Plumage Legend 〜二重の神話〜 第六章・微動
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 目覚めた場所は、自分のベッドの上だった。
見慣れた天井と、はたはたと落ちてくる涙。濡れた翡翠の瞳が、脳を強烈に刺激する。
「ソウル……よかった、目が覚めたんだ……!」
ぎしり、と軋んだスプリングに、身体へとかかる負荷。彼女の温度と、香りと、首に回された腕の強さ。
目覚めたばかりで動かし辛い身体を叱咤して、どうにか彼女を抱き締め返す。
こうして求められるのは、きっと、不安だから。
一度彼女の目の前で生を終えたこの身だ、それが彼女にとってのトラウマとなっているのかもしれない。
不安にさせているのは、自分だ。
「ケレス……ごめん」
「調子悪いなら、そう言ってくれればよかったのに。そうすれば、倒れる前に何とか出来たかもしれないのに」
「あぁ」
「ソウルの馬鹿。ソウル……!」
そう言ってケレスはしばらく泣き続け、やがて、泣き止んで涙を拭った。
「ごめんね、わがまま言って。ソウルだって、倒れるなんて思ってなかったんだろうし。喉渇いてない? お水持ってくるわ」
「あぁ、ちょっと、待ってくれ。ケレス、俺は一体……」
混乱させられた記憶の中で、まずソウルが訊ねたのは、今がいつか、だった。
あの日から何日も経っているとは思いたくなかったが、意識がなかった間のことだ、分かるはずもない。
「ソウルが倒れたのは、昨日よ。ラーダさんが、帰ってすぐ。私の風邪、うつしちゃったのかもしれない。熱とかは出てないみたいだけど、一応、今日一日はゆっくり休んで。お願い」
「……けど」
「心配なの。もう、ソウルが二度と目を開けないんじゃないか、なんて……そんなこと、考えたくないの」
ケレスはいつになく強い口調でそう言って、ソウルの手を強く握った。
そこまで言われてしまっては、拒絶するわけにも行かない。これ以上言ったところで、状況は変わらないだろうし、ケレスに余計な心労をかけるだけだ。それは、嫌だった。
「分かった。じゃあ、今日は一日、ベッドの上にいるから。その代わり、話し相手になってくれるか?」
「それくらい、お安い御用よ」
ソウルの問いに、ケレスは満面の笑みを浮かべて、頷いた。

 引き金となるのは『蒼』と『白薔薇』。
世界は今、崩壊の危機を迎えている。
 そう言われて、一体誰が信じるだろうか。
少なくとも、ソウルは信じなかっただろう。あんな光景を目の当たりにしなければ。
 ソウルがどれだけ信じたくなくても、実際にラーダはソウルの目の前で影に飲まれて消え、存在しないはずの記憶がある。
 あの日、ソウルは、ラーダに一組のピアスを譲った。小さなアメシストのついた飾り気のないピアスだ。そして、彼を見送ったあと、部屋に戻り、そのまま意識を失った。
そうなっている。
本物の記憶ではないと分かっているのに、それが存在している事実が気持ち悪い。
飲み物を取ってくる、と言って部屋を出て行ったケレスは、きっと記憶を弄られたことにも気づいていないのだろう。その時間に存在するもうひとつの記憶があるから、ソウルはこの違和感を捨てられない。
「世界が、壊れるなんて、な」
嘘だ、冗談だ、と言えれば、どれほど楽なことか。
深く息を吐き出して、ソウルはベッドの上から窓の外に視線をやった。
そこには、空がある。青い空が。
翼を奪われたものたちが恋い焦がれる、己の生まれし世界が。
「ソウル! お水、持ってきたよ?」
声のした方へ視線をやると、ちょうどケレスが水差しとグラスを持って、ドアをくぐったところだった。
「あぁ、ありがとう」
ケレスが、ベッドのそばにあるスツールを引き寄せて、そこに腰掛ける。ソウルは、彼女から手渡されたグラスを覗く。たっぷりと注がれた水。
「とりあえず、飲んだ方がいいと思う。丸々一日、飲まず食わずなんだから。もう少ししたら、何か消化によさそうなもの作るわね」
ケレスがにっこりと微笑む。柔らかな笑みだ。
どこからか沸いて出た安堵に、ソウルは溜め息を吐き出した。
ひとまず手の中にあるグラスを口元へと運び、中身を口に含む。
渇いた喉に冷えたそれは心地よく、するすると喉の奥へと過ぎ去った。
二杯目を飲み干して、ソウルはひとつ呼吸を挟み、すぐ傍でスツールに腰掛けているケレスへと視線を定める。
「ケレスは、この世界の神話を知ってるのか?」
「……ソウルは、知らないの?」
何気なく問いかけた言葉に返ってきた答えは、呆れを含んだ疑いの色を帯びていた。
「変か」
「そりゃあね。親からも学校からも、絶対に教わるものでしょう、あれって。絵本代わりに読んでたもの、私も、トルクも」
知らないわけじゃないでしょう、とはっきり言われて、ソウルは思わず言葉を濁す。言葉が足りなかったか。
「あぁ、まぁ、知らない、とは少し違う。正確には『はっきり覚えていない』んだ」
「確かに、男の子はそういうの、興味ないかもね。いいわよ、教えてあげる」
微笑んで、彼女は手を差し出した。そのまま、互いの間には少し長い沈黙が流れる。
「……その手は何か、って、聞いてもいいか?」
「えっと、今度婚約のお披露目会するから、ドレスを新調するの。父さんが張り切ってね、すごく綺麗なのよ、レースとフリルいっぱいで。だから、それに似合うような、ネックレスとイヤリングのセットを……作って欲しいんだけど」
さらり、と、彼女の言葉。耳から流れていきそうな単語を、捕まえる。
「……ケレス、婚約、お披露目?」
誰と誰が、と、問いかけようとして、やめる。その前に、ケレスの顔が真っ赤になったから。 「な……なによっ! 嫌だって言うの?!」
まさか、と首を振って、けれど、信じられなくて。ソウルはぼんやりとケレスを見つめた。
「……言わなくても、分かってくれたっていいじゃない。もう、決めたの! 私はソウルのそばにいていいんでしょ? だから……その約束をしただけっ。ここに……いさせて。ソウルの傍に」
駄目? と上目遣いに見上げられて、どきりとする。
瞳に見え隠れする甘い色は、ただソウルを頷かせるためだけなのか、それとも。
 覚えている。肌が触れるたびにこぼれる甘い吐息。砂糖菓子にも似た柔らかなその身体は愛しく、翡翠の瞳はこちらを見上げるたび、彼女にとっては無意識の媚を含んできらめき、煽られる。
「……分かった。そういうことなら。もともと婚約が決まったら、俺から何か贈るつもりだったし」
「そうなの? ……嬉しい」
ケレスは蕩けそうな微笑みで小さく首を傾げて、そう呟いた。
脳裏に浮かんだものを振り払うように一度深く呼吸をして、ソウルは顔を上げる。
「じゃあ、聞いてもいいか? この世界のこと」
「えぇ、気が済むまでどうぞ」
「この地界が、天界で罪を侵した天使を償わせるための牢獄ってのは、本当なのか?」
さっそく、彼女から投げかけられた言葉の真偽を問うてみる。
「そうよ? この世界は、天界を中心にして成り立ってるの。私たちには天界での過去があったし、この世界で罪を償ってしまえば、再び天界に戻って天使になる。そうして繰り返されてきたの」
「それだけか?」
「そう。私が知ってるのはね」
そう答えて、彼女はソウルの手に残っていたグラスを回収した。
そこに、水差しから水が注がれる。
「もうひとつ……『蒼』と『白薔薇』って、何のことか分かるか?」
ケレスが、グラスの水を飲み下す。
数度瞬いて、そのグラスをサイドボードへと置いた。
「蒼、と、白薔薇? そうね……『白薔薇』は、たぶん『白薔薇の乙女』のことでしょう。えぇっと……何か、書くものある?」
ケレスの言葉に、この部屋に最初から置かれているライティングデスクを指差す。
彼女は腰を上げると、軽やかに身を翻し、そこからペンとインク壷、メモ用紙を数枚持って取って返した。
「あのね、この世界には、3人の創世神がいるの。一人は、金髪に翠水晶の瞳、文を司る金の兄神。二人目は、金の兄神の双子の弟、金髪に蒼い瞳、武を司る金の弟神。最後が、銀の末神。銀髪に紫の瞳をした、魂を司る神。創世戦争は知ってるでしょう?」
ケレスが、さらさらと紙に単語を綴っていく。
その手元を覗き込んで、ソウルはひとつ頷いた。
「じゃあその話は省くわね。創世戦争を経て、世界の土台を作った母なるものは、支えあうことの重要さを痛感したの。だって、闇に飲まれたのは一人きりで世界の一方に残された銀の末神だったのだから。それで、母なるものは、3人の乙女を世界に降ろしたわ。それが、3色の薔薇に例えられた乙女たち」
「薔薇に?」
「そう。金の兄神には、黒髪と紫紺の瞳を持った『赤薔薇の乙女』が。金の弟神には、栗色の髪と翡翠の瞳を持った『白薔薇の乙女』が。銀の末神には、白髪に朱の瞳を持った『黒薔薇の乙女』が。多分、ソウルの言う『白薔薇』はこの『白薔薇の乙女』だと思うの」
一息に喋りきったケレスは、ふっと息を吐いて、ペンを置いた。彼女が書き付けたメモは、ソウルに手渡される。
ケレスはペンと交換にグラスをとり、唇を寄せた。それが傾き、中の水が流れ込むたび、露になった白い喉が上下する。
肩から滑り落ちる髪は、栗色。
「……なぁに? ソウル、そんな不思議そうな顔で」
見つめていたソウルの視線に気づいたのか、ケレスがグラスを置いて、微笑んだ。その瞳は、やわらかな翡翠色。
「ケレスは……『白薔薇の乙女』なのか?」
「は?」
真剣に問いかけたつもりだったソウルに、ケレスは、数度瞳を瞬いて。
「やぁだ、そんなこと言ってもさっき約束した細工の取り消しはしないわよ?」
くすぐったそうに笑って、首を振った。
「私の髪が栗色なのも、瞳が翡翠色なのも、全部父さんと母様からもらったものだからよ? 第一、栗色の髪で翡翠色の瞳の女の子なんて、探せばいくらでもいるでしょう」
言われてみれば、確かにそうだ。
この国において、栗色の髪も、翡翠の瞳も、取り立てて珍しい色彩ではない。
逆に、ソウルのように時折銀にも見えるほどの淡い金髪の方が貴重だ。
『蒼』だ、と言われた、ソウルの方が。
黒や栗色、濃い色の髪が溢れるこの国で、ソウルは、色彩の面でも非常に浮いている。
「それに、この世界に『白薔薇の乙女』がいるとは限らないんだから。天界にいるかもしれないでしょう?」
「……あぁ」
彼女の言葉に、頷く。
その通りだ。ケレスの言う『白薔薇の乙女』が彼女の言った『白薔薇』だとしても……地界に、その存在があるかどうかなど、ソウルに分かるはずもない。
結局、何も分からずじまいだ。自分のことも、白薔薇のことも。
「どう? そろそろお腹空いてきたでしょう? お粥とか、食べる?」
言われて、しばし考える。とたんに空腹を感じ、食欲があることに気づかされた。
「あぁ……そうだな、食べたい」
じゃあ用意してくるわ、と笑ったケレスが、悪戯っぽく囁く。
「ねぇ、食べさせて欲しい?」
「……謹んで辞退させてもらう」




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