Plumage Legend 〜二重の神話〜 第十一章・非情
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 守りたいと思うのに、この指の隙間からすぐに零れ落ちてしまう。
それが怖くて、わずかでも離れるその瞬間を作ってはいけないのだと解っていたはずなのに。

 「ケレス!!」
いない、いない。
彼女が愛でた花の園の中、どこを走ってもいないのだ。
求める姿が、何よりも大切なその人が。
「……嘘だ」
彼女が、消えてしまった、なんて。
「ケレス!!」
「っやだソウルたすけ」
「ケレス?!」
耳に届いた、声。
伸ばした手が、彼女に届いたはずなのに。
その瞬間に、ざわり、と闇の踊る音が響いた。
触れた感触だけが指先に残り、その手を掴んだ気配はない。
間に、合わなかった。
「……ま、さか」
嘘だ。
また、彼女を守れないだなんて。
そんなのは、嫌だ。
あっては、ならないのだ。
「ふざ、けるな」
伸ばした指先に、響く羽音が近づいた。
顔を上げると、大きな翼を広げた見慣れた影。そっと肩に降り立った鷲の鋭い爪は、肉に食い込むことなく穏やかな熱をもって溶け込んでいく。
「……あぁマルス、ずっとお前は俺のそばにいたんだな? 俺を見つけてくれていた……天に属する力。帰って来い。そして、その力を発揮しろ」
この鳥のように自由に。
翼を得て、ただ彼女の元へと。
目を閉じ、そして、大切な人の気配を辿った。




 またひとつ本来の自分を取り戻して。

 ざわざわ、耳障りな低い音が響いている。湿った空気、澱んだ気配、その中でたった一つ、怖いほどにきらめく星がある。
暖かく、優しくて、周囲に柔らかな光を放つ星は、常しえの闇に飲まれようとしていた。
ただ、その星を守りたくて。
ゆっくりと手を伸ばす。

 掴んだ、と思った瞬間に、ソウルの身体は世界に投げ出されていた。
降り立った足場はあまりよくなくて、思わず体勢を崩して片手をつく。
『馬鹿な! この地界で、なぜ天界での力を行使できるのだ!!』
『やはりこの者は鍵なのだな……! ならばこれも覚醒さえすれば』
言葉の持つ意味など、もはやどうでもよくなっていた。
ただ、奪われた大切なものを取り戻したくて。左手の中に、固い感触を感じる。
「何とでも言えばいい」
目の前に立ちふさがる黒衣、その背中めがけて左手を振り抜いた。
記憶になど残す余裕もなかった。
ただ、その場にある彼女以外のものを、すべて消し去りたかったから。
本能が叫ぶままに、ただ、ひたすらに。
「消えろ」


 ソウルが、こんなにもすぐそばにいる。
睫毛が触れるほど、頬が触れるほど近くにいる。
柔らかな淡い金の髪。長い睫毛、肌は陶器のように白い。しかし生きている証の温もりはきちんとある。体温は自分より低いはずなのに、こうしているとずいぶん温かく感じた。
瞼の奥に潜む、冷たく、そして焼けるように熱い蒼の瞳は、まだ見えない。
 「ソウル?」
小さく、呼んでみる。
「……何」
返事が返ってきた。
「……ありがとう。助けてくれて」
「……うん」
「……ごめんなさい。心配かけて」
「……うん」
頬が離れ、温もりが遠ざかる。
すっと目の前を横切った首筋に、ふと目を奪われる。顔のつくりは女性のように綺麗なのに、その肉付きと骨格は全く自分とは違うものだ。切れ長の瞳や、美しく配備された筋肉は、しなやかな猫科の肉食獣を彷彿とさせた。こうして支えてくれる腕の力でさえ、比較するのも馬鹿らしくなるくらい強く、意識せずにはいられない。
響く声は切なくなるほど甘く、低く体の奥に染み込み、心地よい気だるさで身を包んでくれる。
――この人が、好きだ。
はっきりと思い知らされる。
「……これ以上、俺の心臓が止まるようなことに、関わらないでくれ……恐怖で死んでしまえそうだ」
「……うん」
「あぁ、まったく……安心し過ぎて、気が、抜けた」
「……うん……? ソウル?」
ソウルの語尾の震えに、身を捩じらせる。
無理やり伸ばした指先で、頬に触れた。温かい雫が、指を濡らす。
「え、そんな、ちょっと待って、私そんな、そんな泣かせるような事した……?!」
「……いや、気にするな。もう収まった。いきなりで焦ったが……」
に、と笑う表情は意地が悪く、ケレスには、鼓動を早める原因にしかなりえない。
「久しぶりに泣いたぞ。十年ぶり? もっとかな」
楽しげにそう言われても、かすかに潤んだ目の前の深い蒼に、言葉さえ出ない。
ただ、ただそれをじっと見つめ返すことで、胸の内の想いを、知ってもらえるよう願うしかない。
どうすれば、この言葉にするにはもどかしく、気恥ずかしい感情を、彼に伝えることが出来るだろう。
思えど、どうにもならない矛盾に、ケレスは沈黙を続ける。
「こうして、涙まで取り戻したわけだが。俺は、お前以外の誰の前でも泣かない。お前のためにしか泣かない。全てを許すのは、今までも……これからも、お前一人だ」
「え!」
何を、言うのか。
「な、何で……どうして、そういうこと言うかな、ソウルは」
「でも、事実だ。今お前に誓ったから」
何でもないことのように、あっさりそう言って。
おずおずと顔をあげたケレスに、ソウルは、柔らかく微笑んでくれた。
「……もう」
赤くなる頬をそのままに、ケレスは、彼に抱きつく腕に力を込めた。
自身の髪を、ゆっくりとなで、梳いてくれる指。それにただ意識を向ける。
心地よい感触。懐かしい、感触……。
「ダメ」
これ以上触れていたら、思い出さなくてもよさそうなことまで思い出してしまう気がする。
心臓が早鐘を打ち、離れようと腕に力を込めるが、動かない。
抱かれた体は、ソウルの腕で強く固定され、どうにもならなかった。
命に差し障りがあるわけではないが、これは、また別の意味での恐怖だ。
思い出してしまう。
それに対する恐怖。
「ちょっと……もう、ホントに、離して」
懇願するように呟けば、かすかな笑い声を含んだ震えが、触れ合う、密着した身体から伝わってきた。
数えただけでも両の手で足りない人数を切って捨て、思いのままに暴れ回ったにもかかわらず、汗のひとつもかかず冷たく乾いた背中。
その上を流れる金の髪も、緩やかに波打っているのにまったく乱れた様子はない。
一房を指に絡め、半ばまで梳き上げ、軽く引いた。
「痛い」
「当たり前でしょ、引っ張ってるんだから。痛くなかったら色々疑惑が出るわよ」
「違いない」
そう言って、ソウルはするりと腕を緩めてくれた。
なのに、ケレスはその腕から、離れられない。
あれ、と、胸の中で小さく疑問符を浮かべる。
腕を緩めたソウルも、動き出さないケレスを不思議に思ったのか、覗き込んできた。
「えっと、あ、その、えっと……あれ?」
離れようとするのに、せっかく腕を緩めてくれたのに。
ケレスは逆に、その腕にひしとしがみついていた。
「ケレス?」
「あの、違うの、えっと、なんか……嫌、なの」
自分の口走っている言葉が、どんな意味を持つのか、だんだん分からなくなってくる。
「だからその、えっと、怖かったからとかそういうのじゃなくて、ただ、ソウルが……」
そう、ソウルが。
何と言葉にしていいのか分からなくなって、ケレスは、ソウルを見上げた。
すべては、ソウルがあんな風に、無防備な姿を見せたせいだ。
言おうとして、口を開きかけて……ケレスは、荒々しく抱き寄せられた。
「あぁ……俺が悪いんだ。俺が、放したくないから」
強く、強く抱き締められる。
縋ったソウルの腕が、ケレスの身体を、強く。
「怪我とか、知らない間にしてるかもしれない。俺が、運ぶ」
「え? ……あ、あの、大丈夫! 怪我なんかしてないっ! やだやだ降ろしてっ!!」
「嫌だ。俺が、放したくないんだ」
腰に回されていた腕の一方が、するりと降りた。
「ひゃっ!! や、何っ」
腰から背骨、臀部、太腿を滑って、膝裏で腕が止まる。
途端、ぐい、と視界が上昇して、ソウルよりも頭二つ分大きいところで、停止した。
「……ホントに、運ぶ気?」
「あぁ。横抱きは、この間嫌がられたから」
ソウルが笑って、背中を撫でてくれる。
幼い子供をあやすような仕草には、少し腹が立ったが……仕方ない。
「まぁ、ソウルがそうしたいって言うんなら、許して、あげる」
ふふ、と笑いが漏れた。
「光栄だ」
ソウルが答えて、ゆっくりと歩き出す。




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