続・王子様たちと私 離れ離れの夜・一人きり
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 もうひとつの大陸が、ゆっくりと近づいてきている。
いや、本当は、自分たちの乗っているこの船が、上空に浮かぶ浮遊大陸の太陽の国から下降しているだけ。
だが、太陽の国に住み、いつも下の大陸を見下ろす形で生活しているアーサーにとって、この光景に抱くイメージは、大陸が近づいてくる、という誤ったものだ。
上を見上げれば、もう小指の先ほどの黒い大陸と、一面に広がった空、柔らかく大地を照らす太陽。直視した光に、アーサーは目を凝らし、太陽の国が空に解けていくのをただじっと見つめていた。
 太陽は……男神は、ただ温かく誰もを見守るだけで、たった一人の人間に心のすべてを注ぐことはない。男神にとってのたった一人は、創世から共にある月の女神その人以外ありえないから。
反面、女神は……気まぐれで、退屈を好まない。夜という、眠りの時間を統べるせいだろうか、常にささやかな変化を望む。その変化を追い求める過程の中で、彼女は、人間に興味を抱く。
「今まであそこにいたなんて、信じられないくらい遠くなっちゃったわね」
そう……例えば今、アーサーの傍らに佇む、ディオネとか。
例えば今……。
「あーっ!! でぃー!!」
「ぎゃーこら走るな危ねぇっ!!」
危なっかしい足取りで甲板を走ってきた、ナインとか。
「あら、ナイン。どうしたの? お船の上は退屈?」
「んー、ちょっと」
きらきら輝く真っ赤な瞳は、真っ直ぐディオネに向けられている。しゃがみこんで目線を合わせ、抱き上げようとする彼女の手を遮り、アーサーはナインをぐいと持ち上げた。
「あー、やっ。でぃー」
「一人前に我が侭言うんじゃねぇよ。いきなり大きくなりやがって。もうディオネに抱いてもらえるほど軽くねぇんだからな、お前は。っつーか、いい加減言えるようになれよ。アーサーって」
「いやーっ!! あー!!」
抱き上げた体は、昨日よりも格段に重い。
「だーから、それじゃ悲鳴なのか俺を呼んでんのか分かんねぇっつーのに」
それもそのはず、二日前には確かに一歳前後だと推測された身体が、言葉など発せられるはずもなかった唇が、今朝、一回りほど大きくなって、片言とは言え、こうして喋るようになったのだから。
「やーっ!! でぃー」
荷物のようにナインの身体を小脇に抱え、アーサーはじたばたと振り回される手足をかいくぐって、額を指先で弾いた。
「むぅ……っ」
「膨れっ面しても駄目だ、暴れても駄目。大体、お前は俺とディオネの取り合いするためにでかくなるんだろうが。可愛がって欲しいんなら、小さいままでいればよかったんだ。それを……もうちょっと普通の子供らしい成長はできねぇのか、ナイン」
いっぱいに頬を膨らませて拗ねて見せるナインに、アーサーは苦笑する。
おそらく二歳前後、一人で歩き、走るようになる一番危なっかしい時期。
だが、見ていてはらはらする、それでいてどこか可愛らしい仕草は、無性に構いたくなる。
アーサーにとって、その成長は我が子の姿を見るようで楽しい。
ただ……困るのは、成長の度合いがつかめないため、服の用意が出来ないこと。
今朝も、城中が大騒ぎでナインの身体に合う服を探し回った。
早朝だったせいで、仕立て屋を無理に起こすわけにも行かず、今ナインに着せている服はアーサーかシーザーが二歳の頃着ていた服のはずだ。
にこにこ笑って構って欲しいと寄ってくるだけなら可愛いのだが、これからもこんな目に遭わされるのであれば、早く大きくなって欲しいような気もする。
「アーサーは怒りんぼさんね。ナインは、こんな風になっちゃ駄目よ?」
「そりゃ、どういう意味だ、ディオネ」
「でぃーすきー」
さらさらと、新雪色の髪を撫でるディオネに、膨れっ面だったナインはもう笑顔を振り撒いている。突然笑い出したり、泣いたり。突然の変化は、面白くて、時折不満に思える。
「この現金な子供を、どうしてやろうか。ほらナイン、ディオネの生まれた国だぞー」
「きゃーっ!!」
船の縁から、支えて下の景色を覗かせる。
「もうすぐね。一ヶ月も留守にしちゃって、みんな元気かしら」
同じように縁にもたれて下の景色を覗き見たディオネが、何かを思い出したように笑う。
「ほら、水晶の森の光がここまで届いてる。国に着いたら案内するわ、すごく綺麗なんだから」
約束よ、と囁く彼女の言葉に頷き、アーサーも次第に明確になる町並みをぼんやりと眺めた。
 月の王国は、すぐそこだ。


 月の王国を訪れるのは、これで三度目になる。
一度は、両親と一緒に。
もう一度は、両親に内緒で、こっそりお忍びの観光だった。
そして、今。
共にこの場所へと降り立ったのは、誰よりも愛しい少女と、女神に救われた小さな子供。
次に船着場を訪れるときは、出来れば彼女と二人で……祖国に嬉しい報告をするためであれば。
胸の中で一人想い、アーサーは薄く笑った。
心は晴れやかだ。
船の乗組員の手が足りないと嘆く声に、手伝ってやろうかと思う程度には。
 騒がしい船着場に、王女と小さな子供が一人。
明らかに場違いな光景は、妙に笑いを誘う。荷降ろしを少し手伝ったアーサーは、そちらへ目をやって、思わず吹き出した。
甲板から降り立つ姿は慣れているように見えたのだが、二人とも船着場のにぎやかな空気と、その中に混じった張り詰めた雰囲気が珍しいのだろう、同じような目をして、あちこちを眺めている。
これでは、どちらが子供か分からない。
何も知らない人ならば、彼女がこの国の王女で、歌えば世界中に幸せをもたらすほどの美声の持ち主で、さらには月の女神さえも虜にした月の王国きっての姫巫女だとは思わないだろう。
そんな純粋すぎるディオネが、自身の恋人なのだというのも……また、意外なことかもしれないと、アーサーはぼんやりと思いを巡らせた。
「あーっ!」
「な、なっ……?!」
突然の声に、アーサーは思わず身構えた。
同時に、足元へ響く衝撃。見下ろせば、そこには何が楽しいのか満面の笑みを浮かべたナインが、懸命にアーサーの足へとしがみついている。
「……お前なぁ、重いんだからちょっと手加減してぶつかって来いよ、いくら俺でも倒れる」
周囲を興味深げに見回していたナインが、こちらに向かって飛びついてきたようだ。溜め息を吐き出して、分別のつかない子供へ愚痴ってから、アーサーははっと顔を上げる。別の方向から小さく笑い声が聞こえたのだ。
かすかに耳へ届いたその声のほうへと視線を移す。そこには……ディオネが懸命に笑いをこらえて、その場で膝を抱える姿があった。
「……何してんの、お前」
「だ、だって……アーサーがびっくりするなんて、滅多にないことだから、表情が新鮮で」
「瞳に涙溜めるほど面白かったんなら、別にいいけどな」
ほんの少し責めるような声音で呟けば、彼女はびっくりしたように目を見開いて、ぱちぱちと瞬いた。その拍子に、目尻にたまった涙が、一粒二粒と零れ落ちる。
「えっと……怒った?」
「そんなことない。ただ、ちょっと不満なだけ」
纏わりつくナインを、勢いをつけて抱き上げる。
きらきらと笑い声を撒き散らすナインを少し小突いて黙らせると、アーサーは唇を尖らせてディオネに言って見せた。
「何が……?」
「俺がこれだけナインばっかり構っても、お前は何にも言わないことが。俺は……お前がナインに付きっ切りだったら、寂しいから」
「アーサー……」
どんな感情を湛えた瞳も、独占したいと思うのに。
彼女はきっと、気にもしていない。
「大丈夫よ」
「……何がだよ」
「だって私、アーサーしか見えてないし」
にっこりと微笑んで、告げられた言葉。
かっと頭に血が上ったのが分かった。
どうして彼女は、こう……嬉しいことを言ってくれるのだろうか。
「あー、あかいよー」
ぺた、と触れるナインの手を、熱く感じない。普段ならば嫌になるほどの熱を与えられるというのに、それがなかった。
「う、うるさい、悪いかっ?!」
柄にもなく照れてしまったことに羞恥を覚え、アーサーは顔を隠すように、ナインを抱えた側とは反対の腕を上げた。ナインに指摘されたとおり、頬に触れた腕はその部分の熱さを伝える。
「カッコわり……」
「どうして? 私、嬉しいわ。アーサーがそうやって、私に感情を見せてくれるの。最初の頃みたいに冷たい態度を取られるより、ずっといいもの。ちゃんと教えて? アーサーの思ってること。そうじゃないと、寂しい」
ゆっくりと、ドレスの裾が揺れて広がった。
しなやかな身体がゆっくりと伸ばされて、アーサーを見つめる瞳が今までよりずっと近い位置に移動する。煌く藤色の瞳。
胸を締め付けるような、柔らかな呪縛。
「ね?」
「……あぁ」
否定することを許さないのは、声ではなく、瞳の奥に見え隠れする複雑な感情だ。
何とも取れないその感情が、ディオネには酷く不釣合いに思えて。
「いけない。私、国に着いたらアーサーに言おうと思ってたことがあるのよ」
「ん? 何だよ」
瞬きひとつで、そこにあった感情は消え去った。普段の、心地いい色彩を宿した瞳が、楽しげに揺れてアーサーを惹きつける。そして、彼女は。
「いらっしゃいませ、アーサー王子。私の祖国、月の王国へようこそ。王女として、姫巫女として、あなたを歓迎いたします」
 開けた口が、塞がらない。
たった一瞬目を奪われたのは、揺れるフリルやレースに彩られた裾。
ナインを石畳に下ろしながら、踊るその布の軽やかな動きに誘われ、アーサーは彼女から目を逸らした。だが、それを彼女自身に戻すまでの時間は、ごくごく短い、数瞬のこと。
それなのに。
あろうことかディオネは、ドレスの裾を上品に持ち上げて、アーサーに向かって腰を折っていたのだ。
思考が、停止する。
「な、何やってんだ、お前にそんなことされる理由なんてないぞ?! ほら立て、頼むから立てって」
まさかそんな態度で接されるとは思いもしなかったアーサーは、思わず彼女に駆け寄り、両手を差し出してその身体を引き上げた。
バランスを崩したのか、それとも甘えたいだけなのか、彼女の身体は、優しくアーサーの胸に委ねられる。抱きとめたディオネは、柔らかく甘い香りがして、眩暈でも起こしそうだ。
「……変なアーサー。いつもなら、もっと余裕癪癪なのに」
顔を上げたディオネの瞳には、こちらを疑うような、探るような色が。
背中に回された腕は、ほんの少しの力を持って絡みつき、触れ合う肌の温度が、さらに深く伝わってくる。
「余裕って……あぁもう、いいよ。お前には多分、分からない」
彼女に、分かるはずもないだろう。
月の王国において、誰よりも愛され、誰よりも尊重されているだろう国の宝である彼女が、いくら婿候補とは言え、太陽の国の王家に生まれただけのアーサーに頭を垂れたのだ。
それが、どれほどの意味を持つか。
あの一瞬からアーサーに向けて、おびただしい数の突き刺さるような視線が全方向から、現在進行形で浴びせられていることを、彼女が気づくわけがない。
もちろん、ディオネが頭を下げたことも理由のひとつなのだろうが、今こうして、互いの息がかかるほど近くに見つめ合っていることも、大きな要因となっているはずだ。
……ゼロどころか、マイナスからのスタートと言っても過言ではないこの重苦しい空気。
四面楚歌状態の現状にこの先が思いやられて、薄く開いた唇から、自然と溜め息がこぼれた。

 船着場から、王宮であり、月神殿も兼ねる月霞宮は目と鼻の先だと言う。
先に行ってしまったらしい彼女の父、月の王国の主は、いつもここから王宮まで歩いて帰るのだそうだ。
「だから、歩くのが当たり前な気がして……大丈夫? 馬車、呼ぶ?」
「大丈夫だ。身体がなまってるから、少しでも動かしたい。ナインも、疲れたら俺が抱いて運ぶ」
目と鼻の先というくらいだ、たいした距離ではないだろう。
「よろしくね。ほら、あそこに見えてるから……距離はそんなにないと思うの」
ディオネの指が指し示すほうへ目をやれば、確かに、白亜の神殿が見える。
「あれなら、余裕だ」
笑って、彼女を促す。いくら見えているからと言って、先に立って歩けるほど、この辺の地理に詳しいわけではない。ナインの手を引きながら歩く、ご機嫌のディオネに、アーサーは思わず笑みを噛み殺した。
「お前が望むなら……俺はきっと、何でも出来るんだろうな」
「え?」
振り返った可憐な瞳に射抜かれて、アーサーは思わず息を呑む。
「あ、いや。別に何でも。……っと、ところで訊いておきたいんだが」
「なぁに?」
「月霞宮で、声に耐性のある奴らはどれくらいいる? 俺は、やっぱり無闇やたらと話さない方がいいのか?」
問いかけたアーサーの言葉に、ディオネは立ち止まり、ほんの少し首を傾げて思案。
「私付きの女官は、アーサーなら平気だと思うわ。入れ替わりがあったかもしれないから、はっきりとは言えないけれど。他の人たちは、分からないの。私、出来るだけ個人に声をかけるのは控えてたから」
「……じゃあ、俺も無闇に声かけねぇ方がよさそうだな」
「そうしてもらえると、助かるわ」
ふんわりと笑うディオネに、アーサーは微笑み返す。
先に進むよう背中を軽く押して促し……視線の先、石畳の上に落ちた複数の人影に、ゆっくりと顔を上げた。
おのおのが取り掛かっていた仕事を放り出して、真っ直ぐここへやってきたような、女官の集団。
一体何事かと、アーサーは目を見張る。
びっくりしたのか、ナインが彼女の手を離し、駆け寄って来てアーサーの足に縋りつく。
「姫様……」
この声に込められた忠誠心や、誰もが瞳にうっすらと涙を浮かべているところから見て、彼女たちはディオネ付きの女官に違いないだろう。
「みんな……もしかして、わざわざ迎えに来てくれたの?」
唇からこぼれるのは、優しい春の風。
初夏の陽射しが舞い降りる中、薫風を感じさせる丸い音色。
それだけで、彼女の周囲は光に満ちる。
「もちろんでございます! 我らが姫様のお帰りとあらば、私たちは、いつどこにでも参ります。お帰りなさいませ……ディオネ様」
次々と頭を垂れ、臣下の礼をとる女官の姿に、ディオネが微笑んだ。
「ただいま、戻りました。留守中、変わったことはありませんでしたか? みな、健やかにありましたか?」
彼女たちにかけられた言葉は、口々に告げられる女官たちの声にかき消される。
誰もが明るく微笑むその場において、たった一つ疑問があるとすれば。
「……俺は何か悪いことでもしただろうか」
聞こえないようぽつりと呟いて、アーサーは足元で戸惑っているナインを、そっと抱き上げた。
「あー、なに? あれなに?」
「いや……俺にも分からん」
好奇心を剥き出しにした普段のナインが、最近口癖のように発する問いかけと同じ言葉だが、その声のテンポは、暗い。
自身の答える声も、どこか低く聞こえる。
 アーサーの視線の、真正面。
彼女の女官に睨まれる理由など欠片もないはずなのに、その視線は酷く尖って、痛い。
他の女官の装いと比べて、彼女の纏う衣装は隙ひとつない、上に立つものの匂いを感じさせる。やや釣り上がった眦や引き結ばれた口元は、気の強さや頑固さを連想させ、アーサーを不安にさせた。
どうしてだか分からないが、しばし真正面から睨みつけられ、身動きが取れない。
視線を逸らすのは、負けたようで嫌だ。
動くに動けない膠着状態を破ったのは、あちらが先だった。
「姫様……お帰りをお待ちしておりました。よくぞご無事で」
するすると音もなく女官たちの前に進み出た彼女に、アーサーははっとする。
彼女は……もしかして。
「サーシャ! やだ、女官長がこんなところまで来ちゃっていいの?! でも、でも嬉しいわ、ありがとう!」
ディオネの、嬉しそうな明るい声。
そして、耳に飛び込んできた女官長という言葉。
彼女は、この国の王宮全体の女官たちの頂点に立つ人。
その人から、睨まれていた。それは、すなわち。
「……姫様がお戻りになられたのは、まことに嬉しい知らせでございましたが。僭越ながら言わせていただきます」
言葉の端々に見え隠れするのは激しい怒り。視線は、細められてアーサーに流れてきた。
ぞくりと、肌が粟立つ。血が引いていく音が、聞こえる気がした。
「どうしてだろう……とても嫌な予感がする」
「あー、おかお、あおいよ?」
そりゃあそうだ。この嫌な予感は、とても正確だ。
「どうしてこのような殿方をお選びになったのですか! 我が国まで聞こえてくる風の便りを姫様にお届けしなかったことを、サーシャは今後悔しております!! 私だけではございませんっ、私たち女官は、姫様のためにも、結婚相手にこの……狂王子と名高いアーサー殿下を迎えるなど、認めるわけには参りません!!」
ほら、やっぱり。
アーサーは呟いて、腕の中のナインと顔を見合わせた。
「あー、きらわれた?」
「……あぁ、ものすごい勢いでな」
笑うに笑えなくなって、唇の端を強引に吊り上げる。
「へんなかお」
「うるせぇ」
彼女は、そんな言葉に揺らがないと知っている。
知っているのだが……不安になる。
この王宮に、いや、この国に……自分とディオネを後押しするものは、一握りもいないのだろうかと。

 「……ごめんなさい、アーサー」
ずいぶんとしょぼくれてしまった彼女の背中に、腕を回す。
「まぁ、確かに想像以上のすごさだったけど。予想してなかったわけじゃない。大丈夫だ」
元々、非難される原因を作っていたのは過去の自分だ。それだけは覆しようのない事実で、消し去ることも忘れることも出来ない。
女官たちに見張られながら王宮に通され、そのまま客間に案内されたアーサーは、女官たちを制し自ら案内役を買って出たディオネに、薄い笑みを返した。
「むしろ、彼女たちの言うことが正しいのかもしれない。だけど……」
アーサーの、たった一つ、譲れないと心から望んだもの。
「お前を手に入れるためなら、俺は何にでも耐えるし、努力できる。障害は、大きい方が燃えるって言うし」
「そんな……」
腕に抱き締めた身体は小さく柔らかく、透き通った光を放っているように見えた。
「本当に、私、アーサーを連れて来てよかったの?」
「どういう意味だよ、それ。帰れってことか?」
「やだ、違うわ!! だって、アーサーが辛い想いをしなくちゃならないのなら、私……」
声を荒げて頭を振った彼女の顎に、そっと指を添える。
ついと視線を上げさせれば、しっとりと潤んだ藤色の瞳が真っ直ぐにアーサーを見つめてくる。
「俺は、お前のそばにいられるならそれでいいんだよ。つらくても苦しくても、ただ、お前がそこにいて、俺のことを見ていてくれればそれでいい。だから、変な気を回すんじゃない。ただでさえ、これから忙しくなるんだろ、お前」
さらさらと滑る前髪をかき上げて、現れた額に唇を落とす。
「お前は、幸せに笑っててくれ。お前が幸せなら、俺も幸せになれるはずだから」
彼女が望んだ、自分の存在。アーサーがここにいていいという証は、ディオネが握っている。
「……うん。分かったわ。だけど、何かあったらちゃんと言って頂戴ね? 口出しするなって言うなら、しないから。ただ、知っていたいの。アーサーが何を思って、どうしたいのか。信じてるから、ちゃんと聞かせて」
「分かってる」
瞬いた拍子に零れ落ちた涙が、顎を捉える指を伝って落ちる。
ゆっくりと伏せられる瞳に吸い込まれるように、アーサーは彼女の唇に自身のそれを重ね合わせた。
甘く、芳しく。言葉にならない感情は、胸にこびりついた不安を洗い流す。
「……それじゃあ、また明日。朝ごはん、呼びに来るわ」
「ん。いい夢を、ディオネ」
抱き締めた身体を解放する。
ゆるんだ腕からするりと逃げていく身体を、もう一度拘束してしまいそうになる自分を律する。
「いい夢を……アーサー」
微笑む彼女の姿は、静かに扉の向こうへと消えていった。




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