Plumage Legend 〜二重の神話〜 第十章・激動
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 意識がはっきりしてきたのは、誰かに必死に呼ばれているような気がしたからだ。
ソウルかトルクが空腹を訴えているのかもしれない。起きなければ……と、体を起こしたつもりだった。
『あぁ、よかった……! 気がつかれましたか? 自我が戻られなかったらどうすればいいのかと……ケレスさん? ……ですよね?』
問いかけてくる声は、女性の柔らかなもの。
「え……? そう……ですけど……あなたは……?」
事の起こりがあまりにも唐突で、よく、分からない。
『私は……今は、まだ明かせる名を持ちません。ですが、あのままでは貴女が消えてしまうところでしたから、ほんの少し強引にここに引き込んだんです。ここは、貴女の意識下』
この、真っ暗で得体の知れない空間が?
軽く周囲を見渡したケレスの疑問が伝わったのか、目の前に立つ人が、微笑んだ。……見えたわけではない。ただ、そんな気配がしただけ。
『無意識の領域、とでも言いましょうか。貴女は実際には気を失っているように見えているはずです。外は危険です。しばらくこちらで、のんびりして行ってくださいね』
無意識の領域、と言うくらいだ、意識しない場所なのだから得体が知れなくて当然かもしれない。何だか薄暗いのに、あたりの様子も自分の姿もはっきり認識できる。そして、相手の姿だけが霧がかかっているように曖昧になって、把握できていない。けれど目の前の相手は、どう考えても自分とそっくりの声を持っていて、髪の色や肌の色もよく似ているように見える。見えないけれど、分かる。理解している。
 一体、誰なのだろう?
『あ、外の様子、気になりますか?』
「それ以前に、ちょっと、状況が分からなくって……。私は今、どうして気絶してるんですか?」
自分がここにいて、特にそんな気がしなくても、自分の体は、おそらく気を失っているのだろう。彼女の言葉に、嘘はない。彼女がそんな嘘はつかないことを、ケレスは知っている。
『あら、そこからですのね。ケレスさん、貴女、誘拐されそうになってますのよ』
「……誘拐……はぁっ?!」
『黒い男たちは、ご存知かしら? ……でも、あの方の性格からして、きっと教えていただいてなんか、いませんよね。ここのところ、黒い男たちの間で、何かが始まろうとしています。大地が悲鳴を上げている……。今まで感じたこともないような軋みと共に。きっと貴女は……黒い男たちの実行しようとしている何かに、必要なんでしょう』
 確かに、よくよく考えてみると、午後になって広い中庭でティーパーティーが開かれていた時だったろうか。
じろじろと見つめてくる不躾な視線や好奇心の固まりのような会話に、精一杯の健闘と全身全霊をかけた我慢も空しく気分が悪くなって、さらに人間磁石ソウルに襲われたせいで余計な視線の洗礼を受け、とうとう耐えられなくなった。
ソウルをえいっと振り払って、その後手洗いに抜けようと人々から離れて――その時だ。
暗い、鬱蒼と茂る広葉樹の林に、フード付きの黒い外套を纏った数人の男たちが衣擦れの音さえ立てずに近づいてきて、顔を上げ、驚き戸惑った瞬間に……。
 そしてそこから、視覚も聴覚も何一つ覚えていない。
確かに、誘拐されそうだったのかもしれない。
「って、それじゃあこんなところでのんびりしてる場合じゃないわ! 早く起きないと、皆に迷惑がかかるし……!!」
『待って。……まだ。もう少し……もう少し待って。あの人たちが……』
食って掛かろうとしたケレスを片手で制し、彼女は目を閉じた。真近くに映るその色彩。栗色の髪、乳白色の肌。すっと整った鼻筋、薄紅色の唇……。ただひとつ、確認できないのはその瞳に宿す色。
『これから、貴女の自我を元の位置に戻します。でも、動いちゃ駄目。必ず、目を閉じたまま、口もきかないで、出来るだけ気を失っているフリをしてください。……今彼が来ているから。それを待っていて。彼なら貴女を傷つけられることを許さないでしょう。彼へのきっかけが必要で……だから今だけでも貴女は、彼のお姫様でいてあげてね?』
微笑みを浮かべたその瞳は。
つい、と細い指が額に触れた。そのまま手の平が、瞼を伏せさせるように動く。
手の動きにしたがって、ゆっくりと目を閉じようとしたケレスは、
「あなたは……もしかして、わた……」
すべてを言い切る前にもとの場所へと戻って行った。

 リボンが空で舞いほどけるように、一瞬で跡形もなく消え失せ、余韻のように小さな風を起こす――たったそれだけですべて元通りになったその空間に一人残った彼女は、懐かしそうに頬を染め、少しだけ泣きそうに顔を歪めた。
『……やっぱりあの方は、炎のようね』
涙に潤んだその瞳は、極上の翡翠色だった。

 ゆっくりと、波間を漂うように意識がゆらゆらと浮上する。
徐々に戻ってくる体の感覚、耳を澄ませば、その声が聞こえた。
『どうする、まだ覚醒していない……これでは、使い物にならないのではないか?』
『あの方に出来ないことはない、このまま連れて行けば、あの方によって真の鍵として目覚めるだろう? 今は、これをあの方の元へ……』
自分のことを『これ』などと、まるで物のように扱う声の主に、力一杯拳を食らわせてやりたかったが……沈んだ意識の底で出会った彼女の言葉を、違えるわけにはいかない。
なぜだか、それだけはしてはならない気がした。
さて、どうしようか。
躊躇った彼女の耳に響いたのは、慣れ親しんだ、しかしいつもとは違う、熱を持った声。

 「触るな!!」
くたりと力ないその身体を乱雑に扱う黒い影。
嫌な予感がして、ケレスを追ってみれば、これだ。
内側で燃え盛る剣の熱が熱い。
「来い!」
影に真っ直ぐ走りこみながら、左手に分散している熱を呼び集める。
柄が形作られれば、こっちの物。
そのまま勢いよく左手を振り抜けば、そこに現れるのは生々しい光を放つ刃。
滴る血が似合うだろう滑らかな鋼に、柄に埋め込まれたルビーが煌いた。
 ざわざわと逆立つ産毛に、耳の奥でざらついた音が残る。
言葉は聞こえない。聞こえなくても、彼女さえこの手に戻ればそれでいい。
彼女が暗い闇に抱かれることは、世界の終わりを意味する……
と、何かとてつもない思考が頭をよぎったが、ソウルはそれを強引に押し込めて、目の前に迫った影を斬り払った。
解け消えるように散った影の中に、様々な濃淡の黒を見たが、その狭間に微かな白を感じるのは、気のせいか?
「……触れるな。身の程わきまえずに……俺を怒らせて、そんなに楽しいか?」
蕩けるように、柔らかな微笑みが。
自分の意志に反して……何かに憑かれたように、ふわりと腕が上がる。剣の切っ先が、すらりと彼女を抱く影に突きつけられた。
「自ら死に急ぐお前たちの気持ちは、分からないが。この俺の怒りに触れたこと、後悔する間もなく逝かせてやろう。そこまで身を貶めて。お前たちの行動は、本当に理解できない」
互いに、一歩として譲らない状況下に於いて。
ふわりと……どこからともなく清らかな風が吹いた。

 少女の身体を包みこむように。

「ケレス?!」
風は一瞬で嵐になり、彼女の体を取り巻く影を全て引き千切った。ざわりと熔けたそれは、力を失って一瞬その場に黒い霧となってたゆたい、余韻のように過ぎ去った風にかき消される。
そのまま、拠り所を失った彼女の身体が傾いだ。いけない、と思った瞬間、剣が自然とその存在を解き、内側へと戻っていく。彼女を抱きとめるために、走り出した。
間一髪で抱きとめると、華奢なその身体の感触、甘く優しい香りが即座に伝わってきた。
自分の感覚を総動員して、彼女の無事を確認する。わずかな呼吸音を聞き取るには、緊張で荒くなった自身の息遣いが邪魔だ。く、と呑んだ息の合間、閉じられた瞼が、微かに、だが確かに震えたのを見た。
「……ケレス」
求める声に、瞬く瞳がゆったり開き、焦点をソウルに合わせて、微笑む。
「……ごめん……なんか、捕まっちゃった」
今にも泣き出しそうな声に、ソウルは微笑んで首を傾げる。
「お前は悪くないだろ?」
「……悪いよ。護られてること、気づかなかった」
その言葉に、どきりとする。
なぜ? 何がきっかけで、分かったのだろう。
「俺が勝手に黙ってただけだ。あいつらが誰を狙ってるのかも、はっきりしてなかったから……お前が悪いんじゃない。な?」
もう一度強く、抱き締めて。その存在を確かめて。
「……ごめんなさい。ありがとう」
そっと背中を撫で下ろすと、彼女は、ぎゅっと、拠り所を求めるように、ほんの少し力を込めて、抱きついてきた。
「……ありがとう」
すぅっと小さな吐息が聞こえて、ケレスの瞼がゆっくりと落ちる。
……触れた体が離れないように、抱き締める腕に、力がこもった。




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