王子様たちと私 薔薇の花園・自らについて
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 「ん……? ……あ」
いつもと寝心地が違う、しかしそれが不愉快ではない上等のベッドで、ディオネはゆっくりと目を覚ました。外は、いつも侍女に起こされる時間に見るより明るい。
大きな窓から、さんさんと日差しが差し込む。控えめだが、とても高価そうな調度で整えられた、見覚えのない上品な部屋。
記憶が飛んで、あまりはっきりと思い出せないが……。歌姫としてやってきて、太陽神殿の中で、歌い終わって……?
記憶は、そこまで。
「……なんか、久しぶりに小さい頃のこと夢に……私は、ここでは王女でも、姫巫女でもなくて……ただ歌を歌うだけの、歌姫で……よぉしっ!」
懐かしい、夢だった。とても、とても……。言葉にするのも、もどかしいほど。
『ディー? 大丈夫か?』
「シング!」
音もなく、目の前にゆっくりと姿をあらわしたシングに、ディオネは思わず楽しくなって抱きついた。ぐっと押し倒して、そのまま二人いっしょにベッドへ倒れ込む。
『なんだ? 今朝はご機嫌だな。いい夢でも見たか?』
「うん、とっても!! 私ね、今日から歌姫ディーネなのよ! ただの、歌姫だわ!! もちろん、月の女神様の巫女だし、月の王国の王女だけど、でも、今はただの歌姫なの、だから、だから私ね、歌姫になるの!!」
シングを押し倒したまま、その体の上ではしゃぐディオネに、彼は困惑の表情。
『……ディー……誰かに聞かれたらどうするんだ。それに……』
この体勢は、誰かに見られると困るぞ、と。そう言われ、その意味を考えようとして。
ばたん、と扉が開いた。
「……お前ら、そういう関係だったのか?」
苦笑まじりに響いた、深みのある甘い声。びくん、とディオネは震えて、はじかれるように顔を上げた。シングが、彼の行動を非難する。
『おいおい、せめてノックはしたらどうだ。レディーの部屋だぞ』
濡れ羽色の髪は、後ろで軽く束ねられていた。昨日と同じ闇色の瞳。今日は乗馬服に身を包んでいる。黒革で仕立てられたそれは、王子に本当に似合っていた。
シングの上に乗ったまま、ディオネはじっとその姿に魅入る。同じように、アーサーもこちらへと視線を注いできたが……シングの言葉にゆっくりと目がそらされ、続いて上がってきた拳が、すでに開いた扉に当たる。
「忘れてた。じゃあ、はい、ノック」
こんこん、と響いた音に、ディオネは素早く反応した。今纏うのは、薄物の寝巻き。
「やッ、きゃぁッ!!」
ぱっと身を翻して上掛けを頭から被って、ベッドの影に逃げ込む。
「なっ……何のご用ですか!!」
「あ……、残念。見てて楽しかったのに」
何やらひどい発言を聞いた気がするが。他人の発言をしっかり理解するような余裕は、今のディオネにはなかった。寝台の影で小さくなったディオネに、彼の苦笑が届いた。乗馬用の靴音が少しずつ近づき、彼の声も近づく。
「昨夜は舞台が終わってすぐに倒れてしまわれて、本当に心配していたんですよ、歌姫どの。今日は、会合の初日……出席者との顔合わせです。あなたも当然、来てくださいますよね? お迎えに上がりました」
ぎし、とベッドの軋む音がした。
やたらと礼儀正しい物言いで、とても近くに声が感じられて。少し不審に思い……ディオネはゆっくり、上掛けから顔を出した。
目の前に、逆さまの顔。ふたつの綺麗な、闇を封じ込めた瞳。
「早くお召し物を纏われなければ、どんな間違いが起きても存じ上げませんよ?」
にこ、と微笑まれて……ディオネは、首を傾げた。
「……間違いって、何?」
何気ない問いに、アーサーは一瞬わけが分からない、と言った不思議そうな表情をして、それから顔を上げ、シングに視線を向けた。けれどシングは、アーサーに意味深げな笑みで応じる。
『箱入りだからな。ディーは。知らないぞ。本当に、何も』
「……いるんだな、今時」
しみじみと、かみしめるように呟いて、アーサーはベッドから降り、くるりと踵を返した。二人のやり取りがディオネには今ひとつ理解できなかったが、彼らに分かるのならそれでいい。
「とりあえず、今は外で待ってる。本当に親父から、迎えに行って来いって言われてるんだ。出来るなら一曲披露して欲しいってさ。……本当に無理じゃなければ、だが」
「……あ、はい……! あの、あ、待って!!」
上掛けを被ったまま、ディオネは慌てて立ち上がり、出て行こうとしたアーサーの後ろ姿に必死に手を伸ばして……距離があるのは分かりきっていながらその背をつかもうとして、どうしようもなく、彼を呼び止めた。
彼には、静止の言葉が、強制にならないとわかっていたから。

 何かに引き摺られるように、足が止まった。
「……? え、と。なんだ? 歌姫」
声に引き寄せられ、思わず立ち止まり、振り向いたアーサーに、彼女は、今だ少女の愛らしい面影を残した寝起きの顔で、機嫌よく微笑んで……
「私のことは、ディーネと。そう、呼んでいただけませんか? ……あなたとは……私は、普通に、おしゃべりができるんですもの。私の声に引き摺られることなく、私の言葉を聞いてくれるんですもの。……駄目かしら?」
そう、首を傾げた。
 少し寝乱れた髪を太陽の光にきらきらと輝かせて、白い頬をほんのりと淡く紅色に染めて、笑顔で小首を傾げた愛らしい姿。
 まったく狭くない部屋で、両端に立っているようなものなのに、高めの、甘く耳に……体の奥に残る切ないほど愛しい声の響き、息遣い、さらりと肩から流れ落ちた髪の滑る音まで、完璧に聞き取れた。
ぞくぞくと何かが、隙間なく全身を這っていく。肌寒いその快感は、何だろう?
「……ディーネ」
名を呼べば、その響きにつかまる。その名を持つ少女は、満面の笑みでこちらを見つめてくれる。とりあえずは……。
「……いいから、早く服着ろ」
「……きゃぁ!!」
真っ赤に染まっていく顔に名残惜しさを感じながら、ぱたんと閉じた扉の向こうに、ぼすん、と何かが当たった音がした。枕か、クッションか……。
「……ホントは、じゃじゃ馬だったんだな。……面白い奴」
くす、と少し微笑んで、アーサーはそのまま、廊下で少女が現れるのを待った。


 「ひどいわ! どうして何にも言ってくれなかったの?! もうっ!」
『……人を押し倒しておいて、言うことはそれだけか? ディー』
「あ……ご、ごめんなさい」
「あんな時間に、まだ寝てるなんて思わなかったんだよ。朝飯の時間は明らかに過ぎまくってたんだしな」
「う……で、でも、やっぱり見たことには変わりないと思うの……」
『変わりないといっても、ディーがまったく悪くない訳でもないぞ?』
「……今日のシング、意地悪よ……?」
 顔合わせとやらが行われる庭園へ向かう中、現身を消したシングと、待っていたアーサーの二人に挟まれて、ディオネは肩身の狭い思いをしながら呟いた。
 あの後、先に送ってあった荷物の中からスカイブルーのワンピースを選んで纏ったディオネは、乱れた髪を整え、緩く編んで急いで部屋を出た。出ると同時に「遅い!」と言われて、思わず「女の子はそれくらい準備に時間がかかるの!!」と叫び返し、廊下で恥ずかしい思いをした。何となく、恋人同士の会話のように思ったのだ。
「とりあえず、俺はディーネが人間外のものとそういう関係にあるわけじゃなくてとても安心してるから、機嫌がいいぞ」
「……シングは確かに人間じゃないけど、そういう関係ってどういう関係のこと?」
「人間知らなくてもいい関係ってものがあるしな。どうしても知りたいなら、もちろん俺は相手してやる。して欲しいか? ん?」
「……シング、相手してもらっていい?」
『ディーにはまだ早い。もう少し大人になってからだ。要らんことを言うな。王子』
「……そんなに焦らせて、どうするんだよ? いい女なのに……」
ぶつくさと文句をたれるアーサーに、シングはむっとしつつ、一言彼に『頼んだぞ』と囁くとどこかへ消えた。あまり長く『声』だけでも存在しては、その『声』に誰が影響されるかも分からない。それでも時々こうして出てこられるのは、声を持つアーサーが育ってきた王宮だからだ。他国の王子たちが、影響されないとは言えない。
シングが完全に消えたのを感じて、ディオネは置いていかれた、と少しうつむく。彼と二人で残されては、どうすればいいのか分からない。
と、いきなりアーサーが口を開いた。
「……ところで、会った時から聞きたかったんだが」
「え、あ、何……?」
すぐそばに、顔がある。唇がある。動きにあわせてこぼれる声。甘く、胸の動悸を激しくする危険な魅力を秘めた声。緊張する。
「俺の声、何ともないんだよな?」
「えぇ。……私は、だけど」
一応……何ともないと言っていいのかどうかは知らないが。
「どっちかって言うと、俺の方が引きずられてる気がしないでもないんだが」
何となく、意外なことを聞いた気がして、ディオネは少し考え込み、小さく頷く。
「それはまぁ、私は現“光の歌姫”だし……」
「……じゃあ俺は、歌姫と同質の『声』なのか?」
最終的に聞きたかったことが何か分からずにいたディオネも、さすがにここまで言われてようやく理解した。彼も、この『声』の持つ力を疑問に思っていたのだ。どうして自分の『声』で、他者の行動に支障が出るのか。
「同質、っていうか……同じような力を持っている、ってことかしら。私の声が皆に歓びを運べるのと同じ。あなたの声を聞いて、その思いに引きずられて行動に影響が出てしまう人がいるの。声だけで、何らかの影響を与えてしまう可能性ね」
分かりにくいだろう言葉で綴った説明に、彼は「やっぱりな……」と小さく呟き、呟いた自分自身に驚いたようだった。しかし、ディオネにとってはそれは普通のことだ。幼い頃からずっと知っていた現実。
特に気にかけることもない。ただ、珍しく強い影響力をもった『声』を持つ人だから、その人に出会えた事を喜ぶだけ。
「私、あなたと同じで、普通のお喋りを誰とでも出来なくて……でも、同じように『声』に力のある人となら、こうしてお話が出来るの。たとえ『声』に力を持つ人でも、たいていが私の『声』に押し負かされてしまって。あなたのような人、今まで一度も出会ったことがなくて……だから、朝からとても嬉しくて、本当にはしゃいでいるの」

(おいおい……冗談じゃないぞ、俺にも影響は出てるんだからな)
先程彼女の声に止まる気もなかったのに立ち止まり、しかも振り向いて応えてしまった事実を思い出す。反射的に反論しようとしたアーサーは、はっとして口をつぐんだ。
彼女にとって自分がそばにいる意味は、今はおそらく話が出来る相手だから、だ。もし自分にも影響が出ていることを彼女が知れば、今のように話しかけては来ないだろう。だが、それでは篭絡することも出来ない。仮にも一国の王子が、一人の女が欲しいというそれだけのために罪を犯すわけにもいかない。
 そんな面倒なことをするくらいなら、いっそ声に引きずられながらでも彼女に近づいていく方がずっと楽だ。自然と彼女にこちらを向かせるように。
久しく忘れていた駆け引きに、アーサーは微笑んだ。
「あの、ところで、私はあなたのこと、何と呼べばいいのかしら? 前と同じように、アーサー様と呼べばいいの?」
不意に戸惑いながら彼女から告げられた言葉に、アーサーは少し考える。
彼女に、何と呼ばせよう。今までと同じでもいいが……。むしろ。
そうして、すぐににやりと笑みを浮かべる。
「……様付けで呼びたくない、と言ってるように聞こえるんだが。まあ、呼ばれるほど俺は偉くないしな。歌姫であるお前を俺が『ディーネ』と呼んでいいのなら、お前は俺を『アーサー』と呼んでくれて構わない。……それとも、他に何か呼び方があるのか?」
「そ、そんな、様付けで呼ぶのが嫌だなんて……ほんの少し抵抗があるだけで……じゃあ、お言葉に甘えて、これからは『アーサー』と呼ばせていただくわ」
ほんの一瞬の、感触。
全身を滑るように覆ったものは何か?
分からないまま、アーサーは少し戸惑って頷く。
「あぁ……と、そろそろだ。開けてるから明るいぞ。目をやられないように、気をつけろ。国王陛下ご自慢の、薔薇の庭園だ」
手を翳し、日を除けながら廊下から出ると、目の前に広がる圧巻としか表現できない庭園に迎えられる。
「うわぁ……!! すごぉい!」
一面、薔薇、薔薇、薔薇……。
多種多様の薔薇が、そこここで咲き誇り、己を誇示している。
しかし、美しさを競うようなその庭の中にあっても、彼女の美しさは損なわれなかった。
銀の髪の輝きは、陽の中にあってもまるで月光の如く存在し、しなやかに、静かに主張する。白い頬は喜びにほんのりと紅く染まり、藤色の瞳は感情を反射する。命の尊さをその身一つで感じさせるような美しい光景に、アーサーは思わず絶句した。
 どうしてこんな乙女が存在するのだろう?
 どうして今まで、他国の者の目に触れることがなかったのだろう?
おそらく、彼女の姿を見るだけで、心救われる者もいただろうに。
彼女の声をほんの少し聞くだけで、命永らえる者もいただろうに。
 疑問は、尽きない。
「ねぇ、アーサー! この薔薇、どうしてこんなに嬉しそうに咲いているのかしら? 私のお父様の育てている薔薇とは、比べ物にならないくらい元気な声! ……あぁ……本当に本当に愛されて、大切にされているのね……」
花から花へと飛び回り、まどろむように甘い微笑みを浮かべながら、一輪一輪に触れ、話し掛ける。澄んだ優しい声が、こちらまでこぼれ聞こえる。
あぁ、この胸に溢れる思いは、何と言えばいいのか……?
「……あ、ご、ごめんなさい、つい、夢中になって……! 行きましょう? 早くこのお花を大切に育てた方に、ご挨拶したいわ」
つ、と白い手がこちらに伸びてくる。きゅっと手をつかまれたかと思うと、同時に引っ張られた。足が走り出す。前を走る少女のスピードで。
アーサーは、薔薇園の中を早足で歩く。彼女の走る速さに合わせてやりながら。
ただ……問題は。
「お前、どこに行くのか分かってるか?」
とりあえず、釘をさしておいた。
ゆるゆると歩みが止まった。
「……連れて行ってください」
拗ねるように呟かれたので、少し可哀相になって、そして素直に可愛いな、と思って。
つかまれた手を、握り返した。
「行くぞ。もう十分遅れてるんだ」
「はぁい」
そう、答えられて。思わず、笑顔がこぼれた。
 隣りで極上の笑顔をこちらに向けられ、世界一の声に自分の名を呼ばれ。
ぞくぞくと全身を覆うようににじみだした心地よさは、忘れたくないと抱き締めた。


 アーサーが四阿のアーチをくぐって来たのを見て、ざわ、と一瞬声が波打った。
「遅かったですね、殿下」
最も歳の近い出席者に嫌味のように言われて、アーサーはにっこりと、笑顔で返す。
会合が開かれて三度目。年に一度とは言っても、その一度は期間に直して一月。いい加減、出席者の顔も名前も、声も覚えた。
「お待たせいたしましたね、フロッドどの。心の準備はよろしいですか?」
「……何の、でしょうか?」
「美しい者を見るための、ですかね。おいで、ディーネ」
自分が来た道へと手招きをしたアーサーに、何事かと、出席者が集まってきた。
「……アーサー、でも、私……」
「いいから、ほら!」
もどかしくなって、彼女を強引に四阿まで引っ張って連れて来る。全員が、息を飲んだ。
銀の髪のあちこちに絡んだ菫色の小さな薔薇が、少女の可憐さを際立たせていた。
恥ずかしそうに上げられた顔は紅く染まっているが、それがなお一層愛らしく、魅力的だった。
「おやおや……歌姫どの。ようこそおいで下さったな。私が現国王のジュリアスだ。なんと、こんなに愛らしいお嬢さんだったとは……」
最後列から人を割って出て来たのは、まだまだ血色のいい、見ようによっては青年のような人だった。髪は濡れ羽、瞳は、日溜りのような黄橙。どこかアーサーと共通したところを感じる、整った顔貌の持ち主だ。
「は、はじめまして、昨夜はご挨拶もなく、大変な失礼を致しました。私が、ディーネ=クレスでございます。国王陛下から直々にお言葉をいただけるなど、光栄です」
礼儀にのっとって、膝をつき、頭を垂れたディーネに、ジュリアスは慌てて手を差し出した。
「歌姫どのに頭を下げられては、こちらが困ってしまう。さぁ、顔を上げて、よく見せておくれ。アーサーに、何か妙なことはされなかったかい?」
「え、と……?」
妙なこと、と言うのが何を指すのか分からないのだろう、彼女の視線がアーサーに移る。その動きにあわせて、全員の視線もアーサーに動く。目だけで促されて、思わず叫んだ。
「……してない!」
……したかったけど、という言葉はとりあえず隠しておく。
アーサーの心の内を知っているかのごとくため息をついたジュリアスは、気を取り直すように微笑み、彼女を促し、人の輪の方へと向けた。
「それでは、全員揃ったところで挨拶と行こうか。さぁ、アーサー、お前もきちんとご挨拶しろ。どうせ、歌姫どのへのご挨拶も適当に省いたんだろう」
ばれてたのか、と一つため息をつくと、アーサーはすぐに笑顔で顔を上げた。

 「……では、改めまして。すでにご存知の事とは思いますが、私の名はアーサー=プリズム。太陽の国第一王子でございます。今後とも、どうぞお見知り置きを」
紳士の礼を、自然な流れの中で済ませ、彼はディオネに向かってウインクして見せた。
余裕ぶった態度に彼の父は少し顔を顰め、けれどディオネはくすりと微笑む。
「木の国、王太子のオーク=ティンバーと申します。“光の歌姫”殿にお会いできるなど、思いもかけないことで……大変嬉しく思います」
続いて膝をつき、頭を垂れるのは紅葉のように赤く燃え上がる髪と、深い新緑の森の如き若葉色の瞳の青年。アーサーより、五つは年上だろうか。大きな鍛え上げられた体躯、曲がったことが嫌いだろう、意志の強そうな鋭い目。髪は短く切り揃えられ、纏うものは祖国の軍服のようだ。
じろっと、睨みつけるような視線を自分に一瞬向け、しかし彼はすぐに目をそらして立ち上がった。見上げなければ、顔を合わせることも出来ない。
そんな彼を押しのけるように、日の光を乱反射する金の髪を長く伸ばし、青い瞳を不服そうな色に染めて、中肉中背の青年が頭を下げた。妙に芝居かかった動作が目立つ。
「お初にお目に掛かります、水の国第一王子、フロッド=スプラッシュです。昨夜の歌声は大変感動致しました。本当に、素晴らしいお声をお持ちですね」
顔を上げる。すっきりと通った鼻梁、形のよい唇……しかし、その目には、どこかふざけたような、つまらなさそうな色が浮かんでいる。整った顔貌にも関わらず、瞳のせいで、がらりと彼への印象が変わる。
「……ブレスどの? どうぞ、あなたもご挨拶を」
アーサーが声をかける。彼らの後ろで、亜麻色の髪が見え隠れしていた。
ディオネはもう一人いたのか、と少し驚く。まったくその存在を感じさせないというのもある意味すごい。
「……風の国、第二王子……ブレス=ストーム。はじめまして」
ぺこり、と頭を下げ、また後ろへと下がる。印象として残ったのは、無関心な翠の瞳。
退屈そうな、全てをなげうったような、気だるい感情。
それ以外に特徴のない、すれ違ったことも感じさせない、空気のような人。
彼の空気に引きずられて、ずるずると感情が悪い方へ傾いて行くような……ディオネは嫌な感覚に頭を振る。
出席者の面々を見、この会合の主催責任者でもある国王は、ゆったりと微笑んで、口を開く。
「挨拶も一通り済んだところで、本日はよい天気。乗馬でもという話になっておったのでな。皆様を厩舎へ案内なさい。そちらで馬を選んでくだされ。では、よい一日を!」
国王の笑みに、集まった各国の王子たちは、思い思いに頭を下げた。
 「アーサー、私はそろそろ国務に……」
移動を始める王子たちを尻目に、四阿を見渡していたアーサーが、不意に、深刻な口調で彼の父に問うた。
「……シーザーは?」
厩舎への案内を従者の一人に頼んで、出席者を送り出した彼は、首を傾げて呟く。
「さっきまではそこにいたんだが……あぁ、もう時間がない、後は頼んだぞ。歌姫どの、また今晩にでも、そのお声を聞かせてくださいね」
立ち去ろうとするジュリアスをディオネは頷いて見送りながら、『シーザー』というのが誰だか分からず、アーサーに訊こうとした、その時だ。
「兄様!!」
「うわっ!」
どん、と身体がぶつかった衝撃音。思いきり体を押されたように、アーサーの体が、傾く。思わずその手をつかんだディオネだったが、彼の身体の向きを変えただけで何の助けにもならない。逆に自分が引き摺られる。
 耳元で風の音。
「あ、馬鹿……!!」
声が聞こえた瞬間に、彼との距離がなくなった。温もりを感じて、驚きと、衝撃。
「……痛……」
「大丈夫か? 怪我、してないか? 血とか出てないな?」
 地面に立たされた。温もりは離れる。遠ざかる。
どこか慌てた表情で、確かめるようにディオネの全身を見回す彼の方が、よほど痛かっただろう。自分が一緒に転んだせいで、彼は受身も取ろうとしなかった。幸い、全身を覆う形の乗馬服に身を包んでいたため、彼も怪我などはしなかったようだが、自分の受けたものとは比べ物にならない痛みを感じたはず。
「ご、ごめんなさい……!」
「兄様ぁ!! ごめんなさいごめんなさいっ!! だ、大丈夫ですか? お怪我は……?!」
慌ててアーサーの無事を確認しようとしたディオネを押しのけて、黒髪の少年が彼にすがりついた。涙目で彼の前にしゃがみ込み、ただただ謝るばかり。
「……シーザー。言うことは、それだけか?」
「え……?」
こめかみに指を当て、必死に何かを押さえ込むような表情で呟かれた言葉に、少年は戸惑った。次の瞬間。
 ぱしん。
軽く重たい音。反射的に、頬に手を当てる。
「……兄様……?」
「何で、そういうことをするんだ!! 俺もこいつも、怪我しなかったからよかったものの!! もし! 俺が乗馬服着てなかったらどうなってた?! 受け身取り損ねたら大怪我だぞ?! もう少し、よく考えてからッ……いや、おい、ディーネ?」
抱きとめられていた腕を、振り払う。そして、目の前でじわじわと溢れそうになる涙を堪えていた少年の、気持ちも何もかも包み込めるよう抱き締める。自分の目にはすでに涙が溢れていたが、そんなことは関係ない。
「私が、悪いの! 勝手に、余計なことしたから……! ごめんなさい。アーサー、怪我はない? あなたも、大丈夫……?」
自分が悪いのだから、謝らなければいけない。当然だ。
「……あのなぁ……」
アーサーが、吐息をつくように呟いた。ディオネには、その意味がわからない。

 快感が、全身を麻酔のように駆け抜ける。
痛みすら麻痺させてしまうような、柔らかな震えを感じ取れる甘い響きに、思わず身を委ねてしまいそうになる。その涙の意味を訊きたくなる。
痛いといえば彼女はますます悲しみ、しかしそれだけ大切にしてくれるだろう。
目の前で痛みを感じた見知らぬ少年でしかない彼に、こんなにも壊れ物のような触れ方をするのだから。
「……どこにも怪我はないし、痛いのも慣れっこだ。俺が怒ってる理由くらい、分かってるな? シーザー?」
念を押すように名を呼ぶ。少女の腕の中で、小さく頷いたのが見えた。
「僕が、歌姫様を巻き込むような状況で、あんな事したから、です……」
「そうだな。よく分かってるじゃないか。二度と、するんじゃないぞ。女の子は怪我させるもんじゃないの、分かってるだろ? 大事にしないとな」
「はい。二度と、しません。兄様のお声に誓って」
真剣な眼差しは、深紅の炎。それを見て、ようやく、アーサーは微笑んだ。
「よし。いい子だ。ディーネ、紹介しよう。こいつは俺の弟、第二王子のシーザーだ。さっきは本当に、悪かった」
「シーザーです。ごめんなさい、歌姫様……」
こちらに向き直ったシーザーと、二人揃って頭を下げる。彼女は困惑した表情で、慌てて首を振った。
「そ、そんなッ、私こそ、ご迷惑かけてしまって。ごめんなさい」
ぺこりと頭を下げて、涙を拭う。少し赤くなった頬は、恥じらいゆえか。そんなささやかな仕草でさえ、愛らしい。
「……よし。お詫びだ。行くぞ! シーザー!」
「了解です! 兄様!!」
颯爽と立ち上がったアーサーに続いて、シーザーが敬礼で起立する。
呆然とその様子を見ている彼女に、アーサーは手を伸ばした。




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王子様たちと私 薔薇の花園・自らについて