続・王子様たちと私 聞こえない声・見えない不安
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 隙間なく並べられた活字から視線を上げると、正面にはアーサーと同じような分厚い書物を読み耽るファスがいた。
視線に気づいたか、彼は顔を上げ、思わず身構えたアーサーに微笑んだ。
「三二六年、歌姫を守って命を落とした第二王子の名は?」
「ロイス。歌姫の名はスゥ」
ふむ、と彼はひとつ頷いて、再び書物に目を落とす。
このようなやり取りが、質問を変えて何度となく続いているせいか、アーサーは気を緩めることも出来ない。
 世界全体の流れを記した歴史書は、一冊丸ごと暗記してしまったのだが、先程の問いのような、月の王国に深く関わった事柄や、その国でしか起きなかった些細な出来事はアーサーでもよく分からない。
本来であればこのような国の歴史書は帯出・閲覧が禁じられているはずだ。太陽の国でもそうだった。ましてや、水晶の森のような危険な地帯を管轄する月の王国だ。部外者がこの本を手に取るなど、ありえなかっただろう。
 許された理由はたった一つだ。ディオネがアーサーを気に入って、結婚相手にと望んでくれているから。
そうでなければ、見張り付きとは言え、王家の者でさえなかなか入室できないこの隠し小部屋いっぱいの書物に触れることなど出来るはずもない。
アーサーの知らない創世の歴史が、そして、この世界の中枢に最も近いと思われるこの国の歴史が、知識欲を大いに刺激し、非常に興味深いものであることは事実だが……。
アーサーは、小さくため息を吐き出した。
 出来れば彼女に一目でもいいから会いたい。
太陽の国にいた頃は、必ず、一日に一度は顔を合わせていた。
だから、彼女の銀の髪が視界の端にさえ映らないこの不安に支配されることを、アーサーは恐れている。
すぐに消えてしまう、脆く儚い存在は、過去にも一度、生きている限り手の届かない、いや、生を手放したとしても出会えるかどうか分からないところへ飛び立ってしまいそうだった。それを無理やり、大地に引き摺り下ろしたのはアーサーだ。
彼女が望んでこの腕の中に残った、ということはもちろん信じている。
だが、もし再びあんなことになったら。そのとき、間に合わなかったら。伸ばしたこの手が届かなかったら。
彼女は、行ってしまうのだろうか。アーサーを一人この世界に残して。
「どうかしましたか?」
声に、はっと我に返った。
「……いや、別に。どうもしない。月の王国は、余所者に寛容だってのは本当なんだな。そうでなければ、俺がいくら太陽の国の王子で、ディオネのお気に入りだったとしても、こんな最重要機密に触れられるわけがない。ナインもそうだ。どこの者とも知れない人間を神官として受け入れるんだから」
口を突いて出た言葉を反芻すれば、それが厭味以外の何物でもないことに気づく。自分の発言に思わず苦笑して、そんな言葉を投げつけられた相手へと視線をやった。
「確かに、そうですね。この国はどこにも属していない者を受け入れる体制が他国より整っています。その者が望むのであれば、大抵は」
いったん言葉を切って、彼はページをめくった。そして、続ける。
「その理由は、あなたがこの場所から得てください。幸いこの場所には、この国の王家の存在や、創世神とのつながり、水晶の森の秘密と守人など、世界の成り立ちにまで遡った文献が山とありますから。知りたければ、不思議に思うなら、そして、この国を、いえ、ディーを手に入れたいと思うなら。あなたはこの場所の全てを理解する必要があります」
それは、曲げることの出来ない現実。アーサーも、自覚している確かな事実。
だが、それを正面きって、薄い笑みさえ浮かべた表情で言われてしまった、となると話は別だ。覚悟していたことを改めて目の前に突きつけられて、アーサーはそっと溜め息をついた。
「……分かってるから、こうしてるんだろ。俺は劣等生か?」
「いいえ。この上ない優等生ですよ。暗記は才能です」
「一体何冊の本がこの頭に入るのか、限界に挑戦するつもりだ」
「いい心がけですね」
アーサーの喧嘩腰の口調に挑発されることもなく、彼は微笑んで再び手元に視線を落とした。その冷静さが、アーサーの神経を逆撫でする。
あのときの、彼女の笑顔。小さな彼女の体を抱きとめた彼の腕。
柔らかな音色がその名を呼ぶのを、まだ覚えている。
「どうしてあいつは、俺一人のものじゃないんだろうな……」
彼女の放つ、清らかな気配。それが遠く懐かしく、アーサーの胸をきりりと締めつけた。
「……あなたは、誤解しているようですね。たとえあなたがディーを手に入れたとしても、あの子は、あなただけのものにはなりませんよ」
ぱたん、と、厚い書物を閉じる音。
逸らした視線を再び彼に向ければ、彼はほんの少し困ったような表情で、アーサーを見ていた。困惑、とも、嘲笑、とも。憐れみとも取れる曖昧な瞳。
それは、優位の者が苦境に立つ者を見下ろす目。
思わず食って掛かりそうになった自分をすんでのところで諌めて、アーサーは深い呼吸をひとつ。真っ直ぐに彼を見据えて、応じる。
「誤解? ……あんたこそ、俺のことを誤解してるんじゃないか? あいつが俺だけのものにならないのは、百も承知の上だ。今更の話だろう。俺だけのものになれるような女なんてそこらじゅうにいくらでも転がってるし、別に欲しくもない。あいつは誰のものにもなれない、それでも心の奥では誰かを追い求め続ける、本当は寂しがりやの可愛い女」
彼女は知っている。たとえ生涯共にあると誓ったとしても、その身がアーサーのものにはならないと。
確かに、触れ合うことがそれに当てはまるのならば、彼女はアーサーのものになるだろう。だが、彼女はそうは思わない。身も、心も。何もかもを捧げてこそだと思っているから、永遠にアーサーのものにはならない、なれないのだと理解している。
彼女は月の女神に愛され、この月の王国の王女として生を受けた。そして、世界を守護する“光の歌”に選ばれた奇跡の存在だ。
その自覚があるからこそ、彼女は、アーサー一人のものにはならない。
彼女は、世界のために存在する己のことを、心から誇りに思っているのだから。
「あいつが俺一人のものだったら、こんな風に離れ離れで過ごすことにはならなかっただろう。けど、それでも俺は、自分の存在に、その在り方に誇りを持って生きるあいつが好きだ。俺一人のものになったら、俺にとってのあいつの価値は『貴重な女』だって、ただそれだけになる。あいつはいつまでも俺にとって、誰よりも特別な存在でなければならないんだよ」
それは、自身にもわずかな苦痛を伴う現実。
だが、それが彼女の真実の姿なのだから、それさえも受け入れてアーサーは共にありたいと願う。
彼女が、彼女のままでいられるように。そして、そのままアーサーの隣にいてくれるように。
それ以上を望むのは、驕りであるとアーサーは思う。
「……そこまで、あなたは」
「不思議だったろう? 狂王子ともあろうものが、いくら美しいからといってディオネのためにこの国までやってきたことが。俺も、あいつに出会うまでは信じられなかった。自分の性格は自覚していたからな」
それでも、彼女がよかった。
他の誰かではなく、月の王国からやってきた彼女がよかったのだ。
どれほど障害が多く、また大きくとも。
「俺は、あいつじゃなきゃ駄目なんだ」
己の変化に戸惑う間もなく、澱んだ闇に舞い降りた光の欠片。
アーサーにとって、ディオネはそんな存在だった。

 「まぁ、俺の考えてることはその辺にして、だ」
軽く咳払いをしてから、アーサーは顔を上げる。
まだ驚きが抜け切らない顔のファスに、ほんの少し笑う。
「そんなに、意外だったか?」
「……正直に言って、耳を疑いました」
そうだよな、とアーサーは呟き、分厚い目の前の歴史書を抱え上げた。
「それじゃ、この一冊覚えたんだし、何かご褒美でも出してもらおうか」
「……覚えた?」
「あぁ、覚えた。一度読めば覚えられるだろ?」
訝しげに問われ、当然だと頷く。
何度も繰り返すなんて、効率が悪いではないか。一度で覚えてしまえば、もう手にとる必要はなくなる。
「あなたは、本当に……」
本棚に手をつき、手の中の本を元の位置に戻してやりながら、背中に投げかけられた声を聞く。
「そうか、言ってなかったか。俺は、書物は読んだそれをそのまま覚えるんだ。お望みならページ数やら行数まで言ってやれるが。歴史大全、あれは読み切るのに時間がかかったな」
目を丸くしているファスに、こんなところで彼を出し抜いても嬉しくない、と腹の底で思い、アーサーは肩を落とした。
「だから、ご褒美が欲しいんだ」
「……何ですか?」
仕方ない、とでも言うように手元の本を閉じたファスに、アーサーは笑う。
「あんたについて知りたい」
「は? ……僕のこと、ですか?」
目を瞬く彼の正面へ戻り、再び席につく。
「そう。ファス=ティバルスという人間について」
ディオネを、抱き締められる存在について。
本当に言いたい言葉は伏せて、ひとつ頷いてみせると、彼はしばし目を泳がせて、首を傾げた。
「そう、ですね。僕は、ディーの母方の親族なのです。それほど濃い血のつながりはないのですが、どうやら、『声を持つ者』への耐性が生まれつき強かったようで、小さい頃から遊び相手を務めていたんです。あの子が物心ついてからは、家庭教師の真似事もしましたね。月神殿の神官も兼ねていますから、傍にいた時間は、確かに多いかもしれません」
淡々と、ただ事実を並べているだけ、といった口ぶりに、アーサーは苛立ちを覚えた。
彼にとっては当たり前のことでも、アーサーにとってはどれほど望んでも手の届かない遠い過去の時間だ。
見当違いの嫉妬であることは分かっていても、抱かずにはいられない。彼女を想えば想うほど、過去に彼女という存在がいなかった事実が胸に響く。
「じゃあ、その頃のディオネは、どんなだった?」
「……ディーの、小さい頃、ですか」
「あぁ。俺の知っているディオネなんて、ただの歌姫を装っていた一ヶ月間に過ぎない。あいつと俺の間には、十数年の空白があるんだから」
それは、短く、同時に長い一ヶ月だった。
アーサーをここまで変えた、彼女と過ごした一ヶ月。
「あんたなら、知ってるんだろう。俺が巡り会う前のディオネを」
それを認めるのは、とても苦しいこと。
だが、それで新しい彼女を知ることが出来るなら。その気配を、過去の温もりを感じ取ることが出来るなら。
胸に広がる苦い想いなど、どうというものではない。
真っ直ぐに見つめてくるファスの視線を受け止めて、促す。
「俺は、聞きたいんだ」
「……強情ですね」
彼はほんの少し視線を逸らして、笑みの形に細めた。
 「ディーは、昔からあんな風ですよ。そうですね……十になるまでは、もっとお転婆な、どちらかというと活動的な子だったんですが。それくらいを境に、急に大人しく室内遊びをするようになって。間もなく、歌姫に選ばれ……それまでは子供らしい面も見せてくれたのですが、それからは、大人びた、聞き分けのいい顔しか見せなくて……急に無口になったのもその頃からでしたか」
「あぁ……それは、確か」
“光の歌”が、話していた。
彼女が大人しくなった理由。言葉にするのを恐れ始めたこと。それでも、彼女は誇り高くあった、と。
本当は、もっと些細な出来事……例えば、鞠つきが好きだった、とか。裁縫は苦手だった、とか。そんなことを聞かせて欲しかったのだが、どうやらそれは期待出来そうもない。
アーサーは、ひとつ息を吐き出して、じゃあ、と彼の言葉を遮った。
「あいつは、今何をしてるんだ?」
問いかけの言葉を口にした途端、彼の表情が冷たく凍った。
「……知りたいですか?」
「あ、あぁ。そりゃあ……」
頷いたアーサーに、彼は頬を緩めた。冷たく、皮肉めいた形に。
「僕も知りません」
「……え?」
「あの子が今どこにいるのか、なんて。あの子のそばに付き従う女官しか知りません。わずかな余裕も休息もない、空白なしのあの子の一日を追いかけることなど、僕でさえ出来ません」
言われ、思わず息を止める。
わずかな休息さえ存在しないような一日を、彼女が?
「そんな、どうして……!」
「どうして? ディーに無理をさせる、あなたがそれを訊ねますか」
彼は、微笑む。硬い笑みは、アーサーへの非難が感じられた。
「ディーが望んだこととは言え、一ヶ月も国を空け、溜め込んだ所用をさらに後回しにしてまであなたのために時間を割いた今のディーには、これ以上の余裕などないのですよ。これ以上溜め込んでしまえば、わずかな時間さえも許されなくなる。見兼ねた女官があなたを嫌うのも納得します。ディーに無理をさせるのだから」
表情が、凍る。
言われてみれば、確かにそうだ。
彼女はアーサーのように、ただ王女であればいいわけではない。
月神殿の姫巫女であり、歌姫でもある。
歌姫としての行動は制限されているのだろうが、それでも、月の王国のたった一人の王女で、月神殿の中心に位置する姫巫女だ。
アーサーの想像など、軽く凌駕するに違いない。
「……あの、参考までに聞いてもいいか? ディオネの、普段の予定」
「普段、ですか? そうですね。王国を空ける前のあの子の一日は、夜明けとともに神殿で月の女神への祈りを捧げ、それから舞いの練習、地方からやってきた大公への挨拶、女神の涙の管理、鎮めの儀式、王女としての政務も少々。夕暮れとともに女神への祈りを捧げ、夜は遅くまで歌っていました。その頃から十分忙しかったようですが」
ずらずらと並べられたものの、いくつを理解できただろう。
この国の王家の政務は、神殿の管理も含まれるのだとさっき読んだ本にも書いてあった。
彼女の両親、国王と王妃に会ったときも、そうだった。彼らは神殿と深いつながりを持つ。姫巫女である彼女なら、もっと深く、強い関係があるのだろう。
 きり、と唇を噛んだ。
彼女の存在は遠く、安易に触れられないものだったのだ。
出会ったこと自体が、奇跡。
「分かった」
小さく呟いて、アーサーは腰を上げた。
 彼女の姿が見たい。後姿、銀の一筋でもいい。
今はそれさえも、アーサーには手が届かないものなのだ。
だからアーサーは、ただ、彼女の心を信じて、待つことしか出来ない。
もちろん、彼女を探して城中を走り回ることも出来る。
だが、それをしたところで彼女にのしかかる責務は軽くならない。ただ、アーサーが安堵するだけだ。
ディオネはまだ手の届くところにいる。彼女はアーサーを置いては行かない。
そこでアーサーの抱く安堵は、彼女を信頼していない証拠だ。
アーサーはディオネを信じている。
彼女は、アーサーを裏切らない。
それならば、会えなくとも、その姿が見えなくとも。
アーサーが不安になる理由はひとつもない。
「次はどれだ? 俺は俺でやるべきことをやろう。俺はこの部屋の全てを俺のものにしなければならないんだろう?」
冗談めかして呟いた言葉は、自分に言い聞かせてもいる。自覚している。
「あんたがそう言うなら、俺は約束しよう」
それでも、アーサーは。
「俺は、自分からあいつに会わないことで証明しよう。ディオネへの信頼と、想いを。俺が誰よりも、何よりもディオネを想っていると。この身で、はっきりと」
嫌だと悲鳴を上げる弱い部分を閉じ込めて、嫣然と、こぼれる笑み。
「さぁ、はじめよう。俺を試せばいい」
目を開けた瞬間に、切り替わる、世界の色。
それは、彼女のいる暖かな世界とは違う、薄暗い過去の香りがした。




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