My fair lady 2
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 「あのっ……あつかましいお願いだって、分かってるんですけど」
そう言われたのは、つい10日ほども前だったとオークは思い出す。
オーク直々の訓練が始まって10日。
基礎練習だけで息の上がっていた新米グループが、ようやくまともに動けるようになった頃だった。
「勉強したいことがあって。でも、部屋じゃ周りがうるさくて集中出来ないし、書庫で書き物は厳禁だし。どこか、いい場所をご存知ありませんか?」
問われて、しばし考え、それなら執務室の控えを使えばいい、と答えたのは何を思ってだったか。反射的に答えていて、自分の言葉に驚いたときにはすでに遅い。
 それから、グレイスは午前中の訓練が終わると、昼食を取って、オークの執務室へとやってくる。いつも分厚い、古びた本を抱えて、オークの邪魔をしないよう、静かに時間を共にする。実際は壁一枚を隔てているのだが、なぜかオークは時間を共有しているように感じていた。
あの申し出がずいぶんと昔のように感じられたが、それはここ最近の忙しさによる錯覚だろう。
一区切りのついた書類の束に、ペンを置く。サインの済んだものを脇へどけようとして、指が思い通りに動かなくなっていることに気づく。
どうやら、指先の感覚がなくなってしまったようだ。緩く動かしても、何も感じない。どれほど集中していたのかと、オークは自分を笑った。
「……お茶入れましょうか?」
「あぁ……頼んでもいいだろうか」
書類から顔を上げると、そこにはグレイスがいる。
彼女は、いつも笑顔を浮かべて、そこにいてくれる。
「もちろんです!」
「茶菓子は、いつもの場所にあるはずだ。料理長が、作り甲斐があると喜んでいたな」
「それは隊長が感想を言わないからでしょう。料理人にとって、感想をくれる人はみんな先生なんですって」
返事を待たずに、彼女は給湯室へと歩いていった。その背中が嬉しそうなのは、きっと茶菓子が楽しみだからだ。
 彼女が来るようになってから、調理場に頼んで数を増やしてもらった甘い香りを放つ菓子は、今までよりずっときらびやかになった。手の込んだ装飾が施された菓子を見つめていれば、見目にあまり興味のないオークが今まで食べていたものが、実に素朴で、飾り気のないものだったとよく分かる。楽しみにしている者がいると分かっただけで、あれほど変わるのだから、この菓子を作った料理人の思考は、相当単純に出来ているに違いない。
 しばらく指を動かして、感覚の戻ってきたそれは痛みを訴える。ゆっくりと撫でて筋をほぐしてやっていると、奥からグレイスがやってきた。トレイに乗ったカップとポットは、いつもと同じ位置。そこに、茶菓子の乗った皿はなかった。
「……どうしたんだ?そんなに嬉しそうな顔で」
菓子がないなら落ち込んでいるだろうと思ったのだが、グレイスはやけにご機嫌でカップをテーブルへと下ろしていく。
「だって!今日、すごい豪勢です。チョコレートケーキにフルーツケーキ、クリームシャンテリーにチーズスフレ。紅茶シフォンに洋ナシのタルト……まだいくつかあるんですもの。テイクアウト用の箱があったのは、持って帰れってことなんでしょうか」
次々と並べられるケーキの名前。耳に覚えがあっても、ケーキそのものを思い出すことが出来ないのは、やはり見た目や味を気にしていなかったからだろうか。
だが、彼女の言う通り、確かに10種類は多すぎる。いつもはせいぜい2種類がいいところで、当然、ケーキボックスなど用意されているはずもない。それが彼女のために用意されているということは、何らかの意味が込められているのだろう。
「……長く続いた祝いか」
「え?」
「ケーキは全部で10種類だろう。あの料理長の考えることだ、大体想像はつく」
元々菓子職人の元から料理の道に入った彼は、外を歩けば王宮兵と間違えられるほど体格がいいが、その実何でも記念日にしたがるロマンチストだ。オークが結婚するときには、絶対にウェディングケーキを作らせてもらうのだと張り切っていた。最近両親からも遠回しにせっつかれているし、きっとオークの傍に女性がいることを喜ばしく思っているのだろう。
大袈裟だとは思わない。何せオークは、今まで一度たりとも、女性を執務室に入れたことなどなかったのだから。
「そっかぁ、それじゃ隊長のところに続けて来れば、もっと色々美味しいお菓子食べられそうですねぇ」
嬉しそうに笑う彼女の顔に、オークも思わず苦笑した。
それはあまりにも、幸せな笑顔だったから。

 ケーキと紅茶を並べて取るに取らない雑談を続けていたオークは、ふと思い立って水の国側の国境付近の地図を取り出した。
「なんですか?」
「いや、少し君の意見を聞きたくてな。国境に討伐隊を派遣するという話は、知っているだろう?」
地図を広げて、簡単な説明といくつかのルートを彼女に指し示す。
近衛のみならず、正規軍の軍師も務めるオークだが、細かく理由を並べなくても自然と理解してくれる彼女との会話は、机上論しか出来ない将校より、ずっと楽に構えていられる。
だが、察しのいい彼女にも分からないことはあるらしい。
……グレイスは、オークがこの国の王太子だと、まだ気づいていないようなのだ。
確かにフルネームを名乗ってはいないが、オークの赤い髪と若葉色の瞳は非常に目立つ。
ありふれた名前ではあるが、この色彩に加え、一週間もこの部屋でオークに付き合っているのだ、気づいてもおかしくない。
まぁ……気づかなかったのは、今も親しくしている近衛副長のセーラムに続いて、二人目だから、あまり気にはならないけれど。
 傍らの色鉛筆を持って、直接地図に書き込みをする。
直線、曲線、迂回路。ひとつずつ、自分の意見を整理するためにも彼女に伝えたかった。
小隊か、大隊か。決めなければならないことは、いくつも立ちはだかるのだから。
「結局、消去法でこのルートしか残らないわけだ。だが……」
「そのルートを行くと、目的の制圧自体が難しくなりますよね。大隊じゃあちょっと道が悪すぎて。……国境って、どうしてこう問題が多発するのかしら」
皆まで言わずとも、察してくれる彼女の聡明さ。
オークは微笑んで、カップの持ち手に指を伸ばした。
「水の国は兵が少なくて、国境に割く人員がいない。仕方ないんだ。だが、それを補うことで我が軍も緊張を保っていられる。平和すぎる世界に、軍隊は必要ない」
クリームを掬い取る彼女のフォークの動きをぼんやり見つめながら、オークはカップを傾ける。
香り高いその茶葉は、グレイスが好んで飲む品種だ。オークはそれまで、紅茶に種類があることなど気にもしなかった。
彼女と一緒にいることで、今まで興味のなかった世界が広がっていく。
それは、不思議と心地のよいものだった。
無駄のない会話や、不快に感じない沈黙。静かな時間は、酷く安らいだものになる。
「グレイスは、武官向きの思考の持ち主だな」
「そう、ですか?」
きょとんと目を瞬いた彼女に、軽く頷きで返す。
「何事も簡潔に、即断即決、決めたら確実にその通り行動する。だが、もしものときの機転や、変化への対応も柔軟。どれも上に立つものの必要とする条件だ」
太刀筋を見ていても、そうだ。
振り下ろすその切っ先には、迷いがない。ただひたすらに上を目指し、技術を磨こうとする真摯な姿勢。新人の中でも著しい成長を見せる稀代の女性騎士を、近衛の誰もが温かい眼差しで見守っている。
彼女には、他者に信じさせる力がある。
必ず期待に応えてくれるだろうという、根拠のない確信を。
「だが……無理は禁物だ」
「え?無理なんて、そんなこと」
笑って再びフォークを口元へ運ぶが、その指先がわずかに震えたのを、オークは見逃さない。
「……今まで相手をしてきたのは男ばかりで、勝手が分からない。今も、ほとんど男同様の訓練に付き合わせている。だから、君の年齢に相応しい運動量を……ちゃんと、自分で理解しておいてくれ。無理なことは無理だと、言ってもらえなければ、俺には分からない。追いつこうと焦ってどこかに支障が出たら、もうここにはいられないだろう」
「はい」
素直な返事。だが、オークは知っている。識っている、と言った方が正しいかもしれない。
 最近の彼女の成長振りは、誰よりも際立って見えた。
成長が早いのはいいことだが、それは『際立って』などというレベルではないのだ。男の中に混じって、それでも気づかされる彼女の技術は、それだけの数をこなさなければ身につかない。
どんどんと他を引き離して強くなる彼女の姿からは、焦りのようなものが感じられて、オークは不安だった。きっと、近衛の訓練とは別に、自主練習をしているに違いない。午前は近衛隊の訓練、午後はオークの執務室で勉学、さらに自主練習となると、睡眠時間を削らなければ時間が足りない。かと言って、このまま続けているようでは、そのうち伸びるものも伸びなくなる。
「君が、努力家なのはよく分かっているつもりだ。だが、自分を痛めつけるような過剰な運動は控えてくれ。君が大丈夫だというのを、無理に止めることは出来ないが……男と女では、どうあっても体のつくりが違う」
視線を上げると、彼女と目が合った。
その目に浮かんでいるのは、不安と……それでも曲げられることのない真っ直ぐな向上心。
「余計なことだというのは知っている。それでも……君のような人材を失うのは、近衛隊長として惜しい。分かってくれ」
「……ありがとうございます」
しっかりと開かれた瞳が、ふんわりと笑みの形に変わる。
オークの意識の上を、羽毛で撫でるように優しく風が吹いた。
妙にこそばゆい、それが何なのかオークには分からない。
ただ、大切にしたいと……浮かべた薄い笑みに想いを乗せた。

 「以上!本日の訓練を終える。解散」
静まり返っていた空間が、敬礼の音と同時にざわめきで満たされる。
オークに向かって投げかけられるのは、お疲れ様です、ありがとうございましたという普段通りのものと、一体何があったんですか、身体の具合でも悪いんですかという苦笑を誘うものだった。
「どういう風の吹き回しですか?正規軍では何が起きても規則は曲げない鬼将軍で通ってる隊長が、いきなり半休だなんて。意外です」
「そうでもしないと、休まない奴がいることが分かったのでな。仕方ない」
「……彼女ですか?」
問いかけてくるセーラムのトーンが、ひとつ落ちた。
「あの伸び方はおかしいだろう。彼女の同期たちも、あの頃と比べれば雲泥の差だ。ずいぶんと剣の扱いも、身のこなしも様になってきた。だが、彼女の成長振りは……」
「桁違い、ですね。元がよかったのは確かですけど……やっぱり自主練やってましたか」
おそらく、とオークは呟いた。
「それで今日、基礎練だけだったんですね。初の女性近衛騎士を、才のある彼女を潰してしまうのが嫌で」
その通りなのだが、実際言葉にして指摘されるとやけに気恥ずかしい。
「大事にされてますねー、彼女。今までの女性みたいに裏表がなくて、いい子でしょう?」
「……何が言いたい?」
彼女の言動に裏表は見当たらないが、目の前でにっこりと笑うセーラムの表情には、裏が見え隠れする。
何となく察してしまうのは、最近の自分の周囲の発言ゆえだろうか。
「分かってるくせに、そんなこと言わないでくださいよー。もう、やだなぁ隊長ってば」
確かに、彼女と親しくなればなるほど、嬉しい驚きを得られる。
結婚するなら、小さく収まっているだけではない、共に前を見据え、歩んで行ける女性がいいと、見合いのことごとくを断っていたオークに、彼女は新しい驚きをくれる。
あるいは、彼女なら、と……期待したオークの想いを打ち砕く、苦い驚きも。
 今は、オークを王太子だと知らないからこうして親しくあるのだ。そうでなければ、彼女はオークと距離をとるだろう。オークが何者かよく分かっていない新入りたちの中だから、傍にいる。
自身の成長をただひたむきに求め、自身の実力がどこまで通用するのか知りたいグレイスは、己の自由を拘束するような相手だけは絶対に選ばないだろう。
時間を共有すればするほど、拘束を拒む彼女の姿が見える。そして、どこまでも飛んでいきたいと願う、自由への貪欲さを思い知らされる。
だからオークは、彼女が出来るだけ自由にいられるよう計らう。
忠告を煩わしいと思われても構わない。それで彼女が今のまま、オークに吹く爽やかな一陣の風でいられるなら……それでいいのだ。
 ひっそりと残った胸の内にある闇から目を伏せ、素早く気持ちを切り替える。
セーラムに声をかけ、軽く打ち合いでもしようかと思い、閉じた瞼を押し上げた。
「……メンフィス?」
「名前を覚えていただけるなんて、光栄です」
誰かいるなとは、思っていたのだ。だが、まさか彼……初対面であのような失態を見せた小さかった少年……が、そこにいるとは想像もしなかった。
「無理を申し上げます。俺に……稽古をつけていただきたいんです」




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