王子様たちと私 前夜
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 その世界には、五つの国があった。
木の国、水の国、風の国、太陽の国、月の王国の五つだ。
古き時から国々は、支え合い、理解しあって共存していた。
その世界を支えるのは、国々の王家の均衡と、そしてもう一つ、世界に生きるもの全てを守る“光の歌”とも“再生の歌”とも呼ばれる意識を持った音色だった。
 音色は、自分を歌うものを選び、音色に選ばれし何よりも美しい声と容姿を持つものは、“光の歌姫”と呼ばれ、五つの王家と同じく大切にされた。

 そして、ある年。国々のうちの一つ、月の王国に、唯一の王位継承者となる王女が生まれた。それは奇しくも、月の王国一の予言者が『新たな銀の姫巫女が誕生する』と告げたその日であった。産着に包まれて眠るその赤子は、見事な銀の髪をしていた。
 国の宝である姫は、『ディオネ』と名づけられ、皆に愛されて育った。
 それから12年経った同じ日、王女であり姫巫女であるディオネ=クレセントは、成人の儀式と共に“光の歌”と呼ばれる音色に選ばれ、歌姫となった。印象的な大きな藤色の瞳と、見事な輝きを放つ銀の髪をした愛らしい少女だった。
 そうして、様々な意味をもつことになった姫の身は多忙で、各国から舞い込んだ求婚はおろか、求婚者との面会すら許されなかった。
 とは言っても、王女であり、姫巫女であり、光の歌姫である彼女は、それを苦に思ってはいなかった。むしろ誇りに思っていた。ある意味世界一貴重な存在となった自分自身を、彼女は冷静に受け止めていた。
 しかし、姫はあまりにも多くの『人在らざるもの』に愛されていた。これほどまでに不可侵のものに愛されていては、いつ、誰に狙われてもおかしくはない。愛らしく、か弱い姫の未来を、皆が不安に思った。そこで王国は、彼女を国外へは一切出さず、世界に『王女』と『姫巫女』と『歌姫』は別人である、と公表した。

 王女が歌姫に選ばれてから更に5年経った。
姫の美貌には更に磨きがかかったが、それを直に見たことがあるのは、王家の者か、王宮であり神殿である月霞宮に、王家の側仕えとして従うものだけだった。
 大きな、強い意志を秘めた藤色の瞳。長い優雅な睫毛。薔薇色の頬、薄紅色の唇。
それは、煌煌と輝く月光のような、非常に見事な銀の長い髪が印象的で、柔らかな甘い面立ちの、そこに存在すること自体が芸術のような乙女の姿。
唇から漏れるのは世界を満たす“光の歌”の音色でさえ震いついたほどの魅力ある声音。その優美な肢体が生み出す流れるように美しい舞いは、月の女神の化身とまで呼ばれ、歴代の姫巫女のうち一、二を争う実力だという。
 そんな大切な姫を、一体誰が国の外になど出せようか。
 しかし、姫も年頃になり、国のためにも、姫のためにも結婚を考える時期が来た。姫が自分からその話題に触れたとき、国王、王妃、重鎮も、今際の際になって焦った。求婚者たちが、どんな人物か全く知らなかったのだ。
 そこで、姫は提案した。

『私自身が御本人に会いに行って、結婚相手を決めて参りますわ』と。


 この機会を逃がす手はない、とディオネは思った。
各国の王子たち……すなわち自分の求婚者たちが一同に会する機会。
 それは、太陽の国で開かれる会合。競い合い……と言ってもいい。剣術・弓術・柔術・学術・馬術・法術など、多方面において、お互いが競い合い、技を磨き合う。一月に渡って行われるそれは、自分の立場に最も相応しい者を見極めるに、またとないよい機会だろうと思われた。
 ディオネは、早速その会合に光の歌姫として招待していただくことにした。
幸い、先方からは快い返事を頂き、ディオネはその会合に立ち会う許可を得た。光の歌姫が王女だと言うことは誰にも知られていないのだから、どれだけ品定めしようと王子たちは気にも止めないだろう。その方が好都合だ。
 月の神殿の神官長……父王や、巫女頭の母には引きとめられたが、きちんと自分で見極めなければ、なんとなく不安だ。もともと、人に任せるのはあまり好きではないものだから、こんな大切なことは余計自分で考えたかった。
 そして同時に、今まで一度も出してもらえなかった別の世界へと行けるのだ。
出発の日を指折り数えて待ちながら、ディオネはまだ見ぬ他国の情景を思い浮かべた。

 ほどなくやって来た、出発の朝。
月の王国の遥か上空に浮かぶ太陽の国から迎えの船が来た。木製の、クラシックで優雅な形をした三枚の帆を持った帆船。
 神官たちに、何度も何度も念を押すように気づかれない様気をつけろと告げられ、父や母の寂しそうな顔といつもそばにいてくれた侍女たちの祈るような眼差しが、ディオネを不安にさせた。
一度も離れたことのない、自分の生まれ育った王国。乗り込んだ船が上昇するにつれて、不安は徐々に悲しみへと変わる。
 しかし、それは一瞬だった。ゆっくりと空に昇る船の甲板から見た景色に、その悲しみは消えた。
真下に見えるのは月の王国。輝くような眩しい光を放つのは月霞宮だろう。水晶の森に囲まれ、七色に輝くその美しすぎる、まるで夢のような景色に見蕩れながら、ディオネはこれから起こるだろう様々な事を想像し、胸を高鳴らせた。
 と、いきなりそばで耳に心地よく響く音色がした。
『ディー、あんまりはしゃいでるわけには行かないぞ。この先何があるか分からないんだからな、自分でよく気をつけないと。それに、太陽の国の王子、すごくタチが悪いって噂らしいから、そいつだけにでも、気をつけろよ』
 ディー、と愛称で呼ばれて、彼女は乗り出していた体を甲板に収める。低めのよく響く音色に囁かれ、小さくため息をついた。“光の歌”だ。
「あのね、そういう事を、そのいい声で言わないで頂戴……なんだか空しくなるじゃない。今まで会ったどんな男の人よりも素敵な声なんだから、もっと私を喜ばせるようなこと、言って欲しいわ」
こぼれた音は、甘い囁きとなって空に溶ける。声のみで全てを魅了する、他者の心溶かす声音。現にこの声は“光の歌”を魅了し、五年間もの時を共に過ごす理由となった。
ディオネ自身、幼い頃から己の声が『普通ではない』ことを多少なりとも自覚していたつもりだったが、己の声が他者を惑わせる……この事実を知ってから、ディオネは口数も少なくなり、今まで声音の魅力に惑わされていた者の被害は幾分か減った。
『……オレがそんな事をお前に言っても、どうにもならないだろうが。これから結婚相手探しにいくヤツが、何言ってるんだ』
「ふふ……本当、どうなるのかしら。結婚……なんて」
ふっと遠い目をしたディオネは、“光の歌”が何か言葉を返そうとする呼吸を聞き、その時。
「歌姫様、ご到着です!!」
船頭が、声高らかに門番に告げる。門番が正門を開けると、王宮楽団がファンファーレを奏でる。ディオネは、先ほどまでの憂いなど吹き飛ばしてしまうつもりで、甲板から優雅に微笑み、淑女の礼をする。
 もうじき、王宮らしい。空に浮かぶ波止場に船が繋がれ、船頭がディオネを呼んだ。
「歌姫様、こちらからどうぞ。我が国の王子が、貴方様をお迎えにきております」
甲板から降り立ち、初めて自分の故郷以外の土地を踏んだと同時に告げられたその言葉に、ディオネは焦った。今しがた“光の歌”から忠告されたばかりなのに、早速そのタチの悪い人に出会うとは。内心、ため息でもつきたかったが、腐っても王子である。邪険には出来ない。
「ありがとうございます。お世話になりました。今晩の前夜祭で、お目にかかれるといいですね。それでは、失礼します」
微笑み船頭にそう囁くと、ディオネは船を降り、王子がいると教えられた場所を目指す。太陽の国は、月の王国よりも暑く、しかしからりと乾いた風を流していた。ディオネの銀糸を、さらさらと風が揺らす。
 『ディー、アレが王子だ。あの地味な格好の派手な男』
「え?」
“光の歌”の声に促され、ディオネはふと足元から顔を上げる。波止場からしばらく行った城下町への入り口に、確かに地味な恰好をした、とても派手な雰囲気の男が立っていた。深い紺のロングコートに、黒のパンツルック。髪は濡れ羽色と特筆すべきところのない地味さだが、彼の持つ存在感と、遠目にも分かるほどの気品ある顔立ちがむやみやたらと派手だった。しかも門の奥には、立派な馬車が待たされている。
「……地味だけど派手ね。本当に」
 はぁ、とため息をついて、ディオネは自分の姿を見た。頭の色に溶け込みそうな銀糸で織られたワンピースに、白の上着を軽く羽織って、足元は白のサンダル。さらりと風にあおられるままの髪は純銀の如き輝きを宿し、瞳はアメシストのような藤色。自分なんか、服も容姿も全部派手だ。
「でも、私、派手さでは全然負けてない気がするわ……」
『そうだな。負けてないぞ。ちっとも』
嬉しくない、と心の底から思いながら、ディオネは王子の正面まで真っ直ぐ顔を上げて進む。相手に気づかれる前にさっと目の前で頭を垂れ、歌うように名乗った。
「お初にお目に掛かります。光の歌姫ディーネ=クレスでございます。あの、失礼ですが……、アーサー様でしょうか?」
歌姫としての名、ディーネ。似て非なる音を聞くのが、ディオネは好きだった。
これから当分使用するその名を口にし、相手から回答を得るためにゆっくりと顔を上げたディオネは、王子の姿を見つめる。そばまで近づいて初めて分かった、王子の体格。一見ほっそりと見えるその体は、薄手のコートに隠れているが軟弱そうではない。背は自分より頭一つ分くらい高く、瞳は深い闇色。少し長めに伸ばされた髪が、風になびいて揺れた。何気ない自然な動き、顔形の部分部分だけでも非常に洗練され、整って見える。
 真っ直ぐに、見つめてくる視線。
ディオネはそれに飲まれることのないよう、しっかりと立った。相手が王族であろうとも、この世界の“光の歌”を抱く歌姫は、その威厳を揺るがせてはならない。
我慢くらべのように見つめあったままだったディオネに根負けしたのか、不意に、彫像か何かのようにまったく身動きをしなかった彼の顔の一部……唇が動いた。
「あぁ。俺がアーサーだ。歌姫を城まで連れて来るようにと父から言い付かって来た。馬車を用意してある。こちらへ」
 耳に滑り込む、その声。言葉ではなく、まるで音楽を聴いたような、不思議な感覚が過ぎる。それと同時に、得体の知れないものが……ぞくり、と体中を這い回った。一瞬、びくんと震えたディオネに気づかず、必要事項だけを述べた王子は、先に立って馬車へ向かう。ディオネは、先程の不思議な感覚と彼の素っ気無さに面食らいながら後を追いかけ……
はたと立ち止まって、雲一つない空を見上げた。青い、透き通る高い空。
「……ねぇ。どこが危ないのよ」
ぼそりと一言呟いて、ディオネは馬車に乗り込んだ。
 馬車に乗ったはいいものの、正面に座ったアーサーは沈黙。王子に話し掛けようとした頃に姿を消した“光の歌”も出てこない。街の様子を見ようにも、窓はビロードのカーテンで隙間もないほどぴっちりと閉じられている。手持ち無沙汰になったディオネは、おずおずと口を開いた。
「あ、あの、アーサー様……?」
「何だ?」
「え、あ、いえ……なんでもありません」
強い口調で、真っ直ぐ正面から見据えられて、自分が何を言いたかったのか分からなくなってきたディオネは、首を振り、呟いた。狭い馬車という空間に閉じ込められて、王子の声が響く。もし、この声に優しく、甘い言葉を囁かれたとしたら。
“光の歌”にも負けない、深い響きを持った魅力あふれる声……だが彼の声は、心地よく耳に残る“光の歌”の声とは違って、心の奥を掻き回すような、内側を激しく乱すような強い力がある。体の奥に残る余韻にほぅ、と小さく息を吐いたディオネに、突然声がかけられた。
「歌姫」
「は、はいっ」
「お前、俺の女になれ」
……一瞬、自分が何を言われたのか分からなかった。俺の、女……?
「あの……それは一体、どういう……?」
「そのままの意味だぜ。その銀の髪、真珠の肌、紫水晶の瞳、珊瑚の唇……。何をとっても極上の美少女だ。あんたは今まで俺の見たことのあるどんな女よりも美しい。全身宝石で作ったような美人に、この俺が、手を出さないとでも?」
 一瞬前まで持っていた『“光の歌”が言うほどタチ悪くない普通の人』というイメージが、見事に崩れ去った。この人は、『ディオネ王女』の求婚者ではなかったのか。ふと頭をよぎった思考に囚われた一瞬に、ゆっくり、整った顔が近づいてくる。挑むような濃い闇色の瞳と、深い響きのある声が何かを忘れさせる。このまま動けずに、自分は、どうなるのだろう?
『このガキ!! オレが先に目ぇつけた歌姫に、勝手に触るな!!』
いきなり聞こえた、今までにない下品な言葉遣いをしたその声は、“光の歌”だ。一気に正気に戻ったディオネは、慌てて顔をそむけた。ふわり、と何かに包み込まれる感触。目を瞬かせ、よく見ると、それは、真っ白な人間の体。
「え……?」
細身の、男性の姿。白い髪、白い肌、淡い金の瞳。端正で小作りな顔は、人とは思えぬほどに整っていた。古風な裾の長い白の衣を纏い、長い髪を高い位置でまとめ、その身につけた装飾品は、白い肌によく似合う白金。それにも細かい細工が施されている。
「……シング……?」
ディオネが“光の歌”を呼ぶとき、いつも使っていた名がこぼれる。その声に微笑みを浮かべて、“光の歌”は口を開いた。
『歌姫、あまりこの姿をとるのは好きではないのだが……お前が汚されるのを黙って見ていられるほどオレは非道じゃないからな。これがオレの現身だ。初めまして』
「へぇ? コレが“光の歌”? “光の歌”ってのは、現身もあるのか……。見た目も、女の趣味もいいみたいだが、まさかアルビノとは……」
アーサーが、そう言って笑った。その声に宿っているのは、驚きと……嘲り、だろうか。感情を隠そうともしない彼に、ディオネは思わず声を荒げる。
「そんなこと、言わないで下さい! アルビノに生まれることが、そんなに悪いことなんですか?! シングにちゃんと、謝って!」
勢いに任せて言ってしまった、思いのこもった激しい言葉。ディオネははっと口元に手を当て、あぁ、と声にならない喘ぎをもらした。
いくら感情を荒立てても、決して声に出してはいけなかったのに。やってしまった。彼に、不本意なことをさせてしまう……。
 泣き出してしまいそうになったディオネは俯いたが、しかし、アーサーから返ってきた言葉は、ディオネの予想に反したものだった。
「嫌だ。どうして俺が謝らなきゃならない。こいつがアルビノなのは、事実だ」
「え……? そ、それは、そう、ですけど……」
『……ディー、オレは別に、気にしてないぞ。何だかよく分からないが、皆最初は色を持って生まれなかったんだ。創世時にこの世に立っていたのはオレを含めて十三人。それぞれの国に一組の男女、創世の男神、女神と、オレだ。男神と女神以外は皆が皆真っ白で、とても物足りない眺めだったが』
「シング……」
いいんだ、と言葉を遮られて、ディオネは不安になる。ゆっくりと首を回せば、そこには不機嫌な表情のアーサーがいた。“光の歌”に向けていた、警戒も何もせずにすむ安堵から、途端に不安と困惑が混じる。先程誘われたときの、何もかもを忘れてしまいそうな、溶けるような浮遊感はすでに消え失せていた。
 今まで知りもしなかった、不思議な感情。ディオネは、精一杯表情を押さえつけて、胸の中の緊張と、ささやかな期待を押し留める。
そうかもしれないけれど、そうじゃないかもしれない。
 彼は……アーサーは、謝って、と言ったディオネの言葉を無視して、謝罪しなかった。
「どっちでもいいけど、そろそろ城に着くんだが。あんたがこの歌姫を愛してるのはとてもよく分かるがな、あんたはもう人じゃない。生身でもないのに、そんな美人を独占するなんて、絶対に罪だぞ」
ふて腐れたような、眉間にしわを寄せた彼の表情に、“光の歌”が、ふふん、と鼻で笑った。今までにないシングの対応に、ディオネは驚くことしか出来ない。
『生身でもない、生物でもない“光の歌”如きに女を魅了されたままで引き下がれる男ならオレは何とも思わない。オレがディーを独占することが罪だと思うなら、お前がディーを魅了して、奪えばいい。それは、いつの世でも男がしてきたことだしな』
「え、あの、シング……?」
シングの自信に満ちた表情と言葉にぴくっ、と反応したアーサーは、真っ直ぐに視線をディオネへと向けてきた。“光の歌”の腕に抱かれたまま、ディオネはわけもわからずその視線に応える。アーサーが何を企んでいるのかは分からないが……これから、ディオネは彼や他の王子たちと共に一ヶ月の間を過すのだ。もう、後戻りは出来ない。
「……そこまで言われて、黙っていられる俺じゃねぇっての。いいぜ。こいつが国に戻るまでに、俺はこいつを、俺のものにして見せる。歌姫、覚悟しておけよ。このまま……無事に帰れると思うな」
鋭い目つきで射抜くように呟かれ、ディオネは反射的に、頷いた。負けないようにと気合いを入れたら、逆に焚きつけてしまったらしい。困った。
だが、ある意味原因の一つである“光の歌”は。
『それが出来たら、相当の幸福が得られることを保証しよう。ただし、必ず責任は取れよ。お前がディーに手を出したら、ディーの生涯はお前に預けられるのだから』
なんでもないことのように、笑ってそう言ってのけた。

 白夜の宮。それが、前夜祭の会場である、太陽神殿に続く回廊のすぐそばに設けられた控えの間だ。ここに身を置き心を平静にすることが、太陽神殿の祭壇に上る者の決まりなのだと言う。
「伴奏は、よろしいのですか?」
「……はい。必要、ございません。私は、歌姫です。歌うことによって、かの古の光を呼び戻すのです。呪文に、他の音色は必要と致しません」
備え付けの鏡台の前に腰掛けていたディオネは、最後の打ち合わせにきた女性に最低限の音量で喋る。これが歌姫としての……“光の歌”に選ばれたものの運命。
他者を、歌声の、声の音色に惹き込んではいけないのだ。
 常人にはないその声に秘められた魅力は、今日では滅多にお目に掛かれない珍しいもののため、普段それを耳にすることのない人にとって凶器ともなりうる。
 だから、普通に言葉を交わすことが出来るのは、幼い頃から長く触れ合ってきたもの、もしくは“光の歌”の認める魅力を持った『声』を持つものだけ。時折『声』への耐性が強いものも生まれるが、ディオネのそばにいるとは限らない。それは、歌姫として様々なことを制限させられた少女にとって、最もつらいことだった。
 神殿にいるときならまだしも、神殿から離れ、姫巫女として、もしくは王女として行動しているときでさえ、簡単に口を開くことは出来ない。話し相手が欲しくても、まともな会話が出来るほどの力を宿した声音の持ち主はそう簡単に見つからなかった。度々抑制してきた普通のお喋りは、“光の歌”……シングとのコミュニケーションでしか補えなかった。
これといった感情を表現することもなく、前夜祭の段取りを一通り説明して帰っていった女性を思い出す。あの人では、自分と普通に会話は出来ない……。
 しかし、今日、シングが直に触れて確認したアーサーは『声』を持つものらしい。だから、馬車の中という閉じられた空間で声を聞かせていても平気だったし、ディオネが謝るように強制しても、彼はそれに従わなかった。
『声』を持つ……今までで、初めて出会った特別な人。
高くもなく低くもなく、ただその深い響きで心を掻き乱す甘い声。
あの人も一緒に歌ってくれたら、どれほど心地よくなれるだろうか。
 ふと想像してしまった自分に赤面する。
心地よくなったら、どうだと言うのか。
「心から惹き合える人が出来た時、私はどうなるのかしら……」
 わずかな自由さえきかないがんじがらめの自分のカタチ。
どうやっても抜け出せない事が分かっていて、その人に自分に合わせることを強請しなければならないのだろうか。
 それとも。
自分は自分であることをやめてでも、その人の元へ、行くことが出来るだろうか?
分からない。意味もなく、理解も出来ない感情が、アーサーの声と共に湧き上がる。
もどかしくなって、ディオネは小さく咳き込んだ。
「おいおい、歌姫がそんなでどうする。体調管理くらいできなきゃ、駄目だろ」
 扉を開く音も聞かせず、鏡越しに見るそこに立っていたのはアーサーだった。
「な……どうして、ここに」
「俺が王子だから。あとは……見た目だな」
小さく肩を竦める仕草を経て、アーサーはディオネの後ろに立った。彼の顔が鏡越しにディオネを見つめている。それと同時に、“光の歌”が不可視の姿を保って、ディオネの隣りに降り立った。
彼の存在感を感じ取ることが出来るディオネは、ひとまず安堵のため息をつく。
そのため息で、初めて、馬車の中で告げられた言葉の意味がはっきりと分からないせいで、彼に対してほんの少しの不安を抱いていた自分に気づく。強引でわがままそうだった彼。
「……美しいことは便利だな。この顔に好意を持ってくれる者は、簡単に俺の願いを叶えてくれる。俺が望もうと、望むまいと。歌姫、お前もそうだったか?」
同意を求める問い。馬車の中にいた彼とは違う、どこか弱気な、どこか哀しげな言葉に、ディオネは戸惑う。
「それは……一体、どういう意味? あなたは、私に何を望んでいるの? 何を求めているの?」
どう答えればいいのか分からずに、席を立ち、きちんと彼に向き合う。しかし彼は……アーサーは微笑んで呟くだけ。
「あぁ……分からないんだな。そうして、閉じた中で育てられてきたんだな。だからそんなに、そんなにも不完全なままで……」
「……何を言っているの……?」
不安げな響きに彩られた、何よりも魅力を備えた音。
その余韻に耳をすませて、アーサーは別人のように明るく微笑んだ。
「いいや。不安にさせて、申し訳なかったと思って、謝りに来たんだ。今夜は、君の歌を……声を、楽しみにしている。いい夜を」
誰もがうっとりと見つめてしまいそうな、そんな魅力を宿した微笑。
すぐさま背を向けていってしまうアーサーに、ディオネはどうすればいいのか分からず、ただ、黙ってその背中を見送ることしか出来なかった。


 そこは、いつもなら必ず、太陽の如く輝く紅の炎が昼夜を問わず満ちている場所。
しかし、今夜は。炎は全て消え去り、照明もなくただ光るのは大きな天窓から差し込む強い月明かりのみ。
 人で一杯の……しかし静まりかえった広い太陽神殿の中、空気を、大気を切り裂くかのように激しく、内に熱い炎を宿した声音が。
 満ちる。


 ……空は光に満ち 大地は豊かに実り
   風はすべてを運び 水はいのちを育み
   やがて太陽は我らを見つめ
   いつしか月は我らを包み
   そして我らを守りしものよ
   今こそこの世界を 光で満たせ

 たとえ短くとも、心の奥底に眠る何かを呼び戻すその詞、声。
誰もが自分の中に眠る光を認め、その事実に感動を覚える。
生きるということの神聖さ、それに気付かされる。
そうして誰もが癒され、喜びを歌う。
それが、“光の歌”の、歌姫の力だった。

 銀の、月の光を浴びてなお一層輝く一筋一筋の髪、しみ一つない白い肌も月光に照らされやや青く、仄白く光る。纏う銀糸の衣装は、まさに、月の雫で織られたかのように彼女の体を包み……誰もが認めてやまない、月の化身。
 小さな体から、どうしてそこまで深く心を揺るがすような強い力を宿した声が出てくるのか、不思議でならないが……優しく激しく歌う乙女は、神のように感じられた。
つい先程まで言葉を交わしていたアーサーでも。
そう思わずにはいられない、何かを感じた。

 「……凄いな。噂通り。もうちょっとで意識途切れるかと思ったぜ……」
「……に、兄様……どうして、どうしてそんな平気で立ってるんですかぁ……?」
深くお辞儀をしたままの歌姫が立つ舞台そで。
ふたつの人影があった。……ただし、ひとつは立姿勢、もうひとつはしゃがみこんだもの。
ふたつともが黒い髪。四つあるうちの二つの目は闇のように深く濃い黒曜石の瞳。残りの二つは、じわじわと大地を侵食していく静かな炎のような暗紅色。
「お前……情けない奴だな。これくらいで根を上げてちゃ立派な国王にはなれないぞ。そばで聞くからいいんじゃねぇか。あいつには……色々聞きたいこと、あるしな」
「だ、だからって、こんなところで……はぁ……」
ふらふらとおぼつかない足取りでようやく立ち上がったのは、まだ年端も行かない少年。アーサーは片腕でその体を支えてやりながら、目だけで彼女の姿を追う。その体が、こちらに向きを変えたのが見えた。
「やべ、来るっ……!! 行くぞ、シーザー!!」
「ま、待ってよ、兄様ぁ……!」
まだまともに動作しない弟の体を引き摺りながら、アーサーは彼女に気づかれないよう、慌てて会場から逃げ出した。

 「?」
変な、物音がした気がする。
何だろう?
舞台そでまでやって来たディオネは舞台から降りながら、不思議そうな顔で首を傾げた。
『今回も、最高だったぞ、ディー』
「……シング。うん。ありがとう……」
ふわりと隣りに舞い降りた純白の男が、優しくディオネの髪を撫でた。
『……どうした? 何か、不安でもあるか?』
訝しげな表情でこちらを覗き込んでくるシングの顔に、なぜかためらいを覚えてそっと目をそらす。
「何でも、ないわ。大丈夫。気にしないで。お部屋に、戻りましょうか……」
『ディー……?』
一歩踏み出したその体が傾いだのは、シングが両手を差し出すのと同時だった。
ディオネは、深く深く吸い込まれるような眠りの中に、落ちていった。

『……あんなに本気で歌うからだ。オレがどうにかなるところだっただろ。お前は本当に、愛され過ぎているんだから……自己主張して、連れて行かれても知らないぞ』
淡い笑みを浮かべた“光の歌”が、腕に収まったディーネを抱きなおして、……何かを考え込むようにその場に立ち尽くしている。
『あれ。ディーの部屋……どこだ?』
伝え聞こえる声からして、彼女を休ませるために運ぶつもりだったのだろう。だが、ディーネにも、当然彼女のそばを離れない“光の歌”も、彼女にあてがわれている部屋がどこにあるのかは、知らないはずだ。
今日は迎えの馬車から降りて、直接白夜の宮に連れて行かれたのだから。
意外なほど深刻な溜め息までもが聞こえてきて、さすがにアーサーも不安になった。歌姫は、ぴくりとも動かずじっとしている。
「あれ。どうしたんだ、歌姫。眠ってるのか?」
『王子……。ディーに当てられた部屋がどこにあるか、分かるか?』
シーザーを部屋に帰らせたあと、それなりの手を使って彼女の案内役を強奪して来たアーサーは、シングに抱かれたままの少女の顔を覗き込み、ふっと表情を和らげ、あぁ、と頷いた。
「まぁな。でも、何で寝てるんだよ? ただ、歌っただけだろ?」
手を伸ばし、ぷに、とその頬をつついた指で、続けてぐにぃっ、と引っ張ろうとしてシングに手を叩き落とされ……不満顔のまま首を傾げると、シングは後でな、と答えた。後でならばいいということなのだろうか。思わずいい方に勝手な解釈をして笑ったアーサーを、シングが促す。
『知っているのなら、早く連れて行け。ディーには都合が色々とあるんだ。ほら』
促されつつ、アーサーはひとまず二人から離れ、じーっと二人の姿を眺めて、近づいて。ほぅ、とため息をついた。
「……あんた、自分がどれだけ目立つか分かってるよな?」
『ディーのせいだろう。ディーは綺麗だからな』
さらりと言い捨てたシングに、アーサーは一瞬沈黙して、仏頂面のまま、違う、と一言呟いた。この男……と呼んでいいものかどうかは分からないが、分かっていなさすぎる。思わず、シングにびしっと指を突きつけた。
「あんたが、どれだけ目立つか、だ!! なんかやたら綺麗な見覚えのない男が太陽の国の王宮に、長い髪ポニーテールにしてひらひら揺らしながら歌姫抱いて現れてみろ!! 男はアルビノで、しかも衣装はやたらと古臭いじゃ無いか!! でも似合ってる!! 明らかに! 見つめられまくるだろう!!」
『……そうか?』
「自覚なしか!! ますます犯罪的だッ!! ……ッと、いや、だからだな」
アーサーはそこで言葉を切り、ひとまず心を落ち着けて、きちんと言いたいことを整理する。言いくるめようと再び口を開いたその時だ。
『……結局何が言いたい? こっちに歌姫よこせか?』
あっさりと本音を言い当てられて、アーサーは言葉に詰まり……小さく、頷いた。
「……いや、そこまで実も蓋もなく言われるとこっちが切ないっつーか情けないんだけど。その通りだ」
『……今回は、仕方ない。落とすなよ』
「……へ?」
あっさり引き下がったシングが意外で、アーサーは念のため、もう一度訊き返した。
「い、いいのか? 俺が連れて行って……?」
『オレは今すぐディーを休ませてやりたい。ディーが休めるように、ディーの部屋に連れて行ってくれるのなら、別に相手は特別危険でなければ誰でもいいんだ』
お前である必要も、ないんだがな、とでも言いたそうにすっと横目を流したシングは、どうするんだ、とディオネの体をそっとアーサーの方へと向ける。
力の抜けた、しなやかな体。覗く白い喉に思わず息を飲んで、腕を伸ばした。
「……軽いな」
抱き上げた体は、軽く柔らかく、温かかった。




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