王子様たちと私 想い届ける言葉・恋の基準
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 明日になれば、こんなにも楽しい別世界での生活は終わりを迎える。
そして、ただの歌姫としてたくさんの人に出会ったその名も、あと僅かで捨てなければならない。
それは、様々な人知を超えた存在に愛され、ただ人であることを許されない彼女には、ごく当たり前のこと。理解し、納得した上で来たはずなのに、今になって何を迷うのか。
誰の何の言葉に、迷うのだろうか。

 「ねぇ……シング。聞いてる? ……私、どうすればいいかしら?」
ふらふらと、中庭を歩く。
国王陛下が直々に手入れしている薔薇園ではないが、色とりどりの花が十分に美しく咲き乱れた花園の中をゆっくり歩きながら、ディオネは誰にともなく呟いた。
数瞬の空白があって、それから、柔らかく声が耳に届けられる。
『ディーは、どうしたいんだ。俺にはディーの行動を決めるようなことは言えないからな』
「そうだけど……そうね。黙っているのが、つらいわ。でも、言うのもつらい。アーサーのことを考えてるだけで、怖いくらい心臓がうるさくなって……どうすればいいのか分からないくらい。もしこのまま言えずに帰ってしまって、後悔して……それでも再会できたら、会えるだけで嬉しいと思うわ。でも、そんなことしてアーサーが許してくれるはずもないし……怖い。このまま言わずに帰るなんて、出来ない」
『それじゃあ、言えばいい』
「でも! ……言って、軽蔑されたくない。アーサーに嫌われるなんて嫌だわ。そうしたらきっと、二度と会えない。そんなの、耐えられない。……どうすれば、いいの?」
今にも泣き出してしまいそうな、潤んだ瞳、震える声。
『ディー……本当は、自分でも分かってるね? ディーの中に答えがもうあるはずだ。よく、考えてごらん。でも、ディーはそれをまだ認めたくないんだ』
ふわりと目の前に舞い降りてくるのは、白い人影。
風をはらんで膨らみ翻る衣装の裾が、ばさりと大きな音を立てた。
『今のアーサーの気持ちが、はっきり分からないから。別人だとなっている歌姫ディーネと、王女ディオネ。今までディーは歌姫としてアーサーと接していたから、それまでのアーサーの態度が信じられない。ディーが王女に戻っても、今のままでは、歌姫と接していたアーサーを知っているから、なんとなくいい気がしない』
「……嫌な子ね、私。自分が選んだ道で、こんなことを考えてる。自分が良かれと思ってしたことなんだから、仕方ないのに。……きっと、初めてついた大きな嘘のツケが回ってきたんだわ。ちゃんと、決着をつけなくちゃいけないのよね。私自身が、自分の手で」
『悩むことは、悪いことじゃない。時間があまりないということだけは、覚えておくんだ。ぎりぎりになって気づいても、後悔するだけだから』
きっと大丈夫だ、と囁いて、シングが薄く微笑んだ。
大きな両手でそっと頬を包み込まれて、顔を上げる。額にゆっくりと落ちてきた口付けに、瞳を閉じる。
「……ありがとう。後悔だけは、しないように……頑張って、みるから」
彼女の答えに満足したのか、シングはそのまま空に溶ける。
ディオネは一瞬前まで彼がそこにいた場所をぼんやりと見つめて、ひとつ息をつくと、再びゆっくりと歩き出した。
 話すとすれば、何もかもを話さなければならない。自分が王女なのだと言っても、信じてもらえるかどうかは分からないのだ。
だとすれば、月の王女であるということを証明するためにも、自分自身のことを彼に話さなければならないのだろう。
 だが、彼女自身、自分について知っていることは、なぜかそう多くない。
生まれた当初から月の王国の王女で、姫巫女だった。それは、王族の歴史を辿ればおそらく、何度かありえただろう。しかし、その自分が声を持つ者であり、更に光の歌姫に選ばれるなど、前代未聞だ。
幼い頃はお転婆で、今はなりを潜めているが相当いたずらっ子だった。それが、何かをきっかけにして今のようになった。……そういえば、何がきっかけだったろうか。思い出せそうにない。とても大切で……けれど決して思い出してはいけないことだったような気がする。
考えてはいけないと、頭の中で警鐘が鳴る。
「っディーネ! やーっと見つけたぞ」
がしりと掴まれた肩に、心臓が止まるほど驚いた。
「っアーサー……様」
「……ディーネ、何でお前はそういうところで頑固なんだ」
振り向けばそこにあるのは、深い闇色の瞳。何もかもを見透かされそうな、澄んだ瞳。
怖くなって、ディオネは目を伏せ、ゆるく首を振る。
「頑固、とか……そういうのでは、なくて。こんな距離では、いけなかったのです。私は、ただの歌姫で……あなたとこんな風に親しく出来るわけがないのに。その線引きを、改めてしただけです。あなたは、近い将来、月の王国を治める者なのですから……」
シングとの会話から短い時間の中、少しは考えることができた。
自分は歌姫としてここにいるけれど、国に帰れば王女でもある。
それを黙っていたことを、結婚相手としてやってきた彼は許してくれるだろうか。
自分には、大きな負い目がある。これをなかったことには出来ない。
だからこの会合が終わるまでに、何もかもを彼に話さなければならない。
話さないまま帰って、それで再会、なんて、耐えられない。
けれど、それを信じてくれるかどうかは分からない。
ひねくれた彼のことだから、信じてくれない可能性だって大きい。
それらを明かす瞬間をつかめず、今はただ彼を避けることしか出来なくて、こうして逃げ回っていたのに……結局、自分の力なんてこんなものなのだ。彼という存在の前では、なすすべもない。色々言い訳を並べ立て、ただ一言、私が王女だと、そう明かすことさえ出来ないのだから。
「……ディーネ?」
「え? ……あ、はい、えっと……?」
いつの間に正面へ回りこんだのか、アーサーに顔を覗き込まれた。強引に合わせられた視線に、思わず緊張が走る。思考が止まる。何も考えられない。
ただ、彼の言葉に、声に惹き込まれてしまう。
そばにいられるだけで、平常心ではいられない。
「何、ぐるぐる考えてるんだ? また歌合戦でもするか?」
彼の意外な申し出に、ディオネは首を傾げた。以前はあんなに嫌がっていたのに、いったいどういう風の吹き回しか。
「俺、歌は嫌いなんだよ」
「え?」
ぽつり、と呟かれて、ディオネは顔を上げる。
「……嫌い、なのに、歌合戦?」
「あぁ……いや、これは口実」
自然な仕草で、手を掴まれ、引かれる。普段のアーサーよりは緩やかな足取りに、彼が自分に合わせてくれているのだと知った。
「口実、って……何の?」
「ま、色々。歌が嫌いってのは、俺が歌うのは好きじゃねぇって意味な?」
たどり着いたところは、中庭の東屋だ。アーチに絡みつく蔦の隙間から、国王の手で育てられた色とりどりの薔薇が見え隠れしている。隠された、秘密の場所のような……そんな、不思議な気持ちが心を浮き立たせる。
「綺麗。秘密の庭?」
「俺の、じゃないけどな。国王陛下が逢引にこっそり使っていたらしい。秘密の場所なのは確かだ」
「……逢引? って……」
「知らないならそのままでいい。いらんこと教えるなって“光の歌”に怒られる」
苦笑混じりに、木製のベンチへ座るよう促され、ディオネは戸惑いながらそこに腰を下ろした。アーサーが同じように、ごく自然に隣に座る。
「ねぇ、どうしてここに連れて来てくれたの? もう会うこともないから?」
「……会いたくないか? 俺は、会うんじゃないかと思うんだけどな」
自分に言い聞かせるような、どこか含みを持たせた口調。
アーサーの言葉に、ディオネも一瞬口を噤む。
彼は、知っているのだろうか。
「あ、の……あのね、ひとつだけ、聞いてもいいかしら?」
「ん?」
ひとつの疑問を明かさせる力と、一歩踏み出す勇気が欲しい。
ディオネは、心を決めて口を開いた。
「恋って、どんなもの?」
アーサーが、一瞬固まって動きを止めたのが見えた。
「あー……そりゃ、どういう意味だ?」
「そのままの意味。アーサーは恋をしたことがあるの? 私は、まだないの。だからね、分からなくって。恋って、どんなもの? どんな気持ちが恋なの?」
矢継ぎ早な問いかけのせいか、アーサーはわずかに身を引いた。
「いや、そんなこと言われてもだな、あー……じゃあ、これ喋ったら、お前も俺の質問に答えるか?」
「え?」
「いや、だから。そういうのは人それぞれなんだよ。喋ったら、お前もひとつ、俺の質問に答えるか? 答えるなら、恥を忍んで俺も答えてやるから」
思いがけない交換条件に、ディオネは必死に考える。
もし、お前は嘘をついていないかと質問されたら。
お前は月の王女じゃないのかと問われたら。
それを理由に、求婚もやめる、お前なんて、嘘つきなんて、と言われたら……他でもない彼の答えがそうだったら、きっと自分は、壊れてしまう。
……それでも、嘘をついたまま再会するのよりは、ずっといい。
彼を失っても、失った先でどうなるのか想像も出来なくても。
これ以上は、限界だった。
「分かったわ。教えて。アーサー」

 アーサーは苦笑混じりに小さな息をついた。
やはり、柄にもなく期待していたのだろうか。彼女には後ろめたいことがあるから、躊躇い諦めるはずだ、と。
出会ったときから、なんとなく感じていた。
只人ではないこと。洗練された雰囲気に、高価な衣装、美しすぎるほどの肌、爪の形、歩き方、所作。
少なくとも、情操教育を受けられる、王家の血族に違いない、そう思っていた。
それが彼女と会話を交わしていくうちに、かすかな疑問が頭をよぎった。
誇り高き歌姫が、なぜ今までその姿を見せなかったのか。それは、月の王国の王女にも連なる疑問。どこにも姿を見せない、国に閉じ込められた王女、そして歌姫。同じ国、同じ歳、同じ謎を共有する少女たち。
揃い過ぎたカードは、あまりにも意外な答えを導き出す。
しかし、導かれた答えをどうするか、それが大きな問題だった。
彼女は秘密にしたいのだから、させておけばいい。そんな風に楽観的に考えて、どうせ同じなんだから、と安易に距離を詰めた。
そんな自分に、彼女にひっそりと付き従う“光の歌”が明かしたたくさんの事情。
己も含めた人在らざるものに愛されすぎた少女。
どれほど大きなものを背負っていたとしても、自分は彼女から逃れることができない。
求めることを知り、膨らんだ想いは、捨て去るには大きすぎる。
「そうだなー……俺も、本気で恋をしたのはつい最近だ。これが恋なんて甘ったるい言葉で呼んでいいもんかどうか、微妙なところだが。なんつーか……なりふり構わず、手に入れたいと思うんだ。そいつが笑うのも泣くのも、全部俺のそばであって欲しい。俺の傍らにいることが当然だと思わせてやりたい。……なんか生々しくて嫌だな。でもそうなんだ。俺にとっては、そいつのすべてを手に入れて、何もかもを知って、その上で、全部丸ごとを俺のものにしてやりたい……」
彼女を手に入れるのは、月の女神でも声の魅力に飲まれた者でもなく、自分でなければならない。それだけは確かなのだ。
 それほどの想いを抱かせた少女に、目をやった。
俯いた視線は、絡むこともない。かすかに震える肩が、感情を必死に押さえ込んでいるように見えた。
「……ディーネ?」
「ただそばにいたいって、嘘をついても秘密があっても、それを全部分かってそれでも構わないって言ってくれる人だといいって、そう思ってたの。でも、やっぱり……アーサーは、嘘や秘密をついてる子なんて、嫌いよね? そんな奴って、思うわよね?」
震える声から、彼女が抱いている感情を読み取れる。
それは怯え、と……深い、悲しみ。
脈絡のない言葉は、誰のことを言っているのか。
自分と誰かを重ねているのか、それとも……これは、自分自身に投げかけられた言葉なのか。
判断できなくて、普段ならもっと冷静に対処できるはずなのに、彼女が相手ではどうにも出来ない。一番いい手は、どんなものだろうか。
……必死に悩んだ結論は、曖昧に言葉を返すこと。
「何だよ、どうしたんだ? 俺は、惚れた相手のついた嘘や持ってる秘密なら、事情によっては水に流してやるくらいの心の広さは持ち合わせてるぞ。……何だか分からん間に月の王国に婿入りすることにはなってるが、俺でよければ聞いてやるから」
「惚れた相手……なら、水に流せる、の?」
「俺を鬼悪魔の類と思ってないか? これでも一応人間だぞ、人間。それくらいの情は持ってるって」
何とか苦笑をひねり出して、傍らの少女を見れば、緩やかに顔を上げたところだった。その表情は、今までに見たこともないような、追い詰められたものだ。
こんな表情をさせるつもりはない。なかったのに。
彼女に、曖昧な言葉が役に立たないことを失念していた、自分の完敗だ。
「……じゃあアーサーは私を何だと思ってるの?!」
腰掛けていたベンチから立ち上がり、やや上から降ってくる声になじられる。
耳に響く声は、いつもの甘さの中に大きな嵐を秘めていた。
勢いよく脳を侵す読み取れない感情が、色々なものを引きずり出す。
制御できなくなる。
「何、って……それは、俺にとっては初めて会った声に影響されない女、で……それから、その……」
まさか、月の王国の王女なんじゃないかと予想してる、それを黙っていることも含め、お前に惚れてるんだ……などと軽々しく言えるはずもなく、らしくもない照れが先に立ってアーサーは滑りそうな口を閉じた。彼女の声に引きずられて言えること、言えないことがある。
「……月の王国の王女が駄目だったときの、控えみたいなもの? ……そんな気持ちなら、私はいらない! そもそも私は、アーサーにそんなこと求めてないわ!」
 今まで聞いたこともない、乱暴な口調。逃げようと身を翻す彼女の手を、反射的に掴み取る。それでも逃げようとする彼女の身体を抱き寄せるために、アーサーも立ち上がった。
「離して! 嫌……アーサーの好きな人は、私じゃないでしょう!」
そこで、ようやく知る。彼女は、気づいていないのだ。アーサーが、王女と歌姫が同一人物だろうと確信していることに。
気づいていないのだから、その言葉は当たり前かもしれない。
当たり前なのかもしれないが、荒ぶる感情のせいで頭は正常に働かない。
やはり、何も考えずに距離を縮めたことがいけなかったのか。それとも、心を決めて、はっきり言えなかったことがいけなかったのか。
様々なことが脳裏を駆け巡り、制御できないまま声を荒げる。
「なっ、んなこと誰が言ったんだよ?! コラ、ちゃんと最後まで話を……!」
「……聞く必要が、どこにあるというのですか? アーサー様」
「おまっ……」
かすかな、囁き声。そして、硬い言葉。
今までの優しい感情は、そうでなくともたくさんの思いが織り交ぜられた声は、すべてどこかに閉じ込めてしまったように。耳に届く声に、感情の色は見当たらなかった。
「誰に恋していらっしゃるのかは存じ上げませんが、お戯れもほどほどになさいませ。馬鹿な小娘は、本気にしてしまいます。……あぁ、それとも……それが目的なのかしら」
 胸にあるものを認めてしまった今では、耐えることの出来ない、非情な言葉。
彼女はこの気持ちを知らないのだから、どれほど胸の中で思っていても、言葉にしなければ分からないのだから、仕方ないのかもしれない。
それでも、今までの生涯で初めて、傷つけることを躊躇うほど愛しいと思った彼女にそこまで言われて、ついに堪えていたものがあふれ出した。
「……いい加減に、しろよ? 俺にだって、我慢の限界はあるからな?」
「な、によ……アーサーがいつ、我慢してるの? 今までだってずっと、私のことからかって、面白がって……! 限界は、私の方よ!」
その言葉が本心なのは分かってしまったが、どうしようもなかった。
もう、止められない。
「ッ……我慢させてて、悪かったな!」
目の前で、かすかに潤んだ瞳が瞬いた瞬間、彼女の手を掴み引き寄せて東屋の柱に押し付ける。必死に睨みつける姿も愛らしい彼女に、ゆったりと笑って見せた。
そして、貪るように触れる。
もしも、彼女が手に入らないのだとしたら。彼女が、自分を嫌悪し、拒絶するのだとしたら。
彼女の身体に己を刻み込むためであれば、傷つけることさえ厭わない。
もう、耐える必要などないのだ。

 嵐に攫われるような、混乱。
息も出来ないほどの荒々しい洗礼に、涙が滲んだ。
「なっ……!! 何するの?! 何考えて……!」
目を見開いて、脈絡のない無体な態度に出たアーサーを見つめる。
余韻を味わうようにそっと唇を指でなぞり、浮かべた微笑は柔らかく……今までに見たこともないような艶めいたもの。その仕草に、ディオネは頬を赤らめた。
「ちょっとは聞く気になったか? それとも、俺はあんなふうにいつも誰にでもキスしてるんじゃないかと思ったか? 軽蔑したいならしろ。俺はどこまでも追いかけていってやるから」
アーサーの両腕が勢いよく、ディオネの身体の両脇を塞ぎ、その身体が逃げる余地を奪って拘束する。
手で触れられているわけではないのに、実際に直接囚われているわけでもないのに、逃げる場所も見当たらず、わずかな身動きさえかなわない。
身体の両側に突きつけられた彼の腕に、縫い止められたかのような不安。
「……こうやって、どこまで貶めてやろうか。光の歌姫を、月の女神の愛し子を……地に引きずり落として俺のそばに縫い止めて、決して空に飛び立てないようにどこに閉じ込めてやろうか。……そうだな、閉じ込めるなら俺の腕の中がいい。すぐにそんな口利く気がなくなるぞ?」
耳元で囁かれる声に、今までとは比べ物にならない何かが背筋を走る。
こんなものは、知らない。分からない。
何なのか気づくことが怖くて、ディオネは必死にそれから意識を逸らした。
「どうしてもっと早く、こうしなかったんだろう。こんなに欲しいと思ってたのに、俺もよく我慢したもんだな。歌姫だろうと神の子だろうと……王女だろうと構わねぇんだよ。俺は、ここでこうして俺に捕まって乱暴されて震えてるお前そのものが欲しいんだ。お前の何もかもが、この声も、この瞳も、この指も、肌も……髪の一筋だって、誰にもやりたくないんだ。わかるか? 俺はお前の全部が欲しいんだ。お前を俺のものにしたいんだよ。汚い独占欲だろうと何だろうと、この気持ちはもう抑えられない、隠せない。なかったことにも出来ないし、もとより俺にはその気がない。お前が泣こうが喚こうが、俺はお前から手を引く気はねぇよ。……恋してる相手? そんなの、お前以外に誰がいるって言うんだ」
 そっと頬をなぞる指の優しさに、思わず顔を上げた。即座に絡み取られる視線の先にあるのは、渦巻く荒々しい感情を閉じ込めた、漆黒の瞳。普段はあんなにも雄弁に感情を語るのに、このときに限ってそこに明確な感情は見出せない。ディオネはますます不安になった。
いつもとは違う。何もかもが。
再び息を塞がれて、半ば恐慌状態に陥りながら、ディオネはただ翻弄されるのが怖くて。
「っ……痛ぇ。噛みやがったな? ……どうせやるなら、もうちょっと軽くやってくれ。そうすれば気持ちいいから」
藤色の瞳にこぼれそうなほど湛えられた涙を、そっと指で掬われる。再び向けられたのは、彼の穏やかな優しい瞳。
「……どうして……? こんな」
くるくると豹変する態度に、どうすればいいのか分からない。翻弄される彼女には、何を信じればいいのか分からない。
「……でも、いい。許してやる。お前のつける傷なら、この痛みさえも愛しいよ。唇を、他でもないお前に傷つけられるのならな」
淡く滲み出てきた紅い、紅い滴り。
息を飲んだディオネの目の前で、それは滴になる前に彼の舌に舐めとられる。艶めいた仕草の似合う、自分よりもずっと大人の男。自分の知らないことを、ずっとたくさん知っている人。
……ようやく、シングがアーサーを危険だといっていた意味が、本当に分かったような気がした。
親指の腹で唇の血の名残を拭い取るその隙に、彼女は身を翻してその腕を逃れた。
必死に、ただ彼から逃れることだけを思って、走る。
信じていたことや、信じたかったこと、投げつけられたたくさんの言葉も、欲しかった言葉も。すべて理解する余裕がない。
今は、まだ。
ディオネには、時間が必要だった。

 「……逃げられたか。もうちょっといけると思ったんだが」
追いかけようと思えば出来たのに、それでも手を伸ばすのがはばかられたのは、自分のしたことが、彼女にどれだけの衝撃を与えたか分かっているからだった。
清らかで何も知らない彼女を穢す、暝い快感。口づけだけで痺れるほどに心地いいなんて、今まで知らなかった。手に入れたとき、どうなるのか分からないほどに。
 遠ざかっていく華奢な背中、その背を跳ねる銀の髪を見つめながら、アーサーは独り言ちる。
「月の女神にだって邪魔はさせねぇ。お前は、俺のものだ。誰にも渡さない。誰にも……それを邪魔する奴なら、俺は……神だって、敵に回してやる。そこまで、お前が欲しいんだよ」
今までの傲慢な口調は見る陰もなく、囁くように紡がれた言葉が、空に溶けた。
それを聞いたのは、気の早い星の輝きと、落ちていく太陽と、昇りつつある月の姿。

 彼らに残された時は、あと、わずか。 自分が変わっていくことに、彼は気づかず微笑んだ。




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