続・王子様たちと私 忍び寄る悪夢・伝わらない温度
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 毎日が同じことの繰り返しでは、いくら決意が固くても揺らぎそうになる。
「確かに、俺は人並みに知識欲を持っている。この国は何もかもが他とは違う。あの書庫は素晴らしいと思う。だが、だからと言ってあそこに缶詰になると言った覚えはない」
昨日は凄まじかった。
ナインがぐずって起きなかったこともあって、アーサーはディオネと一緒に朝食をとらなかった。ようやくナインが落ち着いて、食事に、と思った頃には、すでに朝食という認識がなくなるほど日は高く昇っていた。仕方なくゆっくりとブランチをとり、それから、ファスに呼ばれ……あの書庫へとこもった。
時間感覚のなくなる、本に囲まれた空間。ファスに促され部屋を出たときには、すでに夜の帳が下りたあと。さすがのアーサーも驚いた。それほどまでに時が過ぎているとは思いもしなかったから。
夕食は、ディオネが待っていてくれたらしく、ナインとともに三人で過ごした。彼女は少し忙しいの、とぼやき、わずかな疲労を滲ませた顔で微笑んでいた。
それでも、こうして待っていてくれると言うことは、アーサーを求めてくれているのだろう。彼女の話を聞くことくらいしか出来ることはないが、アーサーはアーサーなりに、ディオネのことを助けたいと思っている。
 だが。
「書庫にこもりっぱなしも嫌だが、これも嫌だ……」
周りは、引き絞った弓のような緊張感を漂わせたこの国の王宮兵。
休憩時間だというのに、地面に座り込んで汗を拭うアーサーに向けてくる敵意は、凄まじいものがある。
誰も彼もが、アーサーをよく思っていない。
女官に暗い瞳で睨まれるよりはましだが、それでも、剥き出しの敵意はあまり心地よいものではない。
 昨日の反省でもしたのか、ファスは今日、時計を持参してやってきた。
またしても成長したナインの服を選んでやっている最中の出来事で少し焦りはしたが、ナインを連れて行くことにさほど不満げな様子は見られず、安心した。
ナインとともに書庫で午前を過ごし、昼食を取り、午後から連れて来られたのがこの場所だった。
「書庫に入り浸っていては健康にも悪いでしょうからね。剣術は木の国の王太子殿下から仕込まれたものだと伺っています。我が国の兵ではいささか物足りないかもしれませんが、数だけはおりますのでどうぞご存分に」
にっこり笑ってそう言ったファスを憎らしく思うのは当然のことだろう。
ファスの言葉に、兵たちがいきり立つのも当然だと思う。
わざとに違いない、と確信を抱いて、アーサーは彼から木剣を受け取った。
 それからしばらく、彼らの基礎訓練に混じり、言われるままに模擬試合をこなし、ようやく、休憩時間になったのだ。
ナインはこちらの様子などお構いなしに、落ちていたらしい枝を使って、土の上へ不可思議な模様を描き続けている。日よけのためにかぶせた帽子で髪が隠れてしまえば、顔を上げない限りこの子供がナインだとは気づかないだろう。
年齢にして四歳から五歳前後。どうやらナインは、独り遊びが好きらしい。と言うよりは、同じ年頃の子供がいないため、一人で出来る事を探すしかないのだろう。
「ナイン、それは?」
「これ? あーさーだよ」
顔を上げたナインが、にっこりと笑ってそう言った。
「……えらく抽象的で前衛的な俺だな」
4歳児の絵は、さすがにまだ判別が難しいようだ。土の上に描かれたせいで、余計に分かりづらい。地面に色をつけさせるわけにもいかない。
「今度、紙とクレヨンでも買って来よう。そのときにもう一度描いてくれ」
複数の円と交差した線で作られるその芸術は、アーサーにはまだ理解できない。
「あーさーは、くろ。でぃーは、ぎん。ないんは、あか」
鼻歌なのだろうか、口ずさむその音には迷いがない。
「たいようもくろ。つきもぎん。せかいは、きん」
「……は?」
幼子に問いかけて、答えなど返ってくるはずもないのに。
思わず、問いを発してしまった。
「ん? なぁに?」
「……いや、別に。何でも、なくはないが」
「なぁに?」
首を傾げて見上げられて、アーサーは言葉に詰まる。
問いかけて、よいものだろうか。
「やっぱりいい」
今はそれよりも、この身に突き刺さるような鋭い視線ばかりが気に障る。
痛い。痛すぎる。
「殿下」
そしてかけられた声音は、ここ二日で嫌になるほど聞いたもの。
「……何か?」
今し方まで木陰で大人しく書類を整理していたように見えたファスが、それらをまとめて抱え、アーサーの前に立ちはだかった。
「いいえ。少しは気晴らしにでもなるかと思ったのですが、いかがでしたか? 申し訳ありませんが、別件で呼び出されました。これから暑くなりますし、本日はこれにて」
頭を下げたファスを見上げ、アーサーは生返事で応じた。
彼の厭味も嫌だが、それ以上に気に障る気配は、どうやっても消えそうにない。
足早に回廊へ向かって歩き出したファスの後ろ姿を眺め、溜め息をつく。
「気晴らしになれば……よかったんだが」
自国であっても、やはり兵たちの顔を立てなければならなかった。
他国ならば、なおのこと。
やりすぎてもいけない。かと言って、負けるわけにはいかない。
あまりにも困難な力加減に、アーサーは少々辟易していた。
「姫様はこいつの何がよくて連れてきたんだろうな」
「顔は確かに、いいんだろうけどさ」
「性格は悪そうだよなー」
「ティバルス様にも偉そうな口利くし」
「姫様、もしかして脅されてるんじゃないのか?」
剣の腕は半人前もいいところだが、口の回転は一人前では足りそうもない。アーサーとの手合わせにさえ漕ぎ着けなかった未熟な腕でも、言うだけなら言える、ということだろう。
反面、手合わせをした者たちは、何かを言いたそうに、けれど口を噤んだまま時折アーサーのほうを窺っている。
手を抜いたことに、気づいているのだろうか。
だとしたら、ますます嫌われたかもしれない。
くっと笑って、アーサーはナインの頭をそっと撫でた。

 休憩時間を挟んで、また三人の兵と手合わせをした。
日はずいぶんと傾き、アーサーにも疲労がたまっている。そろそろ終わりにしたい、と、アーサーは一足先に修練場を後にした。
木陰で、頭上を飛び回る蝶を捕まえようとするナインの元へ向かう。
「ナイン」
「あーさーっ! おわった?」
アーサーの姿を見つけたのか、ナインは蝶に気をとられていたことも忘れて飛びついてくる。それを転ばないように抱きとめて、アーサーは思わず笑った。
「あぁ、終わった。楽しんだか?」
「うん! あのねぇ、ないんもけんじゅつする」
あまりにも突然の発言に、アーサーは目を瞬いた。
「剣術? あぁ、まぁ、そりゃあいつかはな? けど、まだ剣持つには早すぎるぞ」
「どうして?」
「どうして、って……まだお前は体が小さいし、力も弱いし、足元も心許ないし」
「だいじょうぶ!」
「何を根拠にんな口を聞いてるんだお前は」
可愛らしいことだ。
どうせ、今日のアーサーの姿を見て影響されたのだろう。
「焦らなくても、お前はまだまだ大きくなる。そう先の話じゃないよ」
「あとどれくらいまったらいい?」
「そうだな……お前が、あと五つ分くらい年取ったらな。俺が剣術始めたのも、十歳からだったし」
たのしみだなぁ、と笑うナインの手を取り、歩き出して。
アーサーは、目を細めた。
チリ、と感じた熱は、二の腕半ばに嵌った血石だ。
腕を露出した服装のため、そちらに視線を落とせば、血石を嵌め込んだバンクルを見ることは出来る。
 男神の血の結晶とも呼ばれるこの石がアーサーに何らかの影響を与えるということは……今までの経験から推測するに、自分の身に、もしくは、近しい誰かに、何かが起こるということ。
眉を顰め、そっとバンクルを撫でる。
それで収まれば話は早いのだが、血石は、さらに熱を帯びて訴える。
何か、を。
「ナイン、少し、待ってろ」
ナインへと軽く声をかけ、中庭のベンチに腰掛けさせる。
「あーさー、どこいくの?」
「水、浴びてくる。すぐに帰ってくるから」
アーサーはゆっくりと立ち上がった。
「ぜったいだよー」
返事の代わりに、バンクルの嵌っていない、左腕を上げた。
血石の痛みは、収まりそうもない。

 水をかけたからといって冷えるような代物ではないのだが、気持ちの上では楽になる。ずいぶんと長い間太陽の下にいたからだろうか。太陽の国の修練場や武道場は、風の通る影の多い場所に作られる。そうでもしなければ、新人兵が暑さにやられてしまうのだ。この国よりずっと太陽に近いアーサーの母国は、太陽の光は恵みであり、脅威でもある。
歩きながら、ぼんやりと、懐かしいことを思い出した。
 修練場と違い、陽に晒されている闘技場。
まぶしい光の中師と一戦交えたのは、まだ記憶に新しい。
 そして、それより昔。
あの闘技場の観客席に植えられた大樹を、一本ずつ念入りに見て回ったことがあった。
あのときは何を隠されたのだっけ。
そう……父からもらった皮製の手甲だったか。
探して探して、それでも見つからなくて、片方だけ残った手甲を握り締めて走り回った。
あのとき……それを見つけてくれたのは、誰だった?
「そういえば……あの人はどうしてるんだろうな」
アーサーは、そのとき助けてくれた大人の名を知らない。手甲のときだけではなく、何度となく彼は現れて、アーサーを助けてくれた。優しく笑って、探していたものを見つけてきてくれたり、一人きりでいるとき、遊んでくれたり。
今思い起こせばとても優しい人だったのに、その当時のアーサーは、大人という存在を拒絶していた。大人は誰も信用できない。
第一王子として扱われるうちに染み付いた思考を、彼一人のために覆すのは、困難だったから。
 水場で、勢いよく流れ出した水流に腕を差し出した。
冷たい水の中で、やはり熱と痛みをもたらす血石は、何を伝えようとしているのだろう。
軽く吐息を吐き出して、アーサーは水を掬い、顔に浴びせる。
 ――ふわり、と、優しい気配を感じた。
アーサーは顔を上げる。拭うものを持たないアーサーは、水の滴るままに上体を起こす。
そして、惹きつけられた視線の先には、夢にまで見る、銀の長い髪。
「あ……」
言葉にならず、腕の痛みさえもはや感じる余裕もなく……アーサーは、ゆっくりと足を踏み出した。

 夢のように、軽やかな足取り。
ずいぶんと歩いた気もするが、彼女の姿の前にはそれさえ麻痺して分からなくなっていた。
彼女の進む速度が落ちないのだから、それほどの距離、それほどの時間を歩いてきたわけではないはず。
アーサーが追うその背中で、舞い上がった髪の一筋一筋が、さらさらと快い音色を奏でる。
風と共に流れ来る香は芳しく、甘く……しかし、それは彼女とは、違う。
 訝しく思い、アーサーは追いかける足をはたと止めた。
あれは、彼女だろうか?
美しい銀の髪は、アーサーの知る彼女のものと瓜二つだ。それは、間違いない。
だが、彼女の持つ気配と、今、この視線の先にある気配は同じだろうか。
あの香りは……彼女の纏う空気は。
この目が捕らえているものでは、ない。
あぁ、と声にならない喘ぎが漏れる。
では、あれは一体誰?
彼女ではない。けれど、知っている香りだ。
神々しく、清涼で、凛と響く銀の風。
とても昔? いや、違う。つい、最近のことだ……。
「……っく!」
ぐっと全身を圧迫するような痛みに、アーサーは思わず声を漏らし、その場に膝をついた。
どっと汗が噴き出してくる。喉が渇き、ばらばらになってしまいそうな錯覚さえ覚える痛みに震えた。
「な……なんだよ」
きり、と噛み締めた唇が、ふつりと裂けて鈍い鉄の味に染まる。
「う……あっ」
もう、意識を手放してしまいたい。
そう思った瞬間。
『アーサーっ!!』
傾いだ体が、柔らかな白い布に受け止められる。
いや……布、ではない。これは、そう、この声は。
『何をしている、死にたいのか?!』
「……シング……」
『どうしたんだお前、こんなところで何を……とりあえず深呼吸をしてみろ。お前は石との同調が高すぎる』
わけも分からず、言われるままに、深く呼吸を繰り返す。
二度、三度……耐え切れないほどの痛みを放っていた腕の血石は、少しずつ、やんわりと静まり始めていた。
「……い、ってー……あぁ、シング、悪いな……助かった」
どうにか声を絞り出して、アーサーはシングに寄りかかった身体を起こし、地面に座り込む。
『お前……ここがどこか、分かっているか?』
「は? ……え、あ、ここは」
少し顔を上げれば、その答えは容易に出た。
眩いばかりの光があたりを照らし、むしろ、その光の熱に当てられそうなほど。
「水晶の、森」
そっと窺ったシングの表情は、真剣そのものだ。
 太陽の男神が封じたとされる、魔性の眠る森。
その入り口……あと一歩でも踏み込めば森という、危険極まりない場所に、アーサーは座り込んでいた。
「え……と、いや、その。でも……あれは、言い伝え、だろ?」
『その言い伝えに限って言うなら、真実だ。眠っているのは、男神でさえ苦戦した魔性。触れれば、世界を壊しかねない。俺はそれを許せない。触れるな。何があっても、絶対に、だ』
シングがそう言うのだから、そうなのだろう。
世界が生まれたときから、ずっと見守ってきた彼が言うのだから。
「……けど、あいつは」
確かに、アーサーは見たのだ。
銀の背中。軽やかに揺れる一筋さえ。あれは、幻ではない。
確かに、この森に……入って、行った、だろうか。
「あれ……?」
記憶が、混乱している。いや、存在が、混乱しているのだ。
見当たらない。あの後ろ姿がこの森の奥に入っていった、その記憶は、どこにもないのだ。
そして、アーサーが追いかけた後ろ姿は……ディオネではなかった。
「……ディオネは今、どこに?」
『ディーは今、舞いの稽古で神殿に。……アーサー、お前……何を見た?』
やはりそうだ。アーサーの感覚は、狂っていなかった。
アーサーはあの後ろ姿が彼女ではないと、ここで立ち止まったときに確かに認識した。
あれはディオネではないのだから、彼女が、こんな場所をうろついているはずがないのだ。
『アーサー、もしかして、お前が見たものは』
「いや……いい。あんまり焦がれ過ぎて、幻でも見るようになったのかもしれない。ナイン置いてきたし、早く帰らねぇと」
そうに違いない、とアーサーは繰り返す。
『アーサー……?』
「戻る。悪かったな、こんなところまで様子を見に来させて。忘れろ、見なかったことにしてくれ。二度と、こんな不用意な真似はしないから」
無理やり、シングの反論を封じ込める。
「狂王子は、たった一人と決めた女を得るためならば、この王国、丸ごとでも騙して見せよう」
唇に残る鉄錆の香を舌で舐めとる。
指先でその余韻を拭い取り、つと視線をシングへ流した。
腑に落ちない表情。
それに微笑みをひとつ返して、アーサーは、踵を返す。
水晶の森になど、用はない。
あるのは、あの白亜の神殿。そこに住まう全ての人々だ。
「俺は、諦めない。ディオネ」
囁いた言葉は、声というよりも、風のように小さく流れた。




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