Plumage Legend 〜二重の神話〜 第九章・衝動
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 ぼんやりと、浮かぶその瞳は甘い翡翠色。
記憶に眠るその色は、身近にいる幼い少女のもののようで、そうではない。
似ているけれど、違うもの。その違いを決定的にするものは……なんだろうか。
『愛しています……ウ……ル様』
そう……想い合う心。
彼女の中で息を潜め、目覚めのときを待っている、暖かく甘い感情だ。
その目覚めまで、もう間もなく。

 目が覚めたら、彼女がいた。
ここは昔、彼に与えられた部屋。懐かしいと言えるほど親しんだことのない、短い時間を過ごした部屋。大きな天蓋のついた寝台、ビロードの絨毯。サイドボードに乗せられたガラスのゴブレットと水差し。ランプ。呼び鈴。
軽食を取るための木製の丸テーブル、椅子が二脚。書き物机に、羽根ペンとインク。
彼の中で、目覚めの予兆と眠りを繰り返していた頃にはこの部屋になかった、子供には大きすぎるベッドやテーブルなどが用意されているということは、おそらく部屋の主の年齢に合わせて、ある程度家具も交換していたのだろう。
唯一覚えているのは、あのころからまったく変わっていない、カーテン。その向こうには日の光を見出すことができないため、まだ夜も明けない頃なのだろう。
暗い室内を見渡すと、床には無造作に荷物が入ったトランクと、上着や靴などが脱いだままで放置されていた。
 相変わらず境目の判断しがたい夢現の中をさまよいながら、改めて部屋を見回す。どこか落ち着かない室内に、複雑な気持ちで半身を起こし、まだ眠りの中にいる少女を見つめた。取れかけのウェーブに揺れる彼女の栗色の髪を指でいじりながら、記憶を探っていく。
自分はなぜここにいるのか。そもそも、自分の目の前に、なぜ、触れられる彼女が存在するのか。
彼女は、遠く触れられない存在だったはずなのに。まだ。
では、ここはどこだ?
頭がいまひとつ働かない。
水。
喉が渇きを訴えてぴりぴりと痛む。片膝を立て、身を起こし、腕を伸ばして水差しに触れる。
傍らの水差しから伏せられていたゴブレットに水を注ぎ、ゆっくりと飲み下す。
体の中に染み渡る冷気を感じ取り、その冷たさを吐息に変える。
と、寒気が一瞬の内に全身を走り、身震いし、思わず自分の体を抱いて。
「……?」
――ウミエルは、自分が上衣を着ていないことに気がついた。
「あ……?」
自分ならともかく、彼が広い寝台で、何よりも大切にしている少女と。お互いを温め合うかのように寄り添っていた事実に驚きを隠せず、さらにこの体が上衣を着ていない事実に疑問をもった。傍らに落ちていた皺だらけのシャツを、手早く身に纏う。
ひとつ呼吸をしてから、そっと、上掛けに包まれた少女の着衣を確かめた。
淡いベージュのワンピースは、特に乱れた様子も、ない。
思わず、安堵のため息がこぼれた。
自分と彼女ならともかく、彼とこの少女の問題に立ち入るつもりはない。
だが、実際にこうして彼の身体を動かせるとなると、不安を感じた。もちろん、身に覚えはなかったが、もしかして、という言葉が世の中にはある。男は、無責任だ。しかも、この身体も彼女の身体も、天界の者たちとは異なるつくりをしている。
この地で暮らすこの二人に、そんな不安は、いらない。
だが……一方で、それを望んでいる自分も、いる。
そうして彼女を離せなくなるんだ、と冷めた部分で考える。
何となくうだうだと、空しい気持ちになって、ウミエルは再び彼女の隣に転がった。
今はもう少し、寝ていたい。
もちろん、彼の目が覚めれば己はまた深き場所で眠りにつくことだろう。
それでも、ウミエルは限られた短い時間を楽しみたいと思う。
突然与えられた機会。これからはもう、生身の彼女に触れ、共に過ごすことなどできるはずがない。わずかにでも与えられた、せっかくの機会だ。
ゆっくりと身体を伸ばし、彼女の髪の一房に指を這わせて。
目を、閉じた。
――少女の目が覚めて、こうして間近に寝顔を見つめていた事実に気づかれる前に。

 その人は、愛しい少女と同等の大切な存在だった。
偶然の出会いは必然のもので、何かを求めるこの手を導いてくれるような。
彼女を見つけるまで、自ら求めて何かを得ようとしたことがなかった自分が、どこへ行くべきか。何をするべきか。
 その人が、全てを教えてくれたのだ。
『久方ぶりだね。待っていたんだよ』
初対面であったにもかかわらず、彼は、そう言って微笑んだ。
出会ったのは、街外れの森を少し分け入ったところ。木々に守られるように建っている古い館の前だった。
 なぜ、そのような場所に辿り着いたのかは、覚えていなかった。
天帝宮に異形討伐の報告を終え、宮から出たところまでは覚えているのに。
すっかり記憶から飛んでしまったしばしの自分自身の行動を思案していると、彼は微笑んで手を差し出した。
『君は僕に呼ばれてきたんだ。深いところに呼びかけたから、よく覚えてないかもしれないね。卑怯な手を使って呼び寄せてしまって、悪かったと思ってる』
光の粉を散らしているような、淡い金の髪。己の髪によく似てはいるが、彼の髪は滝のように真っ直ぐで、肩から背の中ほどまでを覆っている。差し出された手は女のように白く、けれど、やや大きめの手の平。その先には、ほっそりとした華奢な指がついていた。
 顔を、上げる。
そして真っ先に目に飛び込んできたのは、彼の美しい顔貌ではなく……夢の中にでもいるような、緩やかに瞬く緑柱石の瞳だった。
なぜ、差し出された彼の手を取ったのかは、今も分からない。
だが、それが間違いでなかったことだけは、はっきりと確信している。
彼は、己にとって、なくてはならない存在であったから。
 それからも、何度となく彼の元へと通った。
人に頼ることなど忘れていた自分に、確かな道標と、事実を教えてくれる、貴重な存在。現状に疑問を持ち始めていた己に、答えへと繋がる道を指し示してくれたり、更なる問いを投げかけたりしてくれた。
天使には血の連なりなど存在しないが、もし自分に、地界で言う、父や、兄というものがいるのなら。
それは、彼のような存在なのかもしれない。
浮かんだ思いを口にすると、彼は、いつもの夢を見ているような瞳ではなく、その中に確かな意志を宿して……微笑んだのだ。
『そうだね』と答えて。

 自然と、意識が覚醒した。
「……ウルってば!」
聞き慣れた、甘い声が耳に届く。
それは、いつもの彼女だ。この重たい身体を、自由にしてくれる羽根を持たぬ己と、まだたくさんのことを知らない彼女。
地の上を歩む、現在の己の姿を見る。
誰かを、確かに守りきる力のない、頼りないこの身。
「……ケレス?」
ゆっくり、目を開いてみると、こちらを覗き込んでくる翡翠の瞳とかち合った。
今もはっきりと覚えている。彼のベリルグリーンとは異なる印象を持った、柔らかく白を混ぜ込んだ翡翠の色。そして、伸ばされた乳白色の指先には、薄桃の爪。
目の前にいるのは、ソウルの記憶に大切に刻まれている人と、同じ色彩の少女。
それらをはっきりと理解するときは、まだ遠い。
「なにずるずる寝てるのよ! いくら着いたのが遅かったからって、お互いによくわかんないままこうなっちゃったからって、私に言うことがあるでしょ?!」
数度瞬きを繰り返して、再び彼女の瞳を覗き見る。
やや吊り上がり気味の眦が、彼女の中の混乱を映し出していた。
――あぁ、困らせている。
けれど、すぐさま言葉が出てこずに、ソウルはほんの少し逡巡した。
「……婚約したとは言え、まだ清い身を添い寝で汚して、悪かった」
告げると、彼女は一瞬何を言われたのか分からないように瞳を揺らめかせ、おずおずと口を開く。
「えっと……そういう言葉を、期待してたわけでもないんだけど……」
ようやく動くことを思い出した体が、寝台に手をついて、起き上がろうとする。
だるい、と感じるのは、アルツローネからはるばるここへやってくるまで、馬車で3日ほどかかったからだろうか。
「体の具合はどうだ? まだ疲れてるんじゃないか」
「そりゃあ、疲れてないって言ったら嘘になるけど……それはソウルも同じでしょ」
「じゃあ、今……」
彼女がソウルに怒っているのは、自分が疲労に任せて彼女と同じ寝台で眠るような失態を犯したから、ではないのか?
軽く眉を顰めたソウルに気づいたのか、ケレスはごめんね、と笑う。
「違うの、さっきのは……私がソウルに無理難題を押し付けたようなものだから。起き抜けに怒鳴ったりして、ごめんね?」
気持ちのよくない朝ね、と言う彼女に、いや、と否定の言葉を返した。
「ケレスが、いるなら……いつでも、最高の朝だ」
うっすらと笑みを浮かべて、その髪を緩く撫でる。
「おはよう、ケレス」
「……おはよう」
一瞬だけ目を見開いたケレスが、諦めたように微笑む。ソウルにとってケレスの感情は、どんな色だろうと己の感情に影響する。
彼女は、ソウルの全てだ。




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