王子様たちと私 ただ懐かしき闇・善悪の基準
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 月のない夜。
女神は太陽の……男神の生む闇に抱かれて世界を見守ることすら放棄し、心の赴くままに空を飛び出し、その腕に飛び込むのだ。
月の巡りに一度の逢瀬。

 そんなもので対の神は耐えられるのだろうか、と、アーサーはテラスでぼんやり考えた。
自分なら、手に入れたらきっと、一晩たりとも離さない。
離して消えられたりした日には、おそらく発狂してしまう。
 ……すでに自分のものになるのだという方向で考えている遠くないだろう未来に、彼は苦笑する。もちろん、手に入れて、自分のものにする気だが。
 『邪なことを考えていると、女神からの天罰が下るぞ』
「……女神は今、月に一度の逢瀬で頭がいっぱいさ。一ヵ月もお預けなんだとしたら、いったいどれくらい激しいんだろうって、俺は気になったりするんだが」
『そんなことを考えるのはお前くらいだろうな……』
「失礼だな、思いつけば、男なら誰でも考えるぞ? ……きっと」
『今晩はえらく弱気じゃないか。珍しいこともあるものだ』
「ほんっと……あーもう、そうだな、見えないからな、月が!!」
響く声に、ふいと顔を背けようとして……彼がどこにいるのだろう、それによって顔を背ける方向が変わってくるのだ、と思い直し、望む相手のいない暗い空を見上げた。密やかな夜だ。嘆くものも、苦悩するものもいない。
自分には、優し過ぎる夜。

 「実体のない相手と会話するのって、意外と難しいな。相手が何を考えて、次に何をしようとしているのか……想像もつかない。例えば、あんたが俺の首を絞め殺そうとしていたり……な」
その言葉と同時に、純白の像が目の前に浮かび上がった。
ひたり、と首筋に触れるのは、冷たい、雪のような肌。
ただ静かに見据える淡金の瞳は、視線を合わせるだけで、すべてを見透かしてしまいそうな印象を受ける。
……いや、実際見透かすのだろう。
古から時を重ねてきた、彼は世界の守り人なのだから。
『お前に、聞きたいことがある』
ゆっくりと喉元の手を引き戻しながら、それは言う。
アーサーは、身悶えひとつせず、じっと次の言葉を待った。
先に目を逸らした方が、負け。
そこには、緊迫した空気がある。
『お前は、声の力を憎んではいないか?』
「……別に。持って生まれたものは仕方がないし。両親もシーザーも、これと言って俺を避けようとはしなかった。この力は悪いものではないんだと、いつも言っていたくらいだ。……シーザーなんか、俺と話すこと、俺の声を聞くことになんの躊躇いもない。ただ……もしシーザーにこの声を否定されていたら、俺は多分、今の俺じゃないだろうな。それだけは、紛れもない事実。ま、どうして俺みたいなのにこの力があるのかは、不思議で仕方ないが」
ふっと笑ったアーサーから、力が抜ける。
気だるげに手すりにもたれて、はぁ、と軽く息を吐く。
「だからかもしれないぞ? あんたの大事な歌姫様にちょっかい出すのは」
冗談めかした言葉に交えた、本音。
止めるなら、今のうちだ。けれど……易々と止められるつもりもない。
彼は意外に思ったのかもしれない。一瞬だけ、本当にわずかだけ目を見開いて、すぐに、薄く笑った。
『今から引く気など欠片もないのだろう? 心にもないことを言うと、後でとんでもないとばっちりを食うものだ』
「……そうか。じゃ、ありがたくいただくことにする。……出来ることなら今晩にでも夜這いかけてやりたいくらいなんだが」
『……誰が許すと言った、誰が』
一片の感情も見受けられない凍える瞳。
彼女がそばにいるときといないときでは、こんなにも違う存在に、妙な人間臭さを感じた。
彼はとても、身勝手だ。
『……どうしてお前に声の力が宿ったか……それは、二つある理由のどちらかだ』
さらりと投げつけられたのは、身勝手で思いがけない彼の真実を明かす言の葉。
アーサーは、どきりとして顔を上げる。
相変わらずの冷めた瞳にじっと見据えられる。
空気に針が含まれたような鋭い痛みは、容赦なくアーサーを襲い、その身を刺し貫くことだろう。
そんな中、神の遣わした使者は、朗々と響く音色で告げた。
『誰よりも人間に受け入れられるだろう者は、力を持ちやすい。この王家の2代前、8代前、そして王家の初代は、声に力を持っていた。月の王国の王家は、約半数が声を宿している。神からの色を直接持っているのは、太陽の国と月の王国だけだからな、他の王家よりも可能性が上がる。……もう1つは、強さを持つ者であること。美しく、心清らかで、決して闇に染まらぬ強さを持つ者。お前は、染まった振りをして相手を欺く道化だ。騙された相手を見て笑って、それでいて凛と立つ。……お前には、決して染まらない強さがある』
そうして、薄く微笑んだ“光の歌”は、小さく一言囁いた。
『よく分かったよ。お前の清さ、強さ、すべてを。頭もいい』
「あ……当たり前のように言うな! 俺のどこが闇に染まってないんだ。真っ黒じゃないか」
『このことに自覚がないのは罪ではないしな。まぁ、そうしておこうか』
「いや、そうしておこうかじゃなくてだな!」
『色々と知りたいことがあるだろう? 話してやるぞ。ディーのためにもお前に話しておきたいことはたくさんある』
話題を逸らすように告げられたのは、今までなら絶対に聞けなかった言葉。
「……ははは……ホントに、許してくれるんだな、本気になってもいいって」
『元よりお前はそのつもりだろう?』
何を馬鹿なことを、と当たり前のように返って来た声に、アーサーは笑った。
「そうだな……囚われて逃げられなくなって、どれくらいたったか分からないから」
声を聞いて見つめ返した瞬間から、信じられないほどの興奮と衝撃を受けたのは、事実だから。
突き動かされて、欲して、そろそろ耐え切れない。
早く彼女が気づいてくれることを、願うことしか出来ないのに。

 「で、話しておきたいことってのはなんだよ?」
『なんだと思う?』
「分かるか!!」
即座に返って来た答えは、あまりにも子供じみていて、“光の歌”は小さく笑い声を漏らす。
「……むかつくなぁ。はっきり言え、はっきり。なんなら夜這いかけに行くぞ?」
『行くな阿呆。……とりあえず、オレがディーに出来ることを言っておく。もしもの時のために……お前は、オレの出来ないことをして欲しい。ディーは……今まで生きてきて出会った誰よりも神の領域にそば近く在る。一体いつ連れ去られるか……』
ふっと見上げた、ただ虚無の広がる空へ、“光の歌”はそっと囁いた。
「連れ去られる……?」
『ディーは、オレの生の中で最も美しく、そして無限の力と、とどまることを知らない魅力がある。それは、お前もわかるだろう?』
同意を求めれば、アーサーは即座に頷いた。考えるまでもない。解る……むしろ感じるのだ。
『ディーの魅力に囚われたものを、今までに幾人か見たことがある。……だがお前がディーに“囚われた”と感じるのは、それとは違う。免疫のない人間……特に異性がお前の声を聞いた時の様子が、いちばん近い』
「あぁ、なんとなく分かる。何か、まずい状況になるよな」
過去を振り返ってみたのか、アーサーは笑った。空々しい笑み。
「なかなかにすごい状況だった。月に一度くらいならともかく、毎日となったら、とてもじゃないが相手なんか……」
『お前には都合がよかっただろう』
色魔め、と呟けば、彼はむっと眉をひそめて応じる。
「失礼だな、都合はよくないぞ。昼だろうとかまわないからな、そういう奴らは」
さすがに日があるうちはなー、と気だるげに続けるアーサーに、返す言葉もなくただ溜め息で答えた。
『いい。聞いたオレが悪かった。ともかく、ディーはあの通りだからな、そんな奴らに触れさせるわけにも、近づかせるわけにもいかなかった。それらは排斥するだけでなんとかなる。ただ……問題は、魅力に“飲まれた”者の行く末だ』
微妙な言葉の意味合いに、気づいただろうか。
「……囚われると飲まれるでは、違うのか?」
『確実に違う。飲まれたものは……ディーの声にしか反応しなくなるか、もしくは、狂気を得る』
“光の歌”という存在は、ただ事実を告げるだけだ。
淡々と、静かに。
『前者は、ディーの声を聞くことでようやく動く。それ自身は人形のように、抜け殻になって生きるんだ。ディーの声だけが、それを動かす。命を宿す。後者は……逆だ。ディーの声に飲まれて、他のことは何一つ考えられなくなって……ディーに、すべてを縛り付けられて。自由を得るために、ディーを求めて……そして、ディーを殺そうとする』
自然の節理を説くように、さらりと告げられた言葉のどれだけを信じるだろうか。
急激に温度の下がった周りの空気に、アーサーが一瞬、身震いした。
簡単に言ってしまえばそれは、廃人か、狂人だ。
人を飲み込んでしまえるほどの無尽蔵な彼女の力は、どこまでいくのだろう?
「……いるのか。飲まれた奴は」
問い返すその瞳の中にあるのは、拒絶を期待する色、そして、最悪の状況を把握する、真剣で真っ直ぐな意志、だった。
アーサーの考えている通り、彼女は……。
『ご察しの通り……飲み込むほどの力を持つのは今まででディーが初めてだが、それ以上にあれは心が弱かった。ディーの声に酔い、飲まれたどうしようもない男だ。……その話も、しておこうか』
そう言って、そっと腕を振るう。
二の腕に輝く装飾が、さらりとかすかな音を立てて揺れた。


 彼女が幼い頃から、ずっと見守ってきた。
回りの人間を時折巻き込んで……そう、それが許される月の王国、声を持つ者の存在が他国よりも広く知れ渡っている場所で育った。
感情を押し込めることなく、悲しければ泣き、腹が立てば怒った。
周囲で見ているものが不安になるような、元気の有り余った子供だった。
けれど、そんな彼女が歌う時。
ただそれだけは、見ているわけにはいかなかった。
どこまで広がるかも分からないような、膨大な力、圧倒的な魅力。
己の力の大半を彼女の声を抑えるために使ったこともある。
それほどまでに、その強さは、果てを知らなかった。

 彼女が、いくつの頃だったか。
今よりもずっと幼い面立ちの、けれど先が楽しみ……むしろ不安になるほどの美貌をすでに備えていた彼女に、飲まれたものが出た。
孤独な、世界に取り残されたような男。
相手がいくら精神崩壊に近づいていたとしても、それは人という枠に括られた者の声では一度たりとも為し得なかったこと。
……最初に自分の声を聞いたもの以来だった。
 男の瞳は剣呑さを帯び、密かに抱いていただろう野望を再び甦らせ……心を壊した。
その瞳は、心は一途に、ただ彼女一人を追いかける。
彼女を手に入れる、そのためだけに。
 驚きと同時に、焦りを抱いた。ただでさえ彼女は、月の女神に愛されすぎているのに。
あまりにも『人』からかけ離れた存在になりつつある彼女を、この人の世に引き留めなければならない理由は、山とある。
だから。自ら釘をさした。
『……あんまりわがままを言ってると、月の女神様が、寂しいって君を月まで連れて行ってしまうよ。月の女神様が、この世界で一番最初に見つけられる子供は、ディー、君なんだから』
何も知らない少女は突然聞こえてきた声に驚いたが、それ以上に聞こえてきた内容に怯えた。
自分の周りにいる両親や友達と引き離されて、月に連れて行かれるのかという恐怖が、彼女の行動を今までの破天荒なものから、次第に慎ましいものへと変化させた。
年頃の少女らしい、刺繍や編物、読書など、室内で出来ることに、行動が限定されはじめる。
上品に、可憐に、美しく磨き上げられた玉のごとき美しさは、野放しにしておくにはあまりにも危険だった。
 その恐怖を現実のものにしないためにも、溢れ、途絶えないその力を無闇に流してしまわないためにも、彼女を成人と同時に光の歌姫として認めた。

 そうして彼女は、ますます人の域から遠ざかる。


 「で、今に至ると?」
『まぁ、そんなところだ。何にしろ、あれは底が知れない。何を企んでいるかも、飲まれているせいかまったく見えないしな。ただ……』
「ただ?」
『あれが望んでいるのは、新しい国だ。どこに属するとも知れない己を正当化するための、精一杯の抵抗だろう』
すべてを見透かしたように透き通った瞳が、アーサーの目を見つめ返す。
ただ、呆然と聴いているしかなかったアーサーにとって、あまりにも非日常的な内容には、頭痛がした。
「新しい国って……いや、それには触れないでおく。頭痛ぇ。それよりも俺は、その新しい国計画とあいつがどう関ってくるのかさっぱりわかんねぇんだが。あいつの声を聞いてその計画を実行に移す気になったんだよな? ってことは、あいつがなんか、利用価値あるってことか? それとも、計画を実行するためには、あいつは邪魔なのか? ……だったらもうあいつはこの世にいなくて、新しい国計画が始まってて、戦争でも起きてそうだぞ?」
いっぺんに喋り過ぎだろう? と目頭のあたりを揉み解しながら、眉を顰めて考える。
『これをディーが見たら……』
「ん? なんか言ったか?」
小さく何事かを呟いたように感じた“光の歌”が、アーサーの問いかけに軽く首を振って、否定した。それでもなぜか気にかかり、アーサーは改めて顔を上げ、小首を傾げる。
『……神の子という言葉は、知っているか?』
相変わらず唐突な言葉に、アーサーは思わず問い返してしまった。だが、その言葉には覚えがある。
「は? ……あぁ、神の子、な? 知ってる。……『神の子とは、この世界を守りし二柱の神に、強く望まれ、愛された魂を持つものである。彼らは人の世にあることが信じられないほどの美しさを持ち、いずれ神に召されるために生まれ落ちる。彼らは神と魂を繋ぐ道を抱いて生まれ、その道を神が降りしときこそ、神に求められ連れ去られる。生果てるまで召されぬものもあれば、生まれて幾月かで召されるものもある。それらは神のご意志であり、連れ去られしものは肉体さえも消え去り、死とはまた別の形で人々の中にその存在を残す』……300年前の学者シーレイが残したものだ。けど、そんなもん文献でも歴史の中でも存在確認されてないぞ? 本当にあったことなのか?」
すらすらと学術書の内容を暗唱して見せたアーサーは、“光の歌”にちらりと視線をやる。
変わらない、清らかな美貌。
アーサーの問いに対する答えが、よどみなく流れてくる。
『ディーはそうなのだと言ったら、どうする?』
「どうするも何も、欲しいもんは欲しいんだから、連れ去られる前にとっととモノにして一生離さない。神なんかに渡してたまるか」
『いや……冗談ではないんだが』
「なんだよ、じゃあ、あいつは『神の子』で光の歌姫だって言うのか? それって、出来すぎてねぇ?」
『……だから言っているだろう、ディーは“誰よりも神の領域に近い”存在。女神にあれほどまでに愛されていながら、今もここでこうして存在することが、信じられないくらいだ』
ふっとこぼされたかすかな吐息。
たったそれだけでなぜか理解できた。
「……まさか、誰よりも神の領域に近いからあいつは狙われてるんだとか言うか?」
『あぁ、言うな』
と、いうことは。
彼女を狙うものの目的は、囚われた現実からの開放だけではない。
神へと続く道を抱いて生まれ、人在らざる美貌を宿し、そして、無限に広がる声の魅力を持つ彼女を。
「確かに……祭り上げれば国のひとつやふたつおったてられそうだな」
おそらく、世界で最も貴重な、価値のある……道具。
純真で素直で、人を騙すことも、誤魔化すことも知らない、そして、人を傷つけることを厭い自らを痛めつける彼女は、まさに、うってつけだ。

 『オレは……ディーを守ってやれない。お前もわかるだろう? オレはディーの守護は出来ても、護ることは……できないんだ。お前が今晩ディーの元へ行こうとしても、オレはディーの部屋に行きつくまでなら邪魔は出来るが、部屋に入ることは妨害できない。……ディーに直接の危険が降りかかっても、ただ世界を見守るものでしかないオレには、どうにも出来ないんだ……』
無力な己。
彼女の声の力を『歓び』という一方向に向けられても、それをどう使うかは彼女次第。
彼女が神に召されようとも、それを止めることも出来ない。
世界の動きを見守るのが、“光の歌”の存在意義だ。
それ以上でも、それ以下でもない。
ただ、見ていることしか出来ない。
……どれほど彼女を愛していても。


「俺はなんでこう面倒なのに捕まるんだかなー……」
『嫌ならすぐに退け。ディーを、傷つけないうちに。今なら引き返せる。ディーも……おそらく』
ふっと、白い陰が揺らいでいる。
どこか不安げに見えたそれを一笑し、アーサーは見えない月に思いを馳せる。
「もしあいつが引き返せたとしても、俺はもう引き返せないから。傷ついても傷つけられても、傷つけたって離さない。拒否されたら、逆に燃えるかもな」
唇に浮かぶのは、不敵で、ふてぶてしくて……負けることなど、考えもしない笑み。
『だからお前は嫌なんだ。顔のよさで何もかも隠して、そのくせ腹でどんな汚いことを考えているか分からない』
今、ディーの何を想像した? と問い詰める声に、実体はもうない。
「何って……そりゃ、俺に抱かれるところだろう」
欲しい、と切なげな瞳で呟けど、聞こえたのはかすかな吐息だけ。その吐息ひとつでアーサーに応じると、それは意識を世界に溶かしたようだった。


 『お前は絶対に振り向くな。いずれやってくるときには、ディーを護って、ディーのすべてを受けとめて、ディーを癒してやってくれ……オレには、出来ないことを』

 狙われた、神の領域に片足を踏み入れている少女。
静かな闇が一人テラスに残された彼を包む。
……耳にこびりついた言葉は、夜が明けても取れなかった。




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