王子様たちと私 月の見える夜・嘘とは
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 月は……やや欠けた半月。淡く、わずかに黄金を含んだ銀の月光が、さらり、ゆらりと降りそそぐ。静かに人々を見下ろす女神は、そこに何を求めるのだろう。

 窓辺は、灯りに頼らずとも明るかった。
月はまだ満ちていないにも関わらず、美しく光り輝いている。
月光は彼女の髪に溶け込んで、ますます眩しい一条の光へと変化する。
隣りに存在があるということに、不思議な気持ちを抱きながら、彼は小さく呟いた。
「……よし。セット」
かつん、としなやかな指が黒い駒を動かした。
「……甘いね」
とん、と白い指が黒の駒を取り、白い駒と置き換えた。間髪おかずの厳しい攻撃。予想していたとは言え、一瞬息を飲む。
「……相変わらず、根性の悪い攻め方をなさいますね、ブレスどの?」
顔を上げ、満面の笑顔を浮かべたのはアーサー。
「……そう言いつつ、最終的にはドローまで持ち込ませるあたりがとてもお上手ですね。殿下?」
顔をボードに落としたまま、表情すら変えずに呟いたのは、ブレス。
「どうぞ。殿下のターンですよ」
「……ええ、分かっておりますよ、もちろん」
馬をかたどった黒い駒は、王妃を守るように動き、塔をかたどった白い駒は、ボードの上を滑るように動く。
「……アーサー、どうして今そっちに動かしたの?」
耳元で、気が抜けるほど体の奥まで染み込む甘い声。力を、魅力を宿した声。
それは一瞬緩やかにその場へと揺蕩い、すぐに風のように消えた。
思わず本当のことを喋ってしまいそうで、アーサーは必死に口を噤む。
「あのな、ディーネ。言ったらこのゲームは負けるんだ。すごろくしてるわけじゃないんだから。またあとで部屋に同じもの一組持っていってやる。その時にな」
「……ふぅん……」
談話室でアーサーとブレスが繰り広げている静かな戦いの舞台は、たいして大きくない縦横8マスずつの碁盤の上だった。大理石の盤、黒の駒は光沢のある黒曜石、白の駒は滑らかな象牙。非常に贅沢に作られたそれを使ったゲーム……ダースにてお互いの性格の悪さを確認し合うのは、もはや会合でのアーサーとブレスの決まりごとだった。
多少、用途が間違っているところがなんとも言えず馬鹿らしいが、自分たちに限っては意地の張り合いが長じてそうなったため、誰一人として文句など言わない。いや、言えない、のかもしれない。
 しかも、自分たちの対局は、見ていてさっぱり面白くないのだ。
目的が『相手をどれだけ悔しがらせるか』で、勝敗をつける必要は全くないからだ。
むしろ、勝敗をつけるつもりがない、と言ってもおかしくない。
アーサーはわざと駒を多く取らせ、あとからいきなり攻めたてるという一番リスクが高く、しかしやられると非常に悔しい思いをすることになる手を使うし、ブレスは反対に堅実に駒を進めたかと思うといきなり大胆な手で強い駒を取り尽す、などという意地の悪いプレイが上手い。普通に対局すればそれこそ決着はつかないだろうが……だからといって、決着のつかない対局を見ていても何の意味もない。
オークとフロッドは、それを身をもって知っているため、談話室に来ないかという誘いは断って現在この場にいない。
たいへん、賢明な選択だ。
 そのかわり、今は彼女がその場にいた。
顔合わせのあと、アーサーは『お詫び』と称して乗馬に連行し、怯えるディーネを強引に乗せ、散々走り回り、その後国王との昼食の席で歌姫は父王に歌を披露し、その場に居合わせた何人かの従者を失神させた。
昼食後は部屋でおとなしく読書などにいそしんでいたようだが、先刻……夕闇が降りる頃『面白いゲームをするんだが見にこないか?』と誘い、現在に至る。
「……全然、わかんない」
ふぅ、と息を吐いて、彼女は可愛らしく頬杖をついた。


 「……ん。ヤバ」
「……ふふ。そろそろ、決着かな?」
「……どうして今まで終わらなかったのかしら?」
最初の王手がかけられてから、約半時が過ぎている。
すでに駒は両者の『王』と『王妃』、そして白の『術師』、黒の『王城』だけが盤の上で動いていた。一進一退とは、このことだ。
膠着状態のまま、戦況は全く変化なし。
ますます面白くなくなっている。
アーサーの隣り、もはや何も言うまいと決心したディオネは、気だるい空気の中欠伸を噛み殺す。
そんなディオネを横目に、盤上に視線を注いだままのアーサーが、何でもない事なんですが、と唐突に口を開いた。
「ブレスどの、質問があるのですが。よろしいですか?」
「……内容に、よっては」
先程まで無表情に盤を見つめていたブレスの瞳が変わる。
つまらなそうな、鬱陶しいものを見るような目。
何が彼をそうさせるのかは、分からない。ただ、その変化は一瞬。
その変化をとらえたのか、アーサーは闇色の瞳に挑むような色を加えて、声を紡ぐ。
抗いがたい魅力を備えた、意識を掻き乱す声。
「……人はなぜ、真実のみを話せないのでしょうね。必ずどこかに小さな嘘を交えて話してしまう、その瞬間、相手に対する裏切りが起きるのに。それに、気づく人が少ないのをいいことに」
ゆっくりと、顔を上げたのは彼。目の前で、感情を見せないよう表面を塗り固める彼。
 ふと、意識の上を滑ったのは微か。
ディオネは、思わず顔を上げる。
感じた、その思いは、後悔、悲しみ、怒り……。
それを、持っているというのだろうか。彼は。
ひた隠しにした、強い感情を。隠さなければならないような環境で育った、過去を。
目の前にいる、わずかに触れた彼の意志に、物悲しさを覚えた。
「……なぜ、と問う必要は、あるのでしょうか? それは、人として無意識のものでは?」
退屈そうな口調とは裏腹に、瞳は、先程までの無関心さを感じさせない、何かの感情を必死で隠し、押さえ込むような……作り物の無。
「無意識のものであれば、その嘘を交えたあと、嫌な後味の悪さや、後悔を感じることなど……有り得ないと、思うのです。ブレスどのには、そんな経験は……おありでは?」
アーサーが彼に向けるのは、他意のない表情……しかしそれも、上辺に作り上げられて、そう見せているもの。
感情を表に出すことに、躊躇いのないアーサーでさえ、今はこうして偽っている。
 何が原因でそうなるのか、ディオネには全く分からなかった。
「……人は、真実の全てを他人に語る勇気も、それによって得られると誤解している何かも、とうに失ったと……ただ、それだけでしょう。人は、弱い生き物だから……」
面を伏せ、盤のみを凝視するブレスの瞳が、ゆっくりと感情をこぼしはじめる。
「俺は、真実を語ることは厭わない。それによって得られるものが確かに存在することも知っている。ブレスどのの経験では……その時のお相手は。すでに失っていたのですか?」
 ぐっと、握る指先に力がこもり、白くなった。
「確かに、俺も嘘をつきます。それも、とても大きな嘘を、たくさん。相手が気づかないのをいいことに、いくらでも、誰にでも自由について見せます。それによって、自分が有利になるのならば……いくらでも。誰を傷つけても」
淡々と語るアーサーの横顔をそっと見つめながら、ディオネは思う。
嘘が得意なのは、事実だろうけれど。
彼の瞳は、嘘をつくことを、躊躇ってはいる。そこまでする必要はあるかと、疑問を抱いている。
それなのに。
 彼は嘘をつくという。
ディオネには、嘘をついて有利になるという道理自体が分からない。
嘘をつくと言うことは、自分に必ず帰ってくることを自覚した行為だ。
人を、騙すと言うことだ。
いいことがあった記憶など、一つとしてない。
確かに自分も何度か小さな嘘をついたことがある……花壇の花を折ったのは誰か、とか、お菓子をつまみ食いしたのは、とかいった本当に小さなことだが……それでも、あれほどきつく『嘘はいけません』と怒られたのだ。アーサーの言う嘘など、自分の想像の範疇にはない。
 難しい。
「……やはり……長子というものは、そうなのでしょうかね」
小さく呟かれた言葉は、聞き取れなかった。
アーサーは特に気にした風もなく、続ける。
「嘘は、駆け引きに繋がります。自分が有利になるよう、相手を引き込む一種の技術です。それがどれほど真実に近づいて見えるかで、自分にもたらされる利益も増えますし、跳ね返ってくるリスクも小さくなります。上手く嘘をつくと言うことは、自分をどれだけ誤魔化すか、自分をどれだけ偽った自分に近づけて見せるか、が大切なんですよ」
なぜだか、アーサーは楽しそうではなかった。
先程とは打って変わって、にこりとも笑わず、ただじっとブレスを見つめ、言葉を吐き出す。そんな感じを受ける。
「そしてそれは、嘘をついた相手だけで効力をとどめません。回りの人間全てに広がり、様々な駆け引きのために必要な伏線となります。ですが……その嘘があるからこそ、守れるものもあるのです。嘘が、傷つけるためにだけあるのではないというのは……皮肉なことに、気づかれにくい事実ですからね。そんな嘘の使い方をしたことのあるものだけが、知りうる、事実ですから……」
彼の言葉は、剣だ。他者のみならず、自分にも跳ね返ってきて傷つける、諸刃の剣。痛々しいその行為に、ディオネは眉を顰め、そして。
「……アーサー、どうしてそんなに上手な嘘がつけるの?」


 独り言のように囁かれたディーネの言葉に、アーサーは首を傾げる。
「だって、アーサー、嘘をついてもバレないんでしょう? ……私なら、どんなに小さな嘘をついても、必ず皆に気付かれちゃうのに……。どうやって、上手な嘘をつくの?」
だって私、嘘をついたらすぐに「今嘘ついたでしょう」って言い当てられちゃうのよ、という呟きに、思わず苦笑する。固まっていた意識が、ゆっくりと和らいでいくのを感じる。
「そりゃあ、丸分かりだからだろう。表情に出過ぎなんだよ。お前は……そういう奴だから」
 そういう……曲がったことには、染まらない存在だと思うから。
恥ずかしい台詞だ、と思って、全ては言えなかった。
だから……『そういう奴』と言った。
なのに。
「そういうやつって、何? 嘘つくのが上手には、ならないってこと?」
頬を膨らませて、拗ねたような顔でこちらを見つめてくる、彼女。
どうやら、彼女には嫌味も、ちょっとした謎かけも、全く分からないらしい。
 これじゃ、隠した意味もないなぁ……。
つい、ため息をついて。
突っかかってくる彼女をさらりとかわすように、どうだろうな、と答えたアーサーの視線は、ブレスに向かう。
こぼれ感じるのは、わずかな、押さえ込まれた怒り、憎しみ。
たった三回の会合。時間にすれば三ヶ月もの時間を共有した。それで、分かることはたくさんある。
特に、アーサーは人の感情の変化には敏感だったから。
「……あなたは……」
「俺を誰かと重ねるのはあなたの勝手ですが。謂れのない八つ当たりはごめんです。あなたの中にいる俺と重なる誰かと、俺は全くの別物。それすらも分からなくなるほど、誰かに狂わされてきたのですか? 自分のことを、壊されてきたのですか?」
皮肉な微笑みを浮かべて、アーサーはつい、と指を動かした。
つかんだのは王妃。
「……セット」


「……っと。ほら、これで満足か?」
この狂王子を捕まえて、力仕事をさせたのは……おそらく、世界で彼女と、アーサーの溺愛する弟のシーザーくらいだろう。
あー疲れたー、と本当は疲れてもいないのにソファーに腰掛け、わざとらしく主張したアーサーに、彼女は微笑んで水を注いでくれる。
「ごめんなさい。本当に、ありがとう。私一人では絶対無理なんだもの。アーサーがいてくれなくちゃ、どうにもならなかったわ」
グラスを受け取り、一気に飲み干すアーサーの正面に座って、流れ落ちた髪の一房を、優雅にかき上げたディーネに、ふっと目を細める。
 小さな動作が色っぽい。
これだから、彼女を見ているのは楽しい。
 こんな感情を抱いているアーサーに、彼女は自室へダース一式を運ばせた。約束通りに『普通の』プレイをしていくうち、彼女はこのゲームの虜になった。目をきらきらと輝かせて、何度負けても『もう一回するの!』と言って聞かない。その表情と声に抗えず、しかしアーサーはいい加減疲れていた。
「……俺もそろそろ寝たいんだが……それとも、ここで寝てもいいか?」
『ディー! 早くこの男を追い出せ!! 何を考えてるのかまる分かりだ、身の危険が迫ってるんだぞ!!』
ふわりと現身で現れた“光の歌”に、彼女は生返事で答える。指は、盤上の駒の上を行ったり来たり。
「うん……そうなの、このままじゃあと三手目にはセットが……。このままじゃ、危険よ、確かに……でも……うーん……」
『ディー……自覚してくれ……』
正面でにやにやと笑み崩れるアーサーを認めつつ、この厄介な保護者は、額に手を当て、深くため息をついた。
「……箱入りだから、教わってないんだろ? しょうがないんじゃないか?」
『ディー……』
そして、まだまだ盤から顔を上げる気のなさそうな歌姫に、小さく泣き言を言った。
『どうして、この男なんだ』 何やら、いつも以上に本気の色が見え隠れする彼の整った顔に、アーサーははっとして声を荒げる。今日ばかりは、誤解だ。
「何、もしかして俺のこと本当に警戒してるのか?! ……待ってくれよ……この眠いのに、んなこと考える余裕、一応ねぇよ……」
『……一応?』
「あ、いや全然」
疑い深い目でこちらを凝視する彼の挑戦に、アーサーも視線を返して応戦する。そのままお互い数秒睨み合って。
深々とため息をついたシングは、まだ考え中のディーネに囁いた。
『ディー。分かってると思うが、オレはそろそろ行くからな。ま、この男に何かされそうになったら呼べ。あんまり夜更かしするんじゃないぞ』
不安げな瞳で見つめられていることに気づいているのかいないのか、顔も上げずに、彼女は相変わらずの生返事で答えた。
「んー……呼ぶ。わかった……あ! 術師でこう……でも、あ、こっちのが……うぅ……」
情けない声を上げる歌姫の姿を見つめながら、このお目付け役は、もう一度深くため息をついて。
『何かしてみろ。覚悟しやがれ?』
人の悪い笑みを浮かべたシングが、アーサーに牽制の一言を吐いた。
普段ならば、そんな言葉も何のその、自分のやりたいようにやるアーサーだが、なぜだかどうにも出来なかった。思考が働かず、ただ本能的に危険が迫っているような、ちりちりとした感覚がある。
「……了解。適当な時間に寝かすよ」
その言葉を聞いて、シングは空気に溶けるように消えた。
……最後までアーサーは睨まれたままだった。
「……怖いなぁ……気をつけよう」
何を言われたとしても、可能ならば『何かする』つもりだったアーサーだが、今回ばかりは、諦めることにした。


 「ねぇ、アーサー? 嘘をつくこと、やめないの?」
 「ん? ……なんだ、いきなり」
笑い飛ばして、そのまま流すつもりだったアーサーは、顔を上げてしまったことに深く後悔した。
目の前に、強い意志を湛えた藤色の双眸があった。
何にも勝る宝石は、きらきらと光り輝いて……それに魅せられて。気がつけば自分の常套手段である行動全てを、封じられていた。
避けることも流すことも出来ない、がんじがらめの状況に、アーサーはどうしようもなく、ため息をついた。
「……やめない。嘘をつくことが当たり前になってる気もするし。人間、嘘と隠し事はたくさんしとくべきだろ、やっぱり」
「でも、嘘、つきたくないって言ってる。嘘つきになりたくないって、言ってる。それでも、やめないの?」
見つめる瞳は、真剣そのもの。どこからそんな、アーサーという人となりからかけ離れた言葉が出て来たのだろう。不思議で仕方ないが、確かに、その言葉は嘘ではない。全てが真実とも、言えないが。
「つかなくて済むところならつかないよ。嘘で全部を塗り固めなきゃやっていけないほど自分に自信がないなんてこともないしな。ただ、ついておけば得すると思えばつく。そのことに、ためらいがないだけだ」
小さく微笑んで、駒を動かす。
「セット。ぼんやりしてると、すぐに負けるぞ?」
「あっ、ずるい!! 卑怯よっ! 私、そんなにいくつも一度に考えられないのに!」
「それなら、どっちかにしなきゃな。さっきの話か、ダースか」
おそらくこれで、彼女はダースを選ぶだろう、とアーサーは淡く微笑んだ。
先程の話題は……あまり深くなると、自分の内面まで近づいてしまう。
そんなことまで言えるほど、自分は彼女を信じてもいなかったし、彼女に理解を求めようとも思わない。
 元々、他人には言う必要も、言う気もないものだ。
むぅっとこちらを不機嫌な表情で見つめていたディーネに、表面だけで笑いかけた。
 どうする? と。
「……さっきのお話にするわ」
あまりにも意外な展開。
驚いて目を瞬く。こんなにゲームに夢中だったのに。
小さな焦りが、生まれた。
このままでは。
「別に、嘘をつくのをやめて、なんて言わないわ。私は、あなたとは赤の他人ですもの。そんなことに口を出すほど、傲慢ではないと自分で思いたいし」
己の中の焦りを感じ取ったのか、彼女が先に口を開いた。そっと目をそらして、盤の上に広がっていた駒を、初期位置に戻しながら。
「ただ……ただ、ね? 私と一緒にいるとき、あんまり嘘をつかないでほしいだけ。私の声が、『本当?』って尋ねるそれだけで、人によっては全てをさらけ出してしまうわ。あぁ、私はこの人に信じられてなかったんだな、って。そう思うのが、少し悲しいの。一度や二度なら、気にしないわ。でも……やっぱり、結構いるものよね、皆、日常的に嘘を使うの」
その瞳に、深い悲しみを宿して。他人だから、それが当然の姿なのかしら? と淡く微笑まれて、どうしようもなくなった。
「気にもとめない小さな嘘ならまだしも、すぐに分かるような大きくて上辺だけの嘘はやめてね? もし、あなたが私に嘘をつくときは、絶対に気づかないような完璧な嘘をついて。それは私の勝手な言い分だけど、あなたになら、出来るのでしょう? 本当にそれが自分であるかのような、それを信じさせてくれるような嘘が」
声の影響を受けたりしない、私の唯一の人である、あなたなら。
甘さの中に、ほんの少しの苦しみを交えて、声はますます魅力を宿して耳朶を打つ。
ぞくぞくと、今にも暴れ出してしまいそうな心地よさは、体の中に根づきつつある。
悲しい瞳が、潤んで今にも涙をこぼしそうだった。
ざわざわと、頭の中で全てをかき乱すような快感が、全身を覆っていく。それに身を任せるのは簡単で、とても心地よい。
しかし。
完全にそれらを遮断する。彼女の話の内容は、それらの己の感情に飲まれる前に、しっかり決着をつけなければならない。
 この様子から見て、以前、何かあったのだろう。
もちろん、彼女の過去など知りもしないし、強引に知ろうとも思わない。
だがその言葉は、原因が彼女の過去にあったということ。
原因が、今もまだ彼女の中に澱のように溜まっているということ。
彼女をこんなにも悲しげな表情へと変えること。
 出来もしない。
こんな表情をさせるなんて、耐えられない。
「……いいだろう。俺は、嘘はつかない。でも、秘密はたくさん作るぞ。全部言わない。……それなら、嘘じゃないだろ? 全て言わないってことは、真実でもないってことだけどな」
思わず口から滑り出た誓い。
言ってしまってから、そんな自分にはっとした。
 嘘はつかない。
そんなことを、言っていいのだろうか? これこそが、嘘になるのではないか。
途端に湧き上がってくる後悔と疑問。
しかし、それらは全て、彼の目の前の少女によって打ち砕かれた。
「……えぇ。十分だわ」
ありがとう、と彼女は微笑んだ。
ほっとしたような、それでいて切なげな瞳で。
悲しみを奥底に秘めて……それでも花が綻ぶように笑った。



 あぁ、と想いを認めるように吐息をこぼす。
こんなにも単純な気持ちを、まだ持っていたらしい自分に気づく。


  必ず。後悔など、しない。

自分が変わっていくことに、彼は気づかず微笑んだ。




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