Plumage Legend 〜二重の神話〜 第七章・震動
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 彼は、困惑していた。
気がついたときには、もうすでに今と同じ、不確かで不安定な、縋るものの何もない空間へと放り出されていた。
彼は、いつも必ず共にあったはずのそれを無意識に探し、けれど、それを見つけられない。
愕然とした。
自分の核にあるものといつも共鳴するように惹き合っていた存在……『蒼』の感覚がないのだ。
強く結びついたその関係は、彼が生み出されたときから片時も離れなかった、確かなもの。それは揺らぐことなく廻る輪の中に、確固たる事実として存在しているのだから。
なのに、それが唐突に途切れたのだ。
なぜ、と問いかける間もなく、気がつけば独り。
それまで融けるように『蒼』と同化していた自分が、いつの間にか『蒼』から切り離され、個として存在していた。
創世の時から絶えることなく、全ての時代の『蒼』へと受け継がれてきた彼にとって、その感覚を失うことはすなわち、彼が彼であるための証を失ったも同然。
大きな力強い温かさが、自信が、証がない……。
まわりは闇。そこは沈黙と無の世界。
――どこに行った?
彼は自分であり、自分の全てだった存在を探す。
どこかに埋もれてしまった、大切な『蒼』を。
 それにしても、何故『蒼』は自分に何も告げずに消えてしまったのだろう。彼は疑問を抱いた。
今までは、どこか遠くに出かける時でも必ず感覚だけはあった。
呼ばれればすぐにでも、あの手の中に還る自信があった。
だが、今は感覚すらもない、ひどく不安定な状態で、これでは呼ばれても、必ず還りつける、という自信は持てない。
 だから、彼は『蒼』を探す。
あの感覚を忘れてしまわないうちに、消えてしまわないうちに。
『蒼』が己の不在に気づいて、ここに来い、と呼んでくれるように。
 いつもこの身を握る指は力強く、また、しなやかで優雅でもあった。
いつもこの身を振るう腕は鮮やかで、また、流れる風のようでもあった。
そんな『蒼』が、自分はとても好きだったのだ、と今になって認識した。
それまでは、共にあることが当たり前の、空気のような存在だと思っていたから。
だが、違うのだ。
『蒼』の存在こそが、彼を証明してくれる。
己であるための鍵にも似た、最も重要なもの。
己の全てを握る、あの手の中に還る。
ただそれだけを目的に、彼は懸命に世界を探った。

 そんな矢先、彼は感じた。
己を惹きつける、強い強い『蒼』の存在感を。
それは、一瞬の逢瀬。
けれど、その一瞬で十分だった。
『蒼』の気配が発せられたその場所目指して、彼は跳ぶ。
鋭敏になっていた神経が痺れるほどの大きな存在感、華やかさ、苛烈さ。目を惹きつけて、決して逸らさせない鮮やかな印象は、彼に大きな安堵を与える。
もう、不安に思うことなど何もない。
再びそれに出会えた喜びに、溢れる歓喜を押さえられず、彼ははやる気持ちに身を任せ、それを目指した。
行き着く先にあるのは、間違いなく、彼の求める手なのだから。


 「きゃあぁぁぁああぁあぁッ!!」
「…………………………?」
間近で響いた絶叫に、ソウルはほんの少しだけ目を開けて、その絶叫の出所を確かめようと辺りを見回した。
「……んだよ…………うるせぇな」
「なっ、なっ…………なんでっ、どうして私ソウルの部屋でソウルと一緒に寝てるわけっ?! 私、どうしてソウルのベッドで寝てるのッ……?!」
慌てる彼女の姿に、視界にこぼれてきた髪を掻き上げ、眉を顰める。何をそんなに焦る必要があるのだろう。
「お前が、昨日酔い潰れて俺の上で寝たんだろうが……俺としたことが、あんな絶好の機会をみすみす逃すとは……」
呟いて、発した言葉の意味を反芻して。
ソウルは、その違和感に気づいた。
『俺としたことが』? 『絶好の機会』?
――それは、何のことか。
「……あ、れ」
目を何度も瞬いてみたが、目の前に彼女がいることは変わらない。
何故。……いや、理由は、今しがた自分で彼女に答えたばかりだ。
 昨日。
笑えるようになった記念、とやらで、ソウルはケレスに盛大に祝われた。
4年の歳月が報われたのだから、確かに記念といえば記念なのかもしれない。
ソウルにとってはさほど意味などなかったのだが、機嫌よく厨房に立った彼女の気持ちを無碍にすることもない。豪勢な夕食と、年代物のワイン。
その、ワインがいけなかったのだ。
 ケレスは、酒に弱い。
これは疑う余地もないほどの事実で、ケレスに酒など、一滴たりとも飲ませてはいけないのだ。
止めようとしたそのときには、すでに遅かったとしても。
俺は止めた、と言えるだけのことをしておけば、と、ソウルは今頃になって後悔していた。
「……ケレス、酒は飲んでも」
「呑まれるな、って言うんでしょ!! 分かってるわよもうっ、ごめんなさいっ!!」
真っ赤な顔で、彼女はわたわたとベッドからまろびでた。
服を着ているのは当たり前だが、仕草のぎこちなさや寝乱れたシーツの皺を見ると、必然的に思い出す光景がある。
さらりと滑る、栗色の髪。透けるような白い背中が覗き、なだらかな腰を白いシーツが覆う。呼んだ声に応じ、彼女は振り返る。肩からこぼれる髪が、一房、二房。彼女はほんのりと頬を赤く染めて、小首を傾げて微笑むのだ。
『おはようございます』、と。
「ケレス」
呼んでみて、はっとする。呼び止めたその体はぴくんと震えて、立ち止まった。
さらさらと、彼女の栗色の髪が流れる。
時の流れさえゆるめてしまいそうな、不思議な空気。
呼び止めたものの、何を言えばいいのか分からなくなって、ソウルはただぼんやりとケレスの背中を見つめた。さら、と、再び彼女の髪が揺れる。肩越しに振り返った、その瞳。
「……おはよ、ソウル」
翡翠の瞳が、恥ずかしそうに微笑んで、そう囁いた。
あぁ、と言葉にならない吐息をこぼす。
「……おはよう」
彼女は、変わらない。
いつどこに、どんな姿であろうとも。
『彼女』の根底に流れるものは、決して変わらない。
溢れ出しそうな愛しさを、微笑みに変えて。
途端に、ケレスの頬がさらに赤くなった。
「っ……お風呂入ってくるっ!!」
吐き捨てるように叫んで、そのままケレスは走って逃げてしまった。
一体、何がそんなに気に入らなかったのだろう。
わけが分からず、ソウルは首を傾げて……ある気配に気づいた。
ひとつ、ふたつと存在する気配は、確かにこの部屋をうかがっていた。
ここ最近、ずっと何かに見られているような気はしていたが、それがはっきり感じ取れたのは初めてだ。
肌で感じるその気配は、異質なモノ。はっきりした確信もないまま、ただ、普通の人間とは違うモノだと認識する。違和感と嫌悪が混じったような、嫌なモノ。
 セルヴィーナ帝国の皇室お抱えの宝石職人と言っても過言ではない、エフロート工房の技術を欲しがる職人は少なくない。一瞬、その関係かとも考えたが、それにしては少し様子がおかしい気もする。
技術が目的なら、細工部屋かスマルの書斎に目をつけるはずなのだ。これまでにも何人かの職人が彼の仕掛けた罠にかかっている。
それでは、と考えをめぐらせ、何も思い当たらず……いや、ひとつの可能性に行き当たった。
「……まさか、な」
脳裏をよぎる、一人の少年の姿。
彼には、そこまでしてソウルとケレスにこだわる理由などないはずなのだ。
彼……いや、彼女、が残した謎だらけの言葉、どこからともなくやってきた不可思議な歌の詞。
目の前に横たわる、遠い遠い記憶。
ありえない、と一度呟いて、自身の考えを遮断する。
今のところ害は出ていない。もし害が出るようならば、始末すればいいのだ。
相手の思惑も分からないうちから動くのは得策ではない。
動き始めた途方もない大きな流れに飲み込まれず、しっかりと己の足で立つことをよしとするならば。
「力が……欲しい」
呟いた言葉に、軽く頷く。
彼のように強くなりたい。不安など感じることもない、確かな強さが欲しい。
大丈夫だと、微笑んで彼女に言える、自信とそれに見合うだけの力が欲しい。
得られるだろうか、と、わずかに不安に思い。
 あ、と声を出す間もなく。身体の自由が奪われ、意識が遠のく。背中に触れた寝具の感触さえも遠のいて、深いところへと沈み込む。
……ソウルは、得体の知れないものに眠りへと引きずり込まれた。
それは、内に息づく彼ではない、けれど、確かに知っているもの。
片時も離れずそばにあった、それは、たしか。




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