王子様たちと私 力量られる武道場・己について
<< text index story top >>



 そよぐ心地よい風は、室内になかなか姿を見せない。ただ、木々の葉を揺らし、その存在感を主張する。こんなにもこちらは求めているのに。からかうように辺りを揺蕩うそれが、疎ましい。

 「……お前たち、か弱いな」
甘えも気の緩みも一切を許さないだろう、厳しい、しかし強い意志を感じさせる低い声。
板張りの武道場に、その声はよく通った。
事実を事実のまま告げるその言葉に、アーサーは苦笑する。
 当人たちは、オークの言葉に言い返したくても、さっきまで取り組んでいた腹筋……しかもたったの二十五回のおかげでそれだけの力が残っていないらしい。オークでなくとも、呆れるほどのひ弱さだ。

 なぜアーサーたちが武道場に集合しているか。それは、今朝まで遡る。
そう、そもそもオークと、彼に引きずられるような形で連れられているブレスとフロッドに出会った時、なんのために武道場など、と訊き返したことが間違いだったのだ。
気がつけば、二人のへなちょこ王子を鍛えなおして、せめて人並みに……というオークの思惑にあっさり引っ掛かってしまっていた。
 顔を赤く上気させてへばる二人の王子たちを尻目に、アーサーは一人離れて腕立て伏せを続ける。いいかげん飽きるほどの回数を経ているが、尊敬するオークの言付けでは、何の反論も出来ない。しかも、
『お前は、早さがある分、一撃一撃に重さがない。この間のような危うい太刀では、次の会合で俺には勝てないと思え?』
などと、常日頃から思っていた弱点を引き合いに出され、重ねて今回のまぐれの勝利を指摘されては、彼の言葉に従うしかない。
何だかんだと言いながら、アーサーは木の国の王子を兄のように慕っている。
 ディオネは、王子たちの苦労をよそに、武道場の引き戸を全開にして、そよぐ風と蝶、小鳥たちと戯れ遊ぶ。さすがに彼らに混じるわけにも行かず、少し退屈そうだ。小鳥を侍らせ、蝶を纏わりつかせてぼんやりこちらを眺めている。
その様子を見上げた微妙な角度のせいか、アーサーの伸びた漆黒の髪から、汗が滴り落ちた。

 襲い来る疲労や苦痛に、精神的な弱さが重なった時、人は成長を終える。
どこかで、そんな言葉を聞いたような気がする。
人は、自分の弱さに打ち勝ってこそ、真に強くなれるのだと、誰かから。
それは一体、誰だったか。
アーサーは、腕の痛みを必死に堪えながら、尊敬するかの人へ目をやった。
シャツ越しにも分かる、鍛え上げられた体躯。男らしい精悍な顔立ち。肩幅も広く、完全な形を描く長身。
まさに、男なら誰もが焦がれる、理想通りの姿がそこにある。

 ただ、それは……どうやら、彼にとってあまり重要なことではないらしい。
その身体、武術の腕、頼り甲斐のある心の強さ、兵から慕われるだろう人望。
これほどまでに、誇れるものを持っているにも関わらず。
なぜあの人の瞳は、あんなにも不安げにゆれるのだろう?
不思議で、分からなくて。その理由が知りたくて。
アーサーは幼い頃から彼に付き纏っていたが、彼は鬱陶しそうな顔一つ見せず、そばにいてくれた。
 その変化に気がついたのは、身体が急激に成長し始める十四・五歳くらいだろうか。
剣術や柔術の稽古をつけていてもらった時の、ふとした瞬間に、気づいた。
彼はただ、不安げに、時折何かを耐えるように、複雑な表情で。それ以外は何一つ変わらず自分の稽古に付き合ってくれていた。
そして、彼の表情が自身への侮蔑であると気づいたのは、記憶に新しい。
疑問は、尽きない。
彼がなぜ自分を貶めて考えるのか。
どうして胸を張って歩かないのか。
彼は、それに値する人間であるというのに。
なぜ?

 「アーサー、無理しちゃ駄目よ。それって、意味あるの?」
「……自分の限界を試すのもいいが、無鉄砲は、身体を痛めつけているのと同じだ。気をつけろ」
額にある冷たいタオルの感触。心配そうに覗き込む歌姫の顔。
そして……いつもの複雑な表情でこちらを見下ろす、オーク。
 そんな目をしないで。
どうか。あなた自身の素晴らしさに、あなたが気づいて。
ただ浮かんでくる漠然とした思考に身を任せ、アーサーは目を閉じた。

 言いたいことが、たくさんある。
今頃、その事実に気がついた。

 けれど。
……言えない。
あの人に……嫌われるのは、怖い。
本音をあの人が受け止めてくれなかったら。
その言葉を否定されたら。
きっと、二度と先には進めない。

 じわり、じわりと。澱のように溜まった思いに、息がつまる。
身動き取れずにもがいて、精一杯で先に進もうとして。
 目を開ける。
しかしそこにはもう、オークはいなくて。
「……ねぇ、アーサー」
かわりに、全身を焼くような切ない声が、そばで響いた。

 「私、思うんだけど……あ、先に言っておくわ。私たぶん、これからすごく自分勝手なこと言うと思うの。聞き流してくれていいから、忘れてくれていいから、少しだけ聞いて?」
苦笑する彼女の肩に、小鳥がとまっている。先程までまったく吹き込んでこなかった風が、彼女の髪を揺らすためだけにそよいでくる。
仄かな揺らぎにうっとりと目を瞬く彼女の声が、聴きたいと思った。
目を閉じたアーサーの動きを肯定と取ったのか、彼女は囁きで言葉を紡ぐ。
「人間ってね、言いたいことを押さえ込むでしょう。……これ、シングの受け売りなんだけど。我慢って、すっごく身体に悪いらしいの。無理に禁煙したり禁酒すると、逆にストレスが溜まって反動が凄くなるのとか、いい例で。気持ちもね、同じなんだって。純粋な気持ちが、言葉にしないせいで捩れて、まったく別のものに変貌しちゃうことが、あるって。思いが強ければ強いほど、反動は大きくなるの。だから……アーサーは今我慢してること、言わなくちゃ。言いたいことが、最初とは違うものに変わっちゃうのよ? 変わったら、もうそれでお終い……その時言いたかったことが相手には、歪んで伝わるんだから。アーサーは、それでいいの?」
彼女には……分かっているのだろうか?
自分の伝えたいこと、伝えたい人を。
こんなにもすんなりと、今の自分に必要な言葉をくれる彼女は。
 いや……どちらでもいい。
今は、自分がどうするべきか。
彼女の知っている自分ならどうするか。
そう。
答えは、もう出ているのだ。

 「ありがとな。ディーネ」
「なんのこと?」
苦笑する彼女に、こちらからも笑みを返して。
アーサーは、武道場を飛び出した。

言わなければ。
このもどかしい連鎖を解いて。

 武道場のそばの水場、木陰の下。
その人は、ただ黙々と木刀を振るっている。
その姿が、あまりにも彼らしくて。
小さく、決意の吐息を吐き出した。
「……王太子、どの」
声量は、控えめ。いつだったか、彼女に教わった、声の力を押さえる方法。
「……どうした」
「王太子どのは、俺のことが嫌いですか」
単刀直入に。簡潔に。
「……アーサー?」
「答えてください。王太子どのは、俺が嫌いですか?」
「嫌いではない。いきなり、何を言い出すんだ?」
……嫌いではない。それは、肯定であり、否定。
「では、俺のことを好いてくれていますか」
ほんの少し顔を顰めたのが見えた。そして降りてくる、沈黙。
もちろん、予想はしていた。嫌われてはいないだろうが、好かれてもいない。
何の感情を抱く価値もないと思われているのか、それとも。
持ち上げられたオークの顔には、やはりあの得体の知れない感情が浮き上がっていた。
どうして。
正体がはっきりしない、中途半端な現状にイライラする。
 吐き出してしまっても、いいのだろうか。
喉につまっているこの言葉を、ぶつけても……いいだろうか。
立ち止まってしまいたい。このまま、振り返ってこの場から抜け出せば、元に戻れる……いや、戻れない。
ここまで来て、もう、後戻りは出来ない。
息を吸い込んで、唇を開く。
「俺は、王太子どのを尊敬しています。王太子どのは、俺の目標で、理想で……こんな兄貴がいたら、どんなに誇らしかったかと、何度も思いました。……王太子どのは、自身のことを、どう思ってらっしゃるのです。いつもなぜ、下を向いて歩くのです? 俺と並んで歩いてくれないのは、まっすぐ目線を合わせないのは、なぜ……!」
焼けるような陽射し。背中を流れるのは、冷や汗。
目の前にいるオークが、まるで別人に見えた。
「……よく、抜け抜けとそんなことが言えるな」
「え……」
浮かぶ感情は、憎しみ、妬み、悪意……。

 「お前には、分からない。俺には力しかないんだ。外見の良さも、取り柄もない。武術しか出来ないような俺のことを、お前が理解できるというのか? 笑わせるな」
手にしていた木刀を投げ捨て、木陰にどさりと倒れ込むように座ったオークを、アーサーは信じられない気持ちで見つめていた。
「俺には、誰もに認められるものなど、武術以外、何一つ持っていないんだ。何もかもを持つお前に言われることなど、何もない」
明らかな拒絶に、アーサーは一瞬の絶望を見た。


 最初に出会ったのは、いつだったか……確か、アーサーが物心つく前だったような気がする。
その頃の自分には、汚い感情など欠片もなかった。ただ、兄弟姉妹もいない一人きりの生活から抜け出せるようで、後ろをついて回るアーサーがとても可愛いと思ったことを憶えている。
 次に会った頃には、もうアーサーは一人ではなかった。
弟のシーザーがいて、たくさんの人々に囲まれ、愛されていた。
そして、その容姿。
回りの人間と比べるまでもなく、愛らしく、透明感のある美貌は、すでに開花して輝いていた。骨格は少年のそれだが、華やかさは女性に劣らず、存在自体が非常に中性的だ。性別を感じさせないというのは、こういう事なのだろう。
しかも彼は、たくさんの人々の中心にいるにも関わらず、離れた位置から眺めていただけの自分の姿を見つけ、そこから飛び出してきた。
何も考えずに、自分を慕ってくる。
剣を習いたい、と言う。
あなたのように強くなりたい、とも。
それが耐えられないほどにわずらわしいと思い始めたのは、いつ?

 皮肉なことに、この木の下。
ちょうどアーサーが十歳を迎えて、ようやく剣が持てる年になった頃。
一人で型の練習をしていた自分に、ちょうど通りかかったアーサーは言ったのだ。
『綺麗だ……』と。
その瞬間に、自分の中の様々なものがどす黒く変貌していくのを見た。
嫉妬、羨望、嫌悪。
どろりと濁った、忌むべき感情が、抑える間もなく溢れ出す。
彼にとっては、純粋な感情なのだろう。
ただ、自分が受け入れられなかっただけ。
それを……彼のくれたままの感情を認められなかっただけ。

 ……アーサーを信じられなかった、だけ。


 その頃、アーサーのまわりには様々な人間がいたが、アーサーは彼らのことをあまり歓迎していなかった。
第一王子である自分を、どう味方につけるか。
そんな感情しか見せない彼らに、子供らしい面は決して出さず、凛とした強さで対峙していたアーサーは、侍女にも親族にも、欠片たりとも甘えた態度は取らなかった。
ここには信じられない人間しか、いない。
頑なにそう信じるアーサーに安らぎを与えるのは、五歳離れた弟と両親、他人にして唯一アーサーに受け入れられた、オークだった。
 数えるばかりしか会ったことはなくても、燃えるような紅い髪や、優しい木々を思い出させる榛色の瞳や、がっしりした、自分と正反対の体躯、大きな手。
時折覗かせる小さな優しさが、見返りを望まない心配りが、自分を、ただの子供として接してくれる態度が、嬉しかった。


 彼に告げられた言葉が、痛い。

 ただ、自分が続けられる言葉はほんの一握りしかなかった。
「……それでも俺は、あなたを尊敬しています。何と言われても、否定されても。俺にはあなたが、ただ一人の目標で、理想だから……俺の言葉を信じてもらえなくても、今こうしてはっきりものを言うあなたの潔さを、尊敬しています。あなたの部下たちがあなたに忠誠を誓っている事実を、街の者からも慕われるその人望を。……俺のように、間違わなかった、あなたを」
そう……自分のような、間違いを犯さなかった彼を。
状況は多少違えど、やはり同じような環境にあっただろう、彼を。
たった一人で、それを乗り越えた彼を。

 唐突に、すとん、と感情が落ち着いたのを感じた。
「……ははっ」
渇いた笑い声がこぼれる。
あんなにも暴れて溢れてしまいそうだった負の感情は、気がつけばすべて凪いだ海のように落ち着いて、違和感も何もなく受け入れていた。

 思い当たることなど、山ほどある。
アーサーが『強くなりたい』と言い出した頃を、思い出す。
街の人間には『狂王子』と恐れられ、親族からもいい顔をされず、しかしそれらを笑顔と一声で一蹴していた少年。
剣術と柔術を教えてくれと強請られた日、侍女から、親族たちから、王宮兵から、口々に漏らされる控えめの噂。
包み隠すように婉曲な言葉で綴られるそれは、裏を返せば罵詈雑言の嵐。
けれど、それが嘘ではないと言うことも、薄々感じ取っていた。
アーサーは笑うのだ。
何があったとしても、それら全てをなかったことにして。
自分の中に閉じ込めてそれでお終い。
消化されることもなく貯め込んでいるだろう様々な感情を綺麗に隠して、自分に笑いかけていた。
 弟のシーザーや、両親にしか許していないらしい本心は、自分にも言えないほど荒んでいたのかもしれない。
第一子の環境。
自分でも気が狂いそうになったあの日々を、彼は笑顔で封印していたのだ。
 たったそれだけで。

 それから先も、アーサーの噂は絶えなかった。
その内容の変化は激しかったが、必ず聞くフレーズはいつも同じ。
『あんなにお綺麗なのに……』
それは、縛め。
アーサーの存在意義と、意味を縛る鎖。
美しさと引き換えの、拒みたくても拒めない強固な罠。
彼はそれに、理由もなく囚われていたのだ。

 そんな彼を、ただ否定し、こちらの固定観念で勝手な印象を信じ込み、彼を見ようとしていなかったのではないか。自分自身で理解することを拒んでおきながら、よく言ったものだ。そんな自分に『それでも』と言葉をくれたアーサーが、今になって嬉しくなった。
気分が晴れる。
 悩みは、ない。

 「……悪かったな、今まで」
「え……」
さらりと口から滑り出てくる、謝罪。
信じられないくらい柔らかくなっているだろう表情に、自分自身が戸惑う。
ただ、今まで彼がくれた素直な反応を、自分も返したいと思った。
「結局俺は、お前に全てをなすりつけて自分を正当化していただけの、子供だったってことだ。この年で情けないが、自分自身を信じてやれなくて、自信も持てなかった。あぁ……もちろん、今もそれは変わらないんだが」
普段よりずっと自然に、笑みがこぼれた。
「お前がそう言ってくれる限り、俺は俺なりに、お前の評価に見合う人間であろうと、努力することにした」
漆黒の闇に、光が指した。
悲しげな曇った表情から、一気に明るく華やかな雰囲気を宿し、笑みの形で細められた。

風は、吹く。
望むべき勢いで、緩やかに。
爽やかな優しいその揺らぎに、明るい笑い声が響いた。




<< text index story top >>
王子様たちと私 力量られる武道場・己について