続・王子様たちと私 新たな災厄・改める決意
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 ディオネの幻、いや、ディオネによく似た不思議な背中を見てから、二日が過ぎた。
アーサーが水晶の森に近づいたことは、シングがもみ消してくれたが、すぐに帰ってくるからと言って置き去りにしたナインは、決して許してくれなかった。
「あーさー、うそつき」
だが、そう言って不貞寝したナインが、翌朝目覚めて、また大きくなっていたから大騒ぎだ。
それも、今度は急激な変化だった。
七歳から八歳と見ていいだろう。
言葉も、足取りも、体つきもずいぶんしっかりしてきた。
「アーサー、僕、剣術出来る?」
愚痴りながらトランクをひっくり返し、服を選ぶアーサーに向かって投げかけられた言葉は、あまりにも予想外のことで。
「お前、まさかそれでこんなに一気に……」
「僕、強くなりたいんだ。ディーも、アーサーも守れるように」
真っ直ぐに見つめてくる瞳は、真紅。
濡れるような血の色に、先日の記憶が甦り、わずかな幻痛に眉を顰める。
「基礎だけだぞ」
服を手渡してそう答えたアーサーに、ナインは、輝くような微笑みを返してくれた。
 その日から、アーサーはナインに剣を持たせた。だが、教えたのは剣の握り方と振り方。型の練習をさせるには、まだ早すぎるだろう。
どうせナインは、すぐに大きくなるのだ。そのとき……ファスあたりから、ちゃんとした教育を受けさせたほうがずっといい。
アーサーの剣術は……ナインのように、人を守るために振るわれるものではないのだから。
 午前は、ファスと共に書庫へこもり、午後からはこの国の兵に混じって手合わせを。
そうして繰り返されるだろう日々を、辟易することも忘れて、惰性だけで続けることになるのだ、と、諦めまじりに確信したその朝だった。
「申し訳ございませんが、王宮を出る用が出来ました。本日は、殿下でご自由にお使いください」
いつも通りナインと共に支度を済ませ、ちょうど出かけようとした一歩目で、ファスがそう言ったのだ。
ナインがぱぁっと瞳を輝かせて、部屋に取って返し、アーサーの買い与えたスケッチブックとクレヨンを置いて剣を掴んで走ってきた。準備よくタオルまで抱えている。
「ねぇアーサー、いいよね!」
「お前、そこまで準備しておいて、今『駄目だ』って言われても聞く耳もたねぇだろ」
「うん!」
「……なら聞くな」
アーサーは、結局ナインに負ける。
あれこれと減らず口を叩いても、息子のような、弟のようなナインを、可愛がっている。
それはもしかすると、会えない愛しい人へ向けられるはずだった思いの丈を、昇華させるためなのかもしれない。ナインはその身代わりなのかもしれない。
歪んだ動機にナインが気づいたら、何と言うだろうか。
「アーサー、大好きっ」
ナインは、アーサーに真っ直ぐの感情をくれる。
「男に好かれてもな」
苦い微笑みを浮かべた唇で小さく呟いて、アーサーは飛びついて来たナインの頭を撫でた。

 修練場に顔を出せば、どうせまた訓練に付き合わされ、さらには模擬試合まで申し込まれる。昨日と同じ一日、それ以上につまらない一日を過ごすなど、真っ平だ。
アーサーはナインを伴って中庭に出て、そこでナインの素振りに付き合うことにした。
「とりあえずは、素振りだ。それが出来なきゃ話にならないからな」
「えーっ」
唇を尖らせて抗議するナインの頭を、ぐしゃぐしゃと乱雑に撫でてやる。
「何事も基礎が大事、だ。頑張れ、昼飯までに、三十回を二セット」
「えぇーっ?!」
「強くなりたい、って言っただろ。俺だってその山を乗り越えて今に至るんだ。王太子どのは、もっと手厳しかった」
 彼はいつも、会えない期間の分だけ、適度な課題を置いて帰った。
その課題をもらったときは、とても不可能な量だと思うのだけれど、それは訓練を怠らなければ絶対に消化できるだけの量で、アーサーは彼に、いつも褒めてもらった。
よく頑張ったな、と。
「僕、アーサーみたいなカッコいい技の練習とかしたいのに」
「やめとけやめとけ。俺のは、自己流だから覚えても何の価値もない。ちゃんとした師について教わった方がいい」
 アーサーがオークに教わったのは、基礎と、その次の基本の型だけだ。
それ以降は、オークが王太子としての責務に忙しく、とても太陽の国まで来れなくなったのだ。だから、そこから先は、アーサーの我流。言ってしまえば、人を痛めつけるためだけの、技術だった。
眉間、喉、胸、鳩尾……最短で人を戦闘不能に陥らせるには、どうすればいいか。
どこを裂けば、死に至るか。
そんなことばかりを考えて、剣を振るった。
もちろん、まだ誰かの命を奪ったことはない。
けれど、何かあれば……例えば、彼女の命がかかっていたら。
彼女が嫌がったとしても。
殺すことで彼女が助かるのなら、殺すだろう。アーサーにはそれだけの力があった。
 ナインには、そうなって欲しくはない。
人を傷つけることなく、幸せな生を全うして欲しい。
「そういうのは……俺に任せておけばいいんだよ」
守りたいと思うものが、どんどん増えていく。
この二本の腕で、一体どれだけのものを守りきれるだろう。
「俺に、出来ること」
振り抜くナインの木剣の太刀筋をぼんやりと眺めながら、アーサーは一人呟いた。

 「あぁっ、疲れたー!」
アーサーの隣に、課題を終えたナインが座り込んだのは、もう昼食になろうかという頃だった。
「よくやったな、ナイン。頑張れば出来るって、言っただろう?」
「うん!」
嬉しそうに答えたナインは、準備してあったタオルで汗を拭い、部屋から持ち出した水差しの水をグラスに注ぐ。これだけ汗をかけば、喉も渇いたことだろう。湿った髪を、もう一枚のタオルで荒っぽく拭くと、水がこぼれる、とナインに叱られた。
「ねぇ、アーサー?」
「ん?」
「僕、本当に強くなれる?」
ナインが、震える指で水をたたえたグラスを支えている。それを見つめながら、アーサーは笑った。
「何だ、いきなり。まぁ、人並み以上にはなれるだろうよ。心配するな」
「そういうことじゃ、なくって……ディーや、アーサーを守れるくらい」
ナインの目は、真剣だ。
その瞳の奥に、努力では決して得られない感情を見つけ、アーサーは、安堵する。
「……そうだなぁ、俺はともかく、ディオネは守れるようになれ。男は強くないとな」
もし、自分に何かあったとき。
ナインにならば、出来るだろう。アーサーの代わりに、彼女を守れるだろう。
アーサーでは、傷つけることしか出来なかったとしても。
ナインになら……出来る。そんな確信があった。
だが、そのナインは、ふとグラスを傍らに下ろして。突然、きょろきょろと辺りを見回す。
「どうした?」
「……ディーのにおいがする」
唐突に告げられた言葉は、あまりにも常軌を逸するものだった。
「は? ……お前、あんまり人前でそういうこと言うなよ? 変な奴だと思われる」
「だって、ホントにディーの匂い、したんだもん。近くにいる。ディー、こっちに来てる! ほら! ディーだ!!」
ぱっと立ち上がったナインに、アーサーは溜め息をひとつ。こんな昼の最中に、彼女がこんな場所をのんびりと歩いているはずがない。
「いや、そんなこと言ってもだな、あいつは忙しいんだぞ? お前も幻見るほど、あいつに会いたかったのか?」
「違うもん幻じゃないもん!! 本物だよ! だって……誰か一緒にいる」
「誰か……?」
急に声量を落としたナインの表情が、不安に揺れている。
その視線を追って首を回し、そこに……見つけた。
「……ディオネ」
それは、彼女の幻でも、彼女に似た背中の主でもなく。
確かに、ディオネ本人だった。
柔らかな微笑みを浮かべる珊瑚の唇と、真珠色の肌。さらさらと流れる銀の髪に、瞬く紫水晶の瞳。紛うことなく、彼女だ。
だが、その視線がこちらに向けられることはない。
彼女の視線の先には……一人の、男がいた。
「何、あいつ」
ナインの呟きに、はっとする。
慌てて息を吸って、少しむせた。呼吸さえ忘れるほど見入っていたのかと思わず苦笑が漏れた。
改めて、彼女の方へと向き直る。
回廊をゆっくりと歩いていく彼女の隣には、ファスでも彼女の父でもなく、アーサーの知らない男が並んで歩いていた。
肩より少し上で揺れる金の髪は、アーサーと同じくらいの長さだろうか。瞳は鮮やかな空の色。しなやかに伸びた四肢と軽装に包まれた身体は、鮮やかに狩りをする豹のようにも見えた。少し軽薄そうだが、顔立ちも悪くない。
彼女の隣に立っても、さほど遜色ない見目だった。
「ディー……」
「何だろうな、あれ」
頬を膨らませているだろうナインに、苦笑混じりにそう呟いたときだった。
 視線が、絡んだ。彼女が、アーサーを見ていた。
ゆっくりと目を瞬き、はたと足を止めて。
その唇が、声にならない言葉をいくつか吐き出す。
隣の男は、数歩先に行ったところで彼女の異変に気づいたらしい。引き返して、ナインの視線を追ったアーサーのように彼女の視線を追って。
こちらに、気がついた。
「……ディオネ」
「――っアーサー!」
ぱっと手すりの合間を縫って、ディオネが中庭へと飛び出してくる。
だが、男が素早く手を伸ばし、彼女の腕を捕まえた。
「やっ、はな……」
振り払おうとした手と、言葉が止まる。
吐き出されかけた彼女の言葉は、掴まれた方とは逆の手の平で押し留められていた。
 彼女の声は、至上の歌姫の声。
不用意に吐き出しては、いけないもの。
久し振りに耳に届いたアーサーを呼ぶ声は甘く、優しく……万感を込めて吐き出されたのだろう。胸がぎりりと強く掴まれたように痛んだ。
これが、彼女の声。彼女がアーサーを求める声だ。
まだ捨てられることはなさそうだな、と、アーサーは声の余韻に酔いながら思う。
「誰だ! テメェ、姫の名を呼び捨てられるほどの男なのか?!」
激しい声に、アーサーは緩やかな余韻から引きずり出された。目を瞬く。
逆上されるほどのことは、していないつもりなのだが。
この月の王国にいる、黒髪に黒眼を持った男。今一番、王宮の話題に上っているはずだから、王宮に出入りするものは大抵知っているはずなのに。
小さく首を傾げ、それでも、名乗れと言われれば名乗る。口を開けた。
「人に名前を聞くときは、自分から名乗るのが筋なんだぞっ」
「……ナイン、あのなぁ」
アーサーの前に立ちはだかって、びしりと男に向かって指を突きつけたのは、ナインだった。
「だってアーサー、おかしいよっ!」
「いいから、ちょっと大人しくしてろ。ほら」
言って、ナインを脇に押しやる。不貞腐れた顔で見上げてくるナインの頭を撫でて、改めて顔を上げた。
「アーサー=プリズムだ」
「……アーサー? 太陽の国の、狂王子か」
「アーサーは狂ってなんかないっ! お前こそ名乗れっ」
「ナイン」
ゆっくりと身をかがめ、ナインの体に腕を回す。膝の裏を抱え、背をもう一方の手で支えて、反動をつけて抱き上げた。
七歳にもなった身体はやはり重いが、このまま言わせているのも、まずいだろう。
「少し、静かにしてろ?」
「……うん」
やはり唇を尖らせてはいたが、ナインは不承不承頷いて、アーサーの首に腕を回した。その背中を軽く叩いて、視線を再び男へ向ける。
「俺は、レンベルク=カーン。この王室お抱えの商人だ」
商人。商人がなぜ、彼女と一緒に回廊を歩いているのだろうか。
だが、商人であれば、アーサーを知らないのも納得できる。
今朝着いたばかりなら、まだ噂を聞いていなくてもおかしくない。
隣にいた彼女が口を開かない、声を聞かせない、ということは、さほど親しい間柄、というわけでもなさそうだ。
よく、分からなかった。
「俺は、あんたが王族だからって敬意なんて払わねぇ」
なんてったって、狂王子だもんな、と……彼、レンベルクが呟いたのを、アーサーは聞いた。彼が、聞こえるように言ったのだろう。
事実だから、アーサーも反論しない。
ただ、あぁ、また障害か、と、そう思っただけだ。
彼女の父といい、ファスといい。
この国は、それほどアーサーが嫌いなのだろうか。
「アーサー、あいつ失礼だよ。言わせておいていいの?」
アーサーのかわりに、ナインが唇をへの字に曲げている。
「あぁ、別に。言わせておけばいいよ。それにしても……お前、ずいぶん口悪くなったな。誰のせいだ?」
「いつも一緒にいる人のせい」
間髪置かずに返ってきた答えに、アーサーはしばし思案する。
「じゃあファスだな」
「何でアーサーじゃないのさっ」
「俺は上品だぞ?」
「嘘つきっ」
ぷぅっと頬を膨らませて、ナインはアーサーの首にしがみつく。
可愛らしい拗ね方だ。そっと背中を撫でると、腕の力が少し緩んだ。
息を吐き、意を決する。ゆっくりと、二人に向かって歩き出した。
「敬意なんて、払われ慣れてない。それくらいで、傷つきはしない。一応、太陽の国では王子だったわけだが」
軽く鼻で笑ってやると、レンベルクは、はっと息を呑み、顔を背けた。
「手、放してやれ。我慢してる」
「あ……っすみませんっ、姫!」
ぱっと離れた腕を、ディオネは素早く胸の前に引き寄せた。
今にも泣き出しそうな潤んだ瞳だが、健気にも微笑んで見せている。やはり、声はかけられないのだろう。
「じゃあ、俺はこれで。昼飯の時間だし」
感情を堪えた声で、そう言って。少しずつ、少しずつ彼女との距離を詰める。
震える唇が、何か言いたそうに開いて、けれど、ゆっくりと閉じる。
薄い笑みを貼りつかせたまま、彼女の横を、ゆっくりとすり抜けた。
「疲れた顔で、うろつくなよ。王宮中が、暗くなるぞ」
すれ違いざまに、そう囁く。
彼女がその言葉の意味を理解するかどうかは分からない。
けれど、そう言うことで、彼女が休息をとってくれるならそれでいい。
会う時間を作ってくれるより、一緒に夕食をとってくれるより。
そこで疲れた微笑みを見るのは、辛い。
ファスに言われたとおり、自身の存在が足枷となって、彼女の休息を奪うのであれば……この胸の痛みなど、どうというものではない。
彼女は、この国の宝。この国のものの、心の支えだ。
だから、笑っていなければならない。
いつも幸せに、安らいで。
この国へ帰ってきた頃の、安堵に似た穏やかな微笑みを、取り戻して欲しい。
 すれ違った彼女が、アーサーたちを追って振り向いた気配がした。
アーサーは、振り向かない。腕の中のナインが、強くしがみついてくるのを、抱き返すだけだ。
新たなる災厄が現れようとも、アーサーはただ、想い続ける。
それは、揺らぐことのない事実で、改めることのない信念のようなものだ。
ひとつ、ふたつと増え続ける障害の前に、抱いた決意を、改める。
「俺は、あいつと、幸せになるから」




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