサーのすぐそばに……いる。
手を伸ばせば、届くかもしれない。
今ならば、もしかして。
靄がかかったような頭で、そう思う。ゆっくりと、手を伸ばして。
その手が、何かを掴んだ。

 ――目を開ける。
白いシーツの波の上、腕が何かを求めるように伸びていた。その先の手は、掴んだものを離さないように、しっかりと硬く握り締められている。
いや……もしかすると、何も掴めなかったのかもしれない。求めるものを、何も。
「っつーか……一体いつの間に俺はベッドまで」
緩慢な動作で、ベッドの上に身を起こす。
頬を押し付けていた部分のシーツはずいぶんと乱れていて、きっと頬に跡が残っているんだろうな、とアーサーを苦笑させた。指先で触れた頬は、熱い。
 最近、ずっとこんな調子だ。記憶が、時々欠落する。
夕食を済ませたところまではちゃんと覚えているのに、そこから先……ベッドに身を横たえた記憶さえない。それだけ、疲れているということなのだろうか。閉め忘れたのか、レースのカーテンしかかかっていない掃き出し窓の向こうは、ちょうど、夜明けを待つ薄紫に染まっている。
 今日といい、この間といい。
「俺は、どうしたんだろうな」
懐かしい人を夢に見て、いつも、求めるものを掴み取れずに終わる。
何かの暗示だろうか?
夢の余韻は、後味が悪く……しばらく引き摺るかもしれない、と、アーサーは一人呟いた。

 新しい一日が始まる。




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