Plumage Legend 〜二重の神話〜 第十章・激動
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 心が、震える。
求めるものが遠くて、あまりにも遠くて。

 空が高い。
空に手は届かないだろうが、きっと今己の求めるものよりは近くにあることだろう。
誰よりも何よりも、大切に想ってきたもの。
それと引き離されることが、身分を奪われることよりも陥れられたことよりも苦痛だった。
「……なんで」
きり、と噛み締めた唇に、鉄の味が広がっていく。
きらびやかな衣装などいらない。
身分を証明する勲章などいらない。
ただ、彼女がいればそれでよかったのに。
 今までに身につけたこともないほど簡素な布を纏って、遠い空に、その向こうにいるだろう彼女に想いを馳せた。
「……やはり、邪魔するのだな」
物音ひとつしなかった、牢の鉄格子の向こう。
ゆっくりと見やると、そこにはひとつの影があった。
それはよく知っている声だ。
「私がこの想いを晴らすためには、あの火天使の女を堕とす必要があったのだが。まぁ、お前でも、役に不足はないはず。むしろお前の方が、あの者を悲しませることができるのかもな」
「……陛下」
 ゆるりと揺れる影は、見知った黒衣。
それはこの世界を統べる天帝。今まで仕えてきた相手、だった。
「まさか……まさか、あれは……陛下が?!」
「もったいないことだった。あの者たちもよくできた兵であったのに。餌としては、申し分なかったということか」
その物言いは曖昧ではあったが、あの場所の状況を見た者にとっては、はっきりとした肯定ととれた。
「なぜ……! なぜ、あいつを陥れるようなことを!」
あのときに目にした光景は、とても忘れられるものではない。
自分の配下にある火天使四人が、床にひれ伏す姿。
床は塗料でもぶちまけたように真っ赤で、そのただ中に立ち尽くす火天使……己を導いてくれる緑柱石の瞳の天使が、何よりも大切に思っている女。
状況が、まったく読めなかった。
なぜ配下の者たち四名が、同じ火天使の、しかも同レベルの女一人の前で血溜まりを作っているのか。
そして、なぜ自分がこの光景を目の当たりにすることになったのか。
 女が天界最大の禁忌である同族殺しをしたのであれば、彼女は血みどろであったはずだし、何より、誰もが知っている四大天使長出仕の日をわざわざ選んで実行したとは考えにくい。
――嵌められた、と気づいたのは、あまりの光景に言葉を失っている女を、かの人の元へ報告にやった後のことだった。
その瞬間を待っていたかのように、天帝直属の近衛たちが、この身を拘束に現れたのだから。
 だが、己をこのようなところへ追いやった人物が、まさか天帝本人だとは……思いもしなかったのに。
「鍵は放たれた。この世界を作り変えるために、私の歯車が回る」
く、と笑いを噛み殺すその姿は、幼い子供が夢に見たことを自慢げに話して聞かせるようだった。夢見がちな瞳の奥には、捉えられない深淵が横たわっている。
――狂っている。
この男に今まで仕えてきたのだ、と思うと、今までの自分自身の行動全てを投げ捨てたくなった。
「歪みは、正さねばならない」
正されるべきは、この者だろう。胸に抱く想いとは裏腹に、頭は急速に冷えていった。


 「運命、というものは信じるか?」
「運命、ですか」
異形の討伐を報告に来たというのに、この人は一体何を言うのか、とウミエルは困惑を抱いた。報告はすでに終わったとは言え、彼が下がっていいと許可を出さなければ、この謁見の間を退出することはできないのだ。
本当は、早くこの場を去って、彼女の元に行きたい。そうして、あの柔らかな身体を抱き締めてやるのだ。遅くなって悪かった、と言って。
「運命が、導いてくれたのなら……あの出会いがそうだったのかもしれません」
この世界にある全てと彼女を天秤にかけたとしても、きっと自分にとっては彼女が重い。世界がなくなってしまったら、私も存在することができないんですよ、と、彼女は困った顔で言うだろうけれど。
「出会い、か。私の元には再会が訪れたのだよ」
私のために生まれる姫、と、彼は呟いた。それは独り言にしては少し大きく、この耳に届かせたかったのならばずいぶんと小さな声だった。左様ですか、とだけ答えておく。
「どうすれば、もっと長くこの世に留まることができるだろうか」
深い溜め息と共に吐き出されたその言葉は、天帝という地位への固執とも、その再会した相手との時の共有とも取れて、とても曖昧に流れてしまう。
「陛下のかわりを務めるものなど、この世に存在するのですか」
この身が存在するときから、彼はこの玉座に腰掛け、天を統べるものだった。それが今も変わることなく続いていたから、きっとこれから先も続くのだとそう思っていた。
「……あぁ、かわり、か」
ぼんやりと遠いところへと想いを馳せるその瞳は、深い菫色に揺れている。
「私が変えなければ……次の者も、私と同じ定めを負うのだろうな」
哀れな、と呟く彼の言葉の意味は、たかだか武官の頂点に立つだけの自分では理解できない。
統率者には統率者の、深い葛藤があるのかもしれない。
……この言葉の意味も、どこか達観したような目をする彼であればまた、理解できるのだろうか。
ぼんやりと考えながら、彼女への土産は何にするか、と、そちらに意識をやって、天を統べるものの悩みなど、すぐに忘れてしまった。


 いずれそうなるだろうと思っていながら、本当にこの衣装を纏うことになろうとは。
純白の生地に、金糸銀糸の刺繍が施され、胸に輝くのは片手で足りぬほどの勲章。吹く風にはためく裾を捌けば、着付けを施した者たちが小さく感嘆の声を上げたのが聞こえた。
鏡の前に立っている自分の姿は、まるで何年もこの衣装を着ていたかのように違和感がなく、逆にそれが気味悪く感じられた。
通常ならば、この上に武装を施すのだが、肝心の剣は体内で眠っている。
わざわざ取り出して、持ち歩くのも馬鹿らしい。それならば持っていないものと油断させて切り捨ててやったほうがよほどいい。
「天使長殿、謁見の間へお越しください」
天帝直属の近衛の姿が、部屋の入り口で待機していた。あぁ、と頷いてやって、妙に馴染む衣装を軽く翻した。
 すでに火天使長として何度か天帝の姿を瞳にしているウミエルにとって、謁見の間も緊張するほどの理由がない。
ただひとつ違うのは、歴代の天使長の中でも、ずば抜けた才能を持ち、把握しきれないくらいの精霊を従えていることだけ。
元々持っている力であるだけに、どれほど褒めちぎられようともその意味が理解できなかった。努力して手に入れたものでもあるまいし、なぜ生まれつき備えていたものを素晴らしいなどというのだろう。
よく分からないことではあったが、そんなことはもうどうでもよかった。
ようするに、自分よりも優れた人がいないから、この生まれ持ったものを褒めるのだ。
生まれ持ったものだけで、努力ひとつせずに生きてきた自分が、武官を統べる天使長となるくらいなのだから。
「この度は、四大天使長への選出をいただきまして、ありがとうございます」
すでに顔馴染みの天帝である人は、絹のような黒髪を滑らせて、腰掛けていた玉座から腰を上げて。
「……本当に……まったく変わりなく」
途方に暮れたような顔で、そう、呟いた。
「……陛下?」
「いや、なんでもない。よく似合っているな」
菫の瞳を笑みの形にして、彼はいつも通りに微笑んだ。




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