Plumage Legend 〜二重の神話〜 第七章・震動
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 そういえば、あれは何が原因だったろうか。
混濁する記憶の中、過去を見る。

 天帝宮の主が彼を招くのは、さほど珍しいことではなかった。
彼は天界で、何もかもの頂点を極めた存在だったから、何か起これば必ず呼び出されるほど、天帝に気に入られていた。
天帝は名君と呼ぶほどではなかったが、暴君でもなかった。
彼にとっては主君の存在など露ほどの価値もなく、ただ、為せと命じられたときその通りに動けば、他の時間を何に使おうとも咎められない、その事実だけが重要だった。
 だが、久方ぶりに直々の呼び出しに従ったそのとき、突然告げられた勅命を受けることには、いくらかの迷いがあった。
彼の胸には、一人の少女の姿があったから。
 彼はその頃、懐き始めたペットを可愛がるような気分で、泉のほとりに住む少女を愛していた。偶然出会った行きずりのような関係だったはずが、いつの間にか懐かれ、そのうち自ら進んで彼女の元を訪ねるようになった。彼女のことを、じゃれてくる怖いもの知らずの子猫のように思っていた。
いや、そう思うことで彼女にそれ以上の関係を求めないよう、無意識に自身を抑制していたのかもしれない。
何にせよ、彼は彼女の元へ行くのをとても楽しみにしていたし、そこでいる限り彼は、四天使長でも何でもなく、ただの男でいる心地よさを得られた。
せっかく得たいい関係を、時間を隔てることで壊したくなかった。風化させたくもなかった。だが、現実に危険は迫り、時を追うごとにそれは大きくなる。
行って、すぐに終わらせればいい。
胸の奥に燻る不安の種火を握り潰して、彼は天帝の命に従った。
――山岳回廊を中心に広がった幻獣と、それを先導した者たちを殲滅せよ。
それは、数々の討伐をともにした部下だけでなく、地天使までもを組み込んだ大規模な遠征になった。
 最初は、それまでも時折出現していた異形討伐の、延長のつもりだった。
いくらかの距離をとっている間に、この胸を覆う暗雲も晴れるに違いない。そのための遠征だ、と勝手に思っていた。
けれど、その遠征は簡単なものではなかった。
これまで屠ってきた異形のものなど、比にもならない差。
知能でもあるかのように群れでやってくる大型の幻獣は、将校の手にさえ余るほどの、確かな戦力だった。
あまりにも勝手が違いすぎて、いや、それ以上に、状況も省みず思考のほとんどを占め続ける彼女の存在に。
突然の奇襲に、命を落としかねない大怪我を負ったのは、今でも忘れられないたった一つの恥だ。
その結果彼女の心を知ることが出来たのは、予想外の収穫だったのだが。
 いきさつはともかく、怪我を負ったことをきっかけに、彼はひとつの疑問を抱いた。
彼は自身の力を疑いはしない。戦いの場において、生きるか死ぬか、それ以外に得るものなど何もないと思っていた。だが、そうではない。そこには明確な事実がある。
たとえ彼女に気をとられていたとしても、負うはずのない怪我を負わされたという事実が。
それまでただの『獣』でしかなかった異形が、なぜこれほどまでの強さを持つようになったのか。なぜ、これほどまでに増殖したのか。
彼の知る美しく平和な天界において、このような出来事は、初めてだった。

 『天界を統べる者の力が、弱まっているんだよ』
ある人はそう言った。
『天界を統べる者は、この世界全てを統べる者。本来であれば、三柱の神がそれぞれに担う役割があった。けれど、今はその理が崩れている。この世界はね、今、大きな歪みを孕んでいる。それだけじゃない。傷に、毒を擦り込んでいるんだよ』
滝のように流れる金の髪をそっと払って、緑柱石を嵌め込んだようなきらめく翠の瞳を笑みの形に細めて。
生まれながらにして備わっているとしか思えない優雅な所作と口調で、彼はそう詠った。
『いつしかこの世界は何度目かの生まれ変わりの時を迎える。そのとき犠牲が必要なら、それは、僕がなれるといいな……』
遠い未来さえ見通してしまえそうな、澄んだ瞳の奥。
言葉を聞きながら、そこにある悲しみと苦悩を、彼は見つけた。

 たとえ世界が歪んでも、共に笑いあって、同じ時を過ごせるなら、それでよかったのに。
それさえも叶わないならいっそ、この手で。

 「ねぇ……大丈夫?」
呼ばれて、ゆっくりと身体を起こした。
耳に柔らかく届くのは、心地いいソプラノ。
「あぁ……夢を、見てた」
く、と噛み殺したあくびが、小さな呼気になって漏れる。
「なんか、不思議な感じがした。ソウルなんだけど、ソウルじゃないような。どうしてかな」
顔を上げ、すぐ傍にケレスの瞳があった。
身体を預けていたのは、テラスのウッドテーブル。頬に指を這わせて、跡がついていないか確認する。隣からこちらを覗きこんでいるケレスが、くすりと笑った。
「大丈夫よ。テーブルの跡も、クロスの皺の跡もついてないから。まだちょっと眠そうな目、してるけど」
きらめく、翡翠の瞳。透き通ったベリルグリーンとはまた別の、優しい色合い。
無機物とは違う、確かな暖かさ。
手を伸ばせば、届く距離。
思わずその頬に、指を這わせた。
「え、えっ?! あの、ソウル?! ちょっと」
ぴくりと震える体。けれど、完全な拒絶はしない、ケレス。
言葉にならない感情が、胸の中を駆け抜ける。
彼女は、ここにいる。手の届く場所に、この腕で抱き締められる距離に。
「ケレスは、ここにいるんだな」
「は? え、そりゃあ、ここ私の家だしね? って言うか、ソウル、寝惚けてるでしょう?」
「そう、かもしれない」
そうでなければ、こんなにも胸が熱いはずがない。
彼女の存在ひとつで、何もかもが鮮やかに、新鮮に映る。
伝えたくても伝わらないもどかしさが、表情になれば。
思ったその瞬間。ケレスの瞳が、大きく見開かれた。
「ソウル……やだ、そ、そんなの反則よ! 前もって言って! いきなり、笑うなんて……嬉しいじゃないっ!!」
「は? ……ケレス、何だその冗談は」
「冗談? 言ったでしょ、もうソウルに冗談なんて言わない、って! 待って、どうしよう、そんなの……」
ケレスはもどかしげに目を宙に漂わせ、しばし迷うような素振りを見せたが、すぐにひとつ頷いて、ソウルに向き直った。
「ソウル……おめでとうっ!!」
言うなり、ケレスは、両手を広げて。
ソウルに、抱きついた。
「ぅわ……っ痛、け、ケレス? 大丈夫か?」
「大丈夫! ソウル、よかったね、笑えるようになったんだね……」
ぐらりと傾いだ身体を起こすには、正面からしがみついてくるケレスをどうにかしなければならない。けれど、そんな思考をする余裕もなく、反射的に、両腕はケレスの体を抱き締める。
あ、と思ったときにはもう遅い。椅子ごと背中からウッドデッキに叩きつけられた。痛みに顔を顰めたが、それより今は、首に回されたケレスの腕、重なり触れる身体と、その言葉が重要だった。
「まさか、俺が、笑った?」
「笑った! 絶対、さっき、笑ったったら笑ったの!」
ケレスが、強く主張する。
彼女がこれだけ言うのだから、本当に笑ったのだろう。何の意識もせずに、ごく、自然に。
恐る恐る指を這わせた頬は、思ったよりも強張っていない。凝り固まって動かなくなったのではないかという心配は、必要なさそうだ。
いまだに信じられないケレスの言葉を信じるためには、笑ってみるしかない。
どうすれば笑えるか、は、考えない。
抱き締めた腕の中、嬉しそうに微笑む彼女の姿があるのだから。
力を抜いて、胸の奥にある感情を、言葉ではなく、表情に変えて。
彼女がいることへの、喜び。安堵。
ゆったりと、微笑んで。
「ケレスが、そうやって俺に感情を与えてくれるから。俺は、こうして笑えるんだ。全部、ケレスのおかげだよ」
包み込むように優しく回した腕の力を、少し強める。
存在を確かめるために抱き締めて、その耳元に囁く言葉は、睦言でもなくただ。
「ありがとう、ケレス」
心からの、感謝を。
囁いた言葉にケレスがゆっくりと顔を上げた。
瞳にあるのは、様々な感情と、滲んだ涙。
彼女はその瞳のまま、ソウルに微笑む。
ソウルにとっては、何よりもいとおしく、美しいその微笑。
ケレスはそれを浮かべたまま、唇を開いて呟いた。
「どういたしまして、ソウル」
ゆっくりと額に落とされた口づけは、懐かしい親愛の情に満ちていた。




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