王子様たちと私 深く染みる森・挑戦とは
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 薄い雲が、日の光を遮って、影を生む。急に足元に出来た翳りを認めて顔を上げると、薄墨色をした嫌な雲がこちらを見下ろしている。
……雨が、降るだろう。

 うつら、うつらと舟をこいでいたアーサーの耳に届いたのは、1つ年下の水の王子の声だった。
「――なら……分かってもらえるだろうか?」
「このもどかしい思いも、苦悩も。スイに負担をかけないように、どうか……」
夢現の中でやんわりと目を開け、アーサーは声のした方へ視線を向ける。
……フロッドの金の髪がまず目に入って、その白魚のような手が、小さな、本当に小さな純白の花を愛でるようにくすぐっていた。その表情は驚くほど柔らかで、普段のひねくれた雰囲気も、自己愛の強さも感じられない。
 意外さと、好奇心に打ち勝つことが出来なかったアーサーは、昼寝の穴場である木の上から飛び降りた。
そのはずみで起きた梢の擦れる音に不意を突かれたフロッドは、慌てて立ち上がり、周りを見渡す。ちょうど斜め後ろの位置にある木の根元に降り立ったアーサーを見つけると、一気に、顔を上気させた。
あぁ、こういう表情はちゃんと年下に見えるなぁ、などとぼんやり思いながら、寝起き時には普段が嘘のように無表情になるアーサーは首を傾げる。
「……顔、赤いぞ?」
「き……聞いてた、んですか……?」
「何をだ?」
重要なことを省いて喋るんじゃない、と変な部分に突っ込みを入れながら、髪を手櫛で整えて、負担がかかっていたのかだるい右肩を回す。
何の感情も示さないアーサーを見て、朱に染まった顔を隠すことも忘れたフロッドは、脱力したようにしゃがみ込んだ。
「……おい?」
「……聞いてほしいことが、あるんです……」
静かな森の中だから聞こえるような、小さく呟かれた言葉に、アーサーは目が点になった。色男も形無しだ。
「……お前が? 俺に? 聞いて欲しいこと?」
まさか、何の冗談だよ、とさらりと流してしまうつもりが、彼の目を見つめ返して、言葉を失う。
「……えーと。本気か?」
「……はい。あなたは、きっと聞いてくれると思ったから。おれを、変えてくれるかもしれないから。あの日を境に、あんなにも変わった木の国の王太子様のように……」
 そう。オークの変化は、目を見張るものがあった。
顔を上げて。胸を張って。燃えるような紅葉色の髪が人々より一つ飛び出している。アーサーと並んで談笑する和やかな空気は、ついぞ見られなかった光景で、周囲を……特に、毎年『会合』に参加していた王子たちや関係者を驚かせた。
その笑顔は穏やかで、誰もを安堵させる包容力があって。
アーサーは喜び、同時に少し寂しくなった。
もうオークは自分一人にかまけているわけにはいかない。
王太子という立場も、彼の人柄も。
これから彼のまわりに有能な人物が集結するのは、目に見えている。
置いて行かれる孤独と、彼の本来の魅力を取り戻せた喜び。
相反する感情二つを抱いて、アーサーは何事もなかったかのように微笑んできたが。

 「俺は、王太子どのを尊敬している。信頼しているし、家族と同じくらいの安らぎを得られる人だから。お前を王太子どのと同じ位置に考えることは俺には出来ないし、そんな気もない。聞くだけで、言いたいことを言うだけで、絶対後悔しないと言い切れるなら喋れよ。俺は、責任持てない」
自分本位な言葉だったが、フロッドはそれでも頷いた。
アーサーの闇色の瞳が緩く閉じられる。話を聞く体制に入った彼の姿勢に、フロッドの気配がぱっと明るくなった。
「……俺は、悩み相談所じゃねぇんだけどなぁ……」
小さく呟く、やたらと失礼な言い分は、聞こえなかったようだが。


 全ては、水の国の制度から生まれ、王位継承者である王女の誕生から始まった。
水の国の継承権は女性にあり、フロッドがちょうど物心ついた頃に妹姫、アクアが産まれた。もちろん、国を挙げてのお祭り騒ぎとなったし、フロッドも妹誕生の知らせを聞いて、ついにお兄ちゃんか、とわくわくした。
しかしそれもほんの短い間で、当時たった五歳だったフロッドは、両親が共に幼い姫ばかりを構う姿を見て、構って欲しい一心で、小さな悪戯を何度も繰り返した。
初めは両親もそんなフロッドの悪戯にいちいち叱ったりなだめたりと、彼のために時間を割いてはいたのだが、姫が寝返りをうち、あちこちを動き回るようになると、それさえもやめてしまった。
構ってもらうことも出来なくなって、まだ甘えたい盛りだった彼は、妹姫を憎んだ。
 そこまでは、よくある話だな、とアーサーは思う。
シーザーが産まれたのも、自分が五歳のときだったから、気持ちは何となくわかる気がする。ただ、彼と自分の相違点は、産まれた妹が王位継承者であるということ、自分はその頃からすでに、悪い方へと精神的成長が進んでいたこと。もちろん、そんなことはおくびにも出さなかったが、その分五歳の子供がやってのけるとは到底思えない『悪戯』では済まないことをこっそりやっていた記憶がある。
まだましだ。あえて言うなら、自分よりは。
 「それまで、大事にされてたんだろう?」
「……だから、なんでしょうね。大事にされすぎて育ったから、急な環境の変化に対応できなかったんじゃないですか。おれは……弱いから」

 それから、妹姫……アクアと名付けられた彼女が物心つくまで、フロッドは教師たちと時を共有することが多かった。両親に構って欲しくても、次期女王の少女を溺愛していて、近寄れない。
そのまま、どことなく疎遠になって、結局、自分は愛されていないのだという結末に行き着いた。
それからは、坂を転がって行くだけだった。
今まで誉めてもらえていた勉学も、もう誰も誉めてはくれない。
次第に身が入らなくなり、授業を抜け出す、さぼるが当たり前になり始めた頃。

 彼は、妖精に出会った。

「妖精?」
「えぇ……妖精です。綺麗だった……」
淡く微笑むフロッドの瞳が、懐かしい過去を映し出す。
 淡い金の髪は、ふわりと波打ち、つぶらな瞳は空を写す海のような青。華奢な細い身体は、まだまだ小さな、幼女のもの。
森の中の、水の国を支える大きな滝の源流付近。
授業を抜け出して、いつものように森へ潜り込んだときだった。
清流をすくいあげ、喉へと流し込む姿を見た瞬間、フロッドは自分の時間が止まったような錯覚に陥った。
がさりと草の揺れる音に驚いたのか、幼女はぱっと振り返り、そして、自分と同じように衝撃に身を震わせ、固まった。
彼女の瞳に映る自分も、同じ色を持っていた。
それが、今だ出会ったことのない、自分の妹だなんて……誰が思うだろう?
妖精にしか見えない、儚げな美貌を持つ幼女の魅力に、フロッドは縛られた。
「……君の、名は?」
「……スイ。あなたは?」
「フロッド、だよ。……君、こんなところで何をしてるんだい?」
ぱちぱちと目を瞬く可憐な様子に、思わず笑みをこぼすと、同じように幼女も光り輝く水面の如き、愛らしい微笑を返した。

 それからも、フロッドとスイは、何度となくそこで語り明かした。
穏やかな午後なら、いつでもそこにいるらしいスイは、煌く微笑を浮かべて、身振り手振りを加えてフロッドに様々な話を聞かせる。
空が青い理由はなぜか、水が青く見えるのはなぜか?
森が涼しいのは、居心地がいいのは、なぜ森の何もないところから水が沸き出てくるのか? 幼い心の赴くままに湧き出てくる疑問を、フロッドは少しずつ解いてやる。
自分の少ない知識の中から、きっかけを少し与えるだけで、驚くほどの記憶力を発揮し、それを身につけていく幼女に、フロッドはいつしか、彼女が妹であるかのような錯覚を持っていた。

 「まさか、その話のオチって……」
「はは。その、まさかです。彼女は、アクアだったんです。スイは、幼名なんですよ」

 ある日のことだった。
出会いから2年……フロッドは授業を抜け出しては、スイに会いに行く日々を繰り返していた。
その日常は、突然破られるのだが。

 「王子ッ!! とうとう見つけまし……た……ッ姫様?!」
目の前にいた少女は、びくんッ、と震え、フロッドにすがりつく。
自分の教師がいきなり現れて、フロッドも驚いて声が出ない。ただ、自分を頼ってきてくれた少女を、かばうように腕に包み込む。
「……お二人とも、こんなところで何をしておいでですか。……さあ、帰りましょう今すぐに!」
十歳前後の二人の子供が、あっさり城へ連れ戻されたのは、言うまでもない。
 フロッドは、それから太陽が地に沈むまできりきりと絞られ、スイ……アクアも、厳重な注意を言い渡されたらしい。
兄妹であるはずなのに、なぜこれほどまでに離れて過ごさなければならないのか?
二年にも渡り親しく言葉を交わしてきた二人の関係は、一瞬にして壊されたのだ。しばらくは監視がつき、フロッドが脱走することもできず、アクアも今までのように散歩に出してもらえなくなった。
そこまで徹底して接触を阻まれた理由は、いまだに分からないが、それでも、フロッドの不満を募らせるには、十分な要素だった。

 「故意に切り放されて、おれたちはあれ以来、まともに言葉を交わした記憶もありません。遠巻きに姿を見かけることはあっても、そばに近寄れたことは、数えられるほどもありません。彼女に訊ねられることに答えたいと思ったからこそ、少しだけでも勉強に取り組んだのに。……目標が消えてしまうと、途端に意欲がなくなりました。自分の、スイによく似た顔だけが、彼女との繋がりだったんです」
自分の顔は、元々好きでしたけど、と苦笑するフロッドを、アーサーはぼんやり見つめていた。
 彼は、大切なことを、忘れている。
そんな気がした。

 「彼女より綺麗なものが、嫌いです。彼女との思い出を壊してしまうような気がするから。……もちろん、そんなことはないんですが、一度思い込むと、なかなか消えなくて……初めてお会いしたときは、本当に失礼しました」
初対面。
フロッドはアーサーに『女顔』と一言呟き、その夜見えないところを散々痛めつけられた経験の持ち主だ。そう言えば、初対面で失礼なことを言われたような気がするな、とアーサーは他人事のように思い……ふわりと、風に乗った甘い香りをかいだ。
「アーサー! 見て見てっ、ほら!」
無邪気に駆け寄って来たのは、裾にレースの飾られた真っ白なワンピース。
袖のないそれは、ディーネの透けるような肌をほんの少しだけこぼれさせ、残りは指先まで、シルクの手袋で隠してしまっている。銀の髪も相俟って、その姿はまさに、女神。
細い彼女の腕に抱きかかえられていたのは、色とりどりの薫り高い花。
「……元気な奴だなぁ……どこで取ってきたんだ?」
「その向こうに、お花畑があるじゃないの。そこよ? すごくたくさん咲いてたから、これくらい、大丈夫かしらって」
「……その向こうにある花畑……って、この馬鹿、それは、王宮庭師の育ててる花だ!! あぁ、ただでさえ植木に悪戯したり土掘り返したり、色々、いろいろ言えないようなことしてきてるのに、これをどう言い訳すればいいんだ? 花を摘むなんて、動物じゃできねぇぞ……あぁ、まずい、まずいぞ……!」
ぶつぶつと額に手を当ててつぶやくアーサーに、ディーネはむっと眉を顰めて、かろうじて使える左手を腰に当て、ぷいっと明後日の方を見る。
「アーサーと一緒にしないで頂戴。私はきちんと、そこにいたおじいさんにお願いしていただいてきたのよ。自分の国でもないのに、そんな、勝手なことできないわ。歌を一曲歌ったら、とっても喜んでくれて、好きなだけ摘んで行きなさいって仰るから、お言葉に甘えて。……アーサー、何笑ってるの」
くるくると感情の色が変わる少女に、アーサーは少しだけ笑って、あぁ、と頷く。
「ホントにお前は……歓びを運ぶ歌姫だな……」

 彼女はなぜこんなにも、乾いた心を、潤してくれるのだろう。
治りかけの傷を引っ掻いて傷つけて新しい傷を増やして……永遠に終わりそうもない自己嫌悪を、ゆっくりと時間をかけた優しさで癒してくれる。
思惑も何もかもを捨てて、彼女に惹かれているんだと、彼だけではなく誰もが思うその事実。たとえそれが他者に向けられたもので、彼女にとっては無意識のものであろうと。
 ……誤解してしまいそうで怖い。

 「ディーネ、俺がこれから言うこと、間違ってるなぁと思ったら、止めてくれ。そのへんに座って、聞いててくれるだけでいいから」
ほんの少しだけ緊張の色を滲ませた表情。唐突なその言葉は、今までその場にいなかった彼女に、完全な理解を求めて言ったものではなかった。彼女はアーサーの言葉に従い、そばに都合よくあった切り株に腰掛ける。ふわっと舞う銀の軌跡と、甘い香りを目で追いかけて、それが落ち着くのをきちんと確認すると、フロッドへと視線をやる。
 「……結構痛いこと言うと思うから、覚悟してくれよ」
「はい。ありがとうございます」
微笑んで頷いたフロッドに、あぁ、こいつは本当は、素直な表情が出せる奴なんだ、とアーサーは苦笑し……怒涛のように溜まっていた言葉を吐き出した。
「いいか、だいたいなぁ、お前、思い込みが激し過ぎる。ついでに言うなら、諦めが早い。物に強く執着しすぎないのはいいことだが、諦めが早いのはよくないぞ。それは、自分を見くびってんのと同じことだ。出来ないと思ってるからやらない。……お前はその部分を絶対誤解してる」
諦めるのは、物事から逃げている証拠だと、アーサーは思う。
「確かに、引き際が肝心だ。これを失敗すると、後々痛い目を見る。だけど……だけどな。的外れな推量に惑わされて、自分可愛さに諦めて、そのあと自分に何が残った? 後悔、苦悩、不安……自分はそれでよかったのか、と自問して、すぐにあぁよかったと答えが返せるならば、それはいいタイミングで退いた証拠。だが、もし……一瞬でも自分への問いに躊躇ったら。それは、早過ぎたってことだ」
お前は、言えるのか、と真っ直ぐな視線に問われて、フロッドは硬直した。

 「……言え……ない。おれには、言えない……。どうしてあのときもっとスイを追いかけなかったのか、監視を振り払ってもあの子の元へは行けたのに、その姿が見えれば走って行けたのに、もっと理由を追求していれば、もしかしたら今でも、以前のように言葉を交わすこともできていたかもしれない……」
溢れてきた言葉が、止まらない。
アーサーも、それを止めない。
そして、彼女は。
「……いいと、思うの。それが解れば」
甘く澄んだ声で、微笑んだ。
「今まで解らなかった事が解ったのだから、それが、アーサーのきっかけで解ることが出来たのなら、あなたはまだ大丈夫。やり直せるし、まだ頑張れる。失敗なんて、誰でもするものよ? でも、せっかく気づけたのに、その失敗にいつまでも引っかかっていたんじゃ、いつまでもそこから踏み出せない。一歩出る強さがあれば、きっと……」
フロッドが息を飲む。
アーサーも、言葉を失った。
愛らしい小さな唇からこぼれ落ちようとしている言葉は、鋭利な刃物となって彼に突き刺さることだろう。
知らないことは、罪か、そうではないか。
固まってしまったフロッドに、小首を傾げ、微笑みかける様も愛らしい彼女が、口を開こうとし……アーサーは、それを捕らえた。
「もういいから。聞いてろ?」
今までになく、優しく微笑んでみせた。そっと触れた頬への口づけに、歌姫の頬が朱に染まる。
「……今は、ない。図星だろ」
そして、唇から滑り出した言葉は、元からあった傷を抉るような、冷たいものだった。
「あ、あなたはっ……!」
「痛いこと言うぞと、前置きした。結局止めを指されるなら誰でも同じだろう? 歌姫の無知にやられたかったか? もしそうなら悪いが、俺はこいつに、そんなことさせない」
抗議の声を上げるフロッドが、ぴしゃりと切り捨てられる。
微笑んだ瞳そのまま、アーサーの声は辛辣さを増していく。
「妹に会って、どうしたい。もう、妹はお前の妖精じゃない。そんな歳も過ぎてるだろう。お前は、どうしたいんだ?」
妹に会って。その先は。

 沈黙の、中。
ぽつん、と言葉が響いた。
「見えない……違う、見て、いない……」
ぽつり、ぽつりとフロッドの声が染みる。
「おれは、スイに会いたいとしか考えていなくて……その先の目標とか、そういう、自分の目指すものは全然頭になくて……ただ、昔が取り戻せれば、それで昔のような自分も戻ると思ってて……それで……」
「お前の悪いところは、そこだ。お前が変わったように、妹も変わったとは思わなかったか? もうお前の妹は、お前の知ってる妹じゃないかもしれない。どっちにしろ、子供のときから変わらずにいる女なんて聞いたことないね。女は化ける。いつまでも無邪気な子供じゃない。むしろ、お前みたいに悪い方に転がってる可能性だってある。……さぁ。お前は、どうしたいんだ?」
微笑んでやる。
上げた顔には、強さを秘めた瞳が。その青い双眸がこちらを見つめてくる。
彼が己へと問い掛ける声が、聞こえた気がした。
 自分は何をしたいのだろう?
 ……次代の女王のために。
「おれは……あの子のために、何かしたい。女王として責務を果たさなければならない彼女に、彼女の兄として、彼女のために何かしたい。……おれに、何か出来ることがあるのなら」
決意と共生するのは、己の存在の軽さゆえか。淋しげな微笑みに、アーサーは、瞳をすぅと細める。
やはり、危険な刃物のような、剣呑な色を帯びていることだろう。彼に向かって、言葉を吐き出した。
「阿呆!! その気持ちがあるんだったら、自分が今何しなきゃいけないのか、分かるだろ?! 自分の実力やレベルは関係ない。自分が何をしたいから、どうしなきゃいけないんだ? たったそれだけ……難しい、けど、とても簡単なことだ」
唖然とアーサーを見つめるフロッドが、しばらくして、はっと息を飲んだ。
静まり返っていたその空間に、ふっと一瞬、音が甦る。
「……一歩、踏み出せば、いいんですね?」
答えを再確認する生徒のように。
真っ直ぐにアーサーの方を見て、答える。
「おれが、一歩、踏み出せばいいんだ。違う方へ進んでしまったのを、引き帰して、また別の道へ進む……ただ一歩を踏み出せば。悪い方へ転がってしまったなら、おれと一緒に引き返せばいい。いい方に進んでいたなら、俺はその後を追いかけて、追いつけばいい。諦めたら……そこで、全部終わるから」
はっきりと一言。
「おれは、自分のためにも諦めちゃ、いけないんだ……」
にっこりと微笑んで、ぽつりと。
真っ青に澄んだ空が、雨を一粒落とした。

 「じゃあ、大丈夫だな?」
瞳に留めた剣呑さもそのままに、アーサーは、念を押すようにフロッドに問う。
「もう、大丈夫です。聞いてくださって、ありがとうございました」
「……あ、あのっ!」
自然な笑顔で礼を告げたフロッドに、アーサーも同じように微笑み返した瞬間、甘い、柔らかな響きが耳朶を打った。
「……ディーネ、どうした?」
「歌姫様?」
「……あの、その。ごめんなさい!」
金の髪の、少年、に近い彼に向かって、やや距離を置き、力一杯お辞儀をした彼女に、頭を下げられた本人はひどく焦ったようだった。
世界の宝である歌姫に、何がこんなことをさせたのか……
「……何がですか?」
心底分からない、という困惑した表情で、フロッドが近寄り、手を差し出す。
顔を上げながらその手を取って、淡く涙の滲んだ瞳が、空色の瞳を見つめ返す。
「……私、あなたを傷つけました。知らないのに、勝手なことを言って。ごめんなさい……」
だんだんと膨れ上がる潤んだ瞳。耳に残る甘い囁き、魅力溢れる声に、彼は淡く微笑んだ。
「構いません。そのおかげで、俺は気づけたのだから。……でも、ひとつ、お願いを聞いてくれますか?」
「えぇ、私に出来ることなら、何でも」
ぱっと表情が明るくなった歌姫に、フロッドは優しい笑みを浮かべて、願う。
「あなたのその声を、歌を。どうか、祖国のみんなにも聞かせて欲しいのです。もちろん、この会合が終わった後、疲れが癒えてからで構いません。歓迎いたしますよ」
 アーサーも、一度は拒絶した声。必要ないんだと、否定した声だ。
けれど、彼も同じなのだろう。今は、素直にその素晴らしさを認められる。欲しいと思う。
世界の各地にたくさんいるだろう、悩みを抱えた人が、疲れを貯めた人が、心を病んだ人が、救われるだろうから。
もちろん、もちろんですわ、と満面の笑みで頷くディーネが、繋いだ手を上下して喜ぶ。
その笑顔につられて、整った顔が甘い微笑みを浮かべるのを見、アーサーはむっと眉を顰めると、ぱしんッ、と二人の手を振り払った。小さい方の手をつかんで、引っ張る。
「え、ちょっと、アーサー?! 何、やだ待って、お花っ――」

 歌姫の悲痛な叫びも無視して、彼女を引きずるような勢いで走り続けるアーサーの後ろ姿に、フロッドはくすくすと笑いながら、彼女の置いていった花束を抱き上げた。

 見上げる空は、いつの間にか青く澄み渡っていた。




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王子様たちと私 深く染みる森・挑戦とは