王子様たちと私 心地よく馨る風・才能とは
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 自分が悪いのだと思っていた。
追いつくことの出来ない、未熟な、不完全な自分が悪いのだと。


 物心ついたときには、すでに何でも出来る兄がいた。
兄は万能の人で、特別なことは何一つせずとも簡単にやってのけた。
恐ろしいくらいに完璧に、欠点がひとつも見つからないほどに。
最初は、兄に憧れた。
あんなにもすごい人が自分の兄だと思えば、それだけで嬉しかった。
自分と兄の持つ色彩が同じだったことも理由のひとつだろう。兄くらいの年頃になれば自分もあんな風になれるのだと、無邪気に喜んでいた。
しかし、そんな兄を持った自分がこの上なく不幸だと気づくのは、それからまもなくのこと。
 教師の誰もが兄の才能を目の当たりにして、おそらく自分にも同じものを求めていたのだろう。だが、自分は兄とは違った。
結果は努力の先に生み出されるものであり、兄のように、その日のうちに出来るようになった、その日のうちに覚えたなどというものでは決してありえない。
いつでも、自分がどれほどたくさんの努力をしても、あの人はたった一瞬の優位さえ許してくれなかった。顔色一つ変えず、額に汗ひとつかかずに涼しい表情で何もかもをこなしていく様は、嫉妬を通り越して、恐怖さえ覚えるほどだった。
教師から毎日のように繰り返される厭味を聞かされ、兄と比較された。
芽生えた負の感情は逃避に向けられ、『自分は兄ではないから』と言い聞かせるように日々を送った。
そしてそれはいつからか、『自分は王位を継がないのだから』に変化していく。
兄と比較されることの苦しみから逃れるために、自分は王位の存在を利用した。兄は、王位につかなければならない。万能に生まれなければならなかったのだ。
自分とは、違う。
そう思い込ませて、毎日を過ごした。
そうでもしなければ、やっていく自信がなかった。
事実、城の誰もの中で、また自分の中でも、兄の存在は敵うはずもないほど大きく、結果的にそれは、圧倒的な劣等感を呼び起こすものとなった。

 それから、幾年かが過ぎて、ある程度何もかもがこなせるようになったころだった。
拭い去れない兄への劣等感を抱いたまま、兄と剣術の練習試合をすることになった。
理由は、もう覚えていない。
記憶に残っているのは、兄に剣を弾き飛ばされてバランスを崩し、尻餅をついて負けを認めたこと。そんな自分に、硬い表情の兄がそっと手を差し出してくれたこと。
その一瞬後、兄の背中に矢が突き立ち、血に濡れて自分の上へと倒れ込んで来たことだった。
 その日から兄は、一生消えない傷を背中に背負うこととなった。
おそらく、自分のせいで。

 そして、自分と兄の無いに等しい関係を粉々に打ち砕く原因となる、あの日はやってきた。
まだ自分は、青年期に入る手前だったと思う。
むせ返るような熱気、その中で兄は、平然と、汗ひとつかかずに立ち尽くしていた。
どうやら、目の前にいるのが弟だとは信じられないらしい。
無理もない。
今の自分は、兄なのだから。
「お久しぶりです、兄上」
久しく言葉さえ交わしていなかったことを思い出し、強引に言葉をひねり出す。
会う機会がなかったのは確かだが、意識的に兄と対面することを恐れ、避けていた節もある。こんな形で……兄の影として会うことになるとは想像もしなかったが、それも今となっては何の苦痛にもなりはしない。
そのときにはすでに、苦しみ抜いた後だったから。
それから、何度となく兄の代わりを務め、それ以外の時間は、自分が少しでも兄に近づくよう必死の努力を続ける毎日を過ごした。
そんな自分に、自分と呼んでもいいものか分からないような兄の影でしかない存在に、兄は。
「誰が、お前にそれを望んだ? 私か? ……違う。お前が自分を捨てて何になる。私には、お前など必要ないのだよ」
握っていた木刀が、ずるりと手から滑り落ちた。
空気を求めるようにかすかに喘いで、すぐさまそれらを飲み込んだ。
いらないと。
影など、お前など要らないと。
存在すべてを否定されて、どうすることも出来なかった。

 それ以来、自分には、何もなくなった。自分の存在を構成するすべてが、自分自身を否定する要因でしかないのだ。
しかしそれを考えることは自分の今までの行為をすべて否定することと同意義であり、それだけは、越えてはならない一線なのだと自分でも理解していた。
 それでも。
どうしようもなく、胸が痛んだ。
 兄のようになれない自分に、ではなく、兄に影としてでさえ必要とされない、取るに足らない、要らない存在なのだと認めなければならない現実に。
どうしようもない現状に、ひび割れた心が痛かった。


 毎日のように足を運び、弓をひけども、心は揺れ動き千千に乱れる。
ブレスは、癖になってしまった溜め息を吐き出し、歩き慣れた道を行く。
青い空が、新緑の木々が、疎ましい。
重い足を引きずるように、弓場の前にたどり着いたとき。
「……ブレス様?」
さくさくと芝を踏んでやってきたのは、彼と同じように何でもできる兄を持つ、しかしその兄の愛を一身に受けて育った王子だった。
「……シーザー王子」
きらきらと好奇心に輝く濃い暗紅の瞳。兄とそっくりの、濡れ羽色の髪。
ブレスたちとはあまりにも違う道を歩んだ、似ているようでまったく違う兄弟。
羨ましい、という感情よりは、妬ましい、そう思う。
「弓の訓練にいらしたのですか?」
「……えぇ、そんなところです」
彼のように、笑顔が自然に出てくるというのは、幸せなことだ。
素直な微笑みに見つめ返されながらも、無感動に扉を開く。
「王子も弓の訓練ですか? ……どうぞ」
「あ、ありがとうございます……そうです、兄様が、言ってましたから。ブレス様が、弓場にいるだろうからコツを教えてもらえばいいって」
するりと扉の間に身を滑らせて、シーザーが無邪気に答える。
ブレスは目を瞬き、少々意外の念を持った。
「殿下が?」
「そうです。……何か?」
道具を揃えてある場所へ、いつの間にか並んで歩きながら、二人は……いや、ブレスはぎこちなく言葉を紡ぎ出す。
「いや……少し、意外で。殿下がそんなことを言うとは」
シーザーが笑いながら胸当てをつける。
「確かに……兄様ってそんな感じですよね」
自分勝手で、何でもすぐに出来て。
しかもそれは、事実。
「だけど、それはそれで不便で……大変みたいです、兄様が言うには」
「仲が、よろしいのですね」
「いいえ……僕が一方的に慕ってるだけです。兄様は、僕の相手は兄様の用事の合間合間にしてくれるくらいで積極的とは言えませんから。確かに、兄様の『合間』は、かなり長くて、力一杯付き合ってくださってますけど」
ブレスはベンチに腰掛け、物色した弓に弦を張ると、隣のベンチで同じように弓を手に取ったシーザーに目をやる。
寂しげな様子はない。むしろ、苦笑交じりのどこか嬉しそうな目。
「ブレス様、ご教授願えますか?」
ぱっと上がった視線に真っ直ぐ貫かれて、ブレスが躊躇する。
今の自分に、アーサーという兄を持つ彼へ、教えることなどあるだろうか。
「……君には、殿下がいるだろう。私に教わるより、ずっと上手くなると思うのだが」
結局、口をついて出た言葉は、自分を卑下するようなもの。相変わらずの自分の態度に、嫌気が差す。
「それが、兄様は教えてくれないんですよ、ちっとも」
理由には納得してますから、いいんですが。
そう苦笑するシーザーの言葉に、自分でも、驚くほど興味を持ってしまった。
「教えてくれない?」
それは、何の疑問もなしにさらりと告げられた。
「そうです。兄様は、特別だから」
確かに、アーサーという人間は特別だ。美しく強く、しなやかで強靭。そして、何者をも虜にする声。特別が指す特徴はいくらでも列挙できる。今ならば、そこにもう一人、歌姫という存在を加える必要もあるだろうが。
「兄様は、昔からあんなだったらしいんです。一度読んだ本の内容は、ページ数行数を言われればそこから暗唱出来るほどで。歴史も、年表を丸ごと記憶するから、兄様は知りたいところだけ小出しにすることも出来るんです。この年と言われればその年にあったことがでてくるし、何が何年に起きたのかと聞かれても、年表がそのまま頭の中にあるからすぐ分かるらしくて。すごいですよね」
弓を壁に立て掛け、前を向いて、シーザーはすらすらと続ける。
「すごいを通り越して、ほとんど変わり者扱いだった兄様は、やろうと思ったことは、興味を持ったことはすぐに修得しちゃうんですが、やりたくないと思ったことは、頑としてやらないタイプなんです。……お分かりでしょう?」
問い掛けられた言葉に、思わず頷いてしまう。彼は、とても身勝手で、けれどそれが許されてしまう特別な人間。
「いまだに先生が、忘れられないって兄様の話をしてくれるんですよ。並外れた記憶力と体力を持ってるのに、あんな使い方をするなんて宝の持ち腐れだ、なんて。どっちかと言うと、能力を伸ばすことよりも、嫌いなことをその場限りでもいいからこなしてしまえ、みたいな人で」
教師の言葉からは彼が彼であることをより感じさせられるだけだが、その才能に関しては、よく似ている。ブレスの兄も、そんな人だった。性格はともかく、何でもできる万能の人。
「なまじ小さいころからそうだったせいで、やり方は自己流どころか、思いつきのその場限りな方法だってあるわけです。だから、でしょうか。人に、何かを教える、というのがひどく苦手なんだそうです。規則にのっとったもの……たとえばルールとか、なら別だって言うんですけど、武道や勉強法は自己流もいいところで、誰に薦めても絶対出来ません。僕も一度兄様のやり方で物理の小試験に挑戦しましたけど、怖いくらいに散々な結果でしたから」
こちらへと向いたシーザーは、思い出したくもありません、と小さく笑って、弓を握るとベンチを立つ。
「兄様から教わることは、自分に出来そうなこと、出来そうにないことの境界線がどこにあるか。それだけです。後は、分かりかけたことへのヒントをくれるくらいで」
こうすれば出来るんだ、って言う最終的な答えは、絶対くれませんよと、矢筒を腰に提げる。くるりと振り返って、にこりと笑う。
「だから、羨ましがってるんです、ブレス様のこと。あの人なら俺よりずっと上手に教えてくれるだろうって」
俺じゃあ教えたくても教えられないし、そうなった過程の説明が出来ないから……そんな愚痴を聞かされるのだ、と。
 まさか、そんなことがあるのだとは思いもよらなかった。
天才とは、理解に苦しむもの。それは事実だったらしい。
きりきり、と引き絞られ、矢が放たれる。
的に当たる音で顔を上げてみれば、その先には、円の中心からはやや反れた位置にささる、矢羽が見える。
「なんだか、上手く丸め込まれたような……」
ブレスの唇から、かすかに苦笑が漏れた。
「もう少し、右手の角度を上へ。背中は真っ直ぐ。そう、弓を持つ手はぐらつかせない」
再び矢をつがえた少年の姿に、顔を上げたブレスは的確な指示を出す。
シーザーは一瞬、驚いたように顔をブレスの方へ向けた。しかし、間髪置かずに続け様で声が流れるのを耳にすると、慌てて正面の的へと視線を注ぐ。
「視線は真っ直ぐ的へ。慣れてくると、その姿勢が一番綺麗に撃てるようになる。姿勢さえ覚えれば、後は楽だから」
角度が肝心だから、それをしっかり体で覚えないと、と付け足すと、ブレスも同じように自分の準備した弓を手に取る。
「……弓をひく姿勢は、こんな、感じで。私の兄上のを真似ただけだけれど、私が見たものの中で一番綺麗で」
きりきりきり、という弓の引き絞られる音に、くすくすと笑い声が混じったのは、それからすぐのことだった。
「やはりブレス殿は、指南役に向いてらっしゃる。俺じゃ、そう上手くはやれないでしょうから」
「兄様の武術の教え方は『見て即実践』でしょう? もう少し一般的にしてください」
「……殿下……」
驚いて振り向けば、先ほどまでブレスの座っていたベンチにアーサーが座っていた。
食って掛かるシーザーの声を流して、視線をこちらに……ブレスにひたと合わせてくる。
こちらの目を、まっすぐに見つめて。
「……あるところに、何でも人以上に、しかも努力なしで出来る王子がいました」
ブレスも、アーサーが注いでくる視線に応じる。彼の真っ直ぐで、どこか寂しげな視線の意味が、言葉が。
 気になって、仕方なかった。

 「王子は、人に教わらなくても何でも出来たので、普通の人の効率の悪いやり方が非常に気に入りませんでした。そこで、王子は考えました。『もしも普通の人に自分のやり方を試させたらどうなるだろう?』 それは、王子にとってほんの些細な好奇心を満たすためだけの行為だったのです」
そっと伏せられた目。
俯きがちの視線。
それらは美しさを引き立て、アーサーの黒髪を、漆黒の瞳を驚くほどにきらめかせる。
彼の大切な歌姫は今この場にいないというのに……彼がここにいるということ、それが意外だった。
「結果は、散々なものでした。自分のやり方を試した大事な友達は大きな失敗をして、取り返しのつかないことになったのです。王子は悲しくなりました。自分が普通とは違うのだということを、まざまざと思い知らされたのです。王子は、他人との接触を可能な限り避けました。自分とはあまりに違う存在である他人が、怖く感じられました。もし、次に自分が好きになった人も、彼のように自分のせいで人生を棒に振るようなことがあったら。どうすればいいのか、そんな大切なことに限って分からない自分が腹立たしかった。だから、自分に重石を科して」
「重石……?」
そっと顔を上げたアーサーの、自嘲気味な微笑をたたえた表情が、痛々しく感じられる。
「そう……これ以上誰かを不幸にするのなら、自分が一人ですべてを背負えばいい。ほかの大切なものを守れないのなら、自分が寂しい方がいい。そうして人を遠ざけて、例え一人きりになったとしても、それでいい。それが定められた道なのだと」
ブレスは信じられない思いでアーサーの表情に見入っていた。
「ただ……もしもいつか、こんな自分に歩み寄ってくれる人がいたら。それでも、すべて欲しいと思うほど愛しい人ができたら。俺はその道を踏み外してでも見つけたたった一人を欲しよう……そう決めた」
ふわりと心地よく吹くのは、風。
アーサーが顔を上げ、淡い笑みを浮かべて目を細める。揺れる髪に、その穏やかな光景に、ブレスは目を奪われた。
頬をなぞる、肩を滑る風を心地よく感じるなど、いつぶりか。
煩わしいと思っていたそれは、信じられないほど穏やかに体を過ぎ去っていく。
「シーザーが俺に道を踏み外させたんだ。んで、ディーネが俺を崖から突き落とした。もう戻れないくらいに、俺は幸せを求めてる。手に入れるまで止まれそうもない。これが幸福か不幸か、それは俺にしか分からないし、俺と同じような状況に置かれて俺と同じ選択をして、そいつが幸せになれるのかどうかは分からない。風の噂に聞きました。ウインド様は、俺と似たような存在だそうですね」
離れて呆然とアーサーの独白を聞いていたシーザーが、いつの間にか彼の隣に立っていた。
「……僕は、王位に就くんです。兄様は、王になれないから。兄様は王位を捨てるっておっしゃったし、僕は兄様のお願いを聞くと約束しました。だから、僕が兄様の道を誤らせたんです」
そっと顔が俯けられる。頬を濡れ羽色の髪が流れ落ち、覗く瞳はきらきらと輝いて今にも悪戯を始めそうで。
「どうか、あなたのお兄様を誤解しないでください。……俺はこうなった。ウインド様は重石を背負ったまま。どちらを選ぶことも出来たのに、選ばなかったのは……いや、選べなかったのは誰のためだと思いますか?」
謎かけのような微笑。
話の前後から考えれば、嫌でも分かる。
「私が……?」
「それは、分かりません。俺はウインド様ではないし、ウインド様は俺ではないから。分かるとしたら、それはウインド様か、ブレス殿、あなたにしか分かりませんよ」
謎めいた微笑をそのままに、アーサーは弟の元へ歩み寄る。
「どうだ? ブレス殿の助言は参考になったか?」
「はい! ブレス様はちゃんと、直すべきところを的確に指摘してくださって、……兄様とは大違いです」
「なにぃ? よくも言ったな?」
明るい笑い声が、閑散とした弓場に響き渡った。
楽しげな表情。仲睦まじい兄弟。
自分たちはもう歳を取り過ぎて、きっと戻れないだろうけれど。

彼らは、自分たち兄弟のもうひとつの形。
こうして、自分たちに与えられていた可能性の、もうひとつの形を見ることが出来たのだ。
もう、十分だろう。

今なら、もっと近づけるだろうか。
遠くて遠くて、姿を見ることさえ出来ない遠さを、縮められるだろうか。
張っただけで、一度もひいていない弓を手に取る。
かたりと軽い物音が届いたのか、アーサーとシーザーが振り返る。
「風の国仕込みの弓の妙技、お見せいたしますよ」
二対の視線を感じて、ブレスは笑った。久方ぶりの微笑みは、自覚のないブレスには、ただ表情が緩んだだけだと感じられた。すい、と自然に身についた形で、弦をきりりと引き絞る。
驚くほど、意識がはっきりと冴え渡っていた。
無造作に放つ矢は、真っ直ぐに飛び、そして、的に突き立つ。
遠目には見えないが、矢は今までのような迷い戸惑うものではなく、ただ凛と。

 見上げた青い空も、周りに生い茂る美しい緑も。
すべてが美しかった。
ようやく気づいた。




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