Plumage Legend 〜二重の神話〜 第六章・微動
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 耳元で、幸せだった頃を思い出させるような美しい声が、ずっと聞こえていた。
それは懐かしい子守唄のようであり、また甘い睦言のようでもあった。全身に染みこんでいく優しい温もりと、慈愛に満ちた声音は、自分に居場所と、歓びをくれた……。
『……目を覚まして。どうか、お願い……どうか目を開けて……』
記憶に引っ掛かったまま取れない優しい、しかし悲痛な声。
後ろ髪を引かれ、けれどまだ目覚めの時は来ない。抱いた想いを大事に胸にしまい、来たるべき時を待つ。
答えがないことに、彼女は悲しむだろう。しかし、今は少しでもたくさんの眠りが欲しい。体中の細胞が、少しずつ、新たに生まれ変わる。今の自分に過去の自分を組み込んで、求めるものを得るために。
強く、なりたい。
揺らぐことなく真っ直ぐに立つことの出来る強さが、欲しい。
彼女を、危険から守り抜く力が。
だから今は、自分自身の邪魔をせぬために、眠っていた方が良いのだ……。
 砂糖菓子のように甘い、優しさに満ちた柔らかな場所は、自分を懐かしさに浸らせてくれる。甘い声音も、時々そっと触れられる指も、優しく懐かしい香りも、繊細で温かく、夢のようにいとおしい。
 記憶のどこかにも、自分の体が傷ついた時、いつもそんなふうに付きっ切りで看病してくれた少女がいた。それが嬉しくもあり、だが同時にとても不安だった。彼女に対してだけは、なぜか自信や確信を持てなかったから。
 彼女が自分に逆らうことなどただの一度もなかった。ただひたすら従順に、ほとんどのことは穏やかな微笑を浮かべて許してくれた。それでも、何故だろう。彼女の存在を自分のものだと、そう思い込むことはできなかった。
 普段通りの彼であれば、もっと強気に出ていただろう。彼女よりいくらも身分の高い彼は、少女を苦しめ、悲しませようとも問題はなく、かまわないはずだった。
それなのに、彼女の声にたしなめられては。その美貌と純粋な瞳に見つめられては……見下ろすような物言いなど、出来なかった。何より彼は、彼女を心から愛していたから。
 知り合ったばかりの頃、彼女は、彼が何者なのか知らなかった。それでも、彼女は迎え入れてくれるのだ。何一つ自分のことを話そうとしない彼のことを。彼女の元へと帰るたび、優しい微笑みで彼を迎えてくれる。空腹であればそれを満たしてくれる。疲れていれば暖かい寝室に迎え入れてくれる。傷ついていれば、困ったような微笑みを浮かべて、けれど何も言わずに、優しい指遣いで傷を撫で、唇で癒してくれた。
 あのときもそうだった。生死の境をさ迷いながら、その声だけはずっと聞こえていた。声は自分に力をくれ、熱い想いを自覚させた。
目覚めなければならない。そう思わせるほど、響く声には切なく身を斬るような悲しみが込められていたから。
『……目を覚まして。どうか、お願い……どうか目を開けて……』
そして目を開ければ、彼女がいる。
真っ先に目に飛び込んできた翡翠の瞳には、見紛うはずもない、己が自覚した想いと、同じものが宿っていた。
想いの通い合った彼女から、もう止めてください、と不安に染まった瞳を揺らして懇願されても、彼は頷けなかった。
彼は、戦場に身を置く他、生きる術を知らなかったのだ。

 共に戦った地天使の長は、血に塗れたこの身を『美しい』と賛美した。変わり者の彼が言うほどなのであれば、と思い立ち、そばで見ていた部下の記憶の中にいる己の姿を、第三者の視点から見た。あれはいつのことだったか。
 そこは、戦の最前線だった。彼は、少女を愛することも好きだったが、前線に立ち、他の者たちと共に戦うことも好きだった。戦うことで、いや、戦うことでしか、自分の存在する意味を、自分の存在する理由を実感できなかったからだ。
 飛び出してきた複数の異形と対峙した彼は、ふわりと純白の翼を具現させ、それらを正面から向かえた。翼から羽根がこぼれ、あたりを白く染めてゆく。瞳は興奮に染まった蒼。握るのは一振りの細身の長剣。……地天使達の持つ『レイズ』と呼ばれる仕込み杖と同じくらいの、広い攻撃範囲を持った、大切な相棒。
 自らに内在する能力を開放するための鍵であり、戦友とも言えるその剣を左手に携え、その身に宿る精霊の色……緋を全身に纏って、剣と共に無心に舞う。斬る。
身を任せるのは、すべてを断つ感覚。肉。骨。……そして、熱い血潮。
 さっと目の前を過ぎ去った風を合図に、それは始まる。
彼が身構える間もなく真正面から斬りかかってきた敵の剣を避け、鳩尾を一閃。その後ろを追って来た者めがけて、蹴り飛ばす。
その隙に背後から斬りかかろうとする敵を刃の中程で受け流し、二度目の剣戟で競り勝った。傾いた体へ、逆手に握り替えた刃を突き立て、そのまま大きく開いた翼で風を叩く。ずるり、と肉から引き抜かれた刃は、吹き上がる血潮の中硬質に光る。
舞い上がったその場で体勢を整え、ひとたび地に足をつける。その瞬間を狙って正面と背後から斬りかかってきた二人の頭上を、再び舞い上がり飛び越え、その位置を確認。いくらか後方に降り立つ。
慌てて振り返り、駆け込んで来た先程の異形と刃を重ねる。黒い奇形の小翼。褐色の肌。
それを観察する余裕さえ残して、交えた刃の力を受け流す。すり抜けるように前へ踏み出し、その後ろで機会を窺っていた者を袈裟懸けに。
上がった悲鳴に焦ったか、狼狽する気配を感じ取る。こちらに刃を向ける間も与えず、背後にある体を地に蹴り倒し、勢いに任せて急所を……胸を貫いた。躊躇いもなくそこから刃を引き抜けば、上るのは生暖かい返り血。鼻を突く鉄の匂いは、異形であろうと天使であろうと同じだ。
顔に飛び散った血をくいと衣装で拭う。振り返れば、そこには精霊が捕らえた最後の一人。
もう、急ぐ必要はない。ゆっくり歩み寄り、恐怖の表情を貼りつかせたその首を、せめて痛みを感じないようにと、一思いに刎ねた。
噴き上がるのは、その者が生きていた証。生暖かい、赤い液体を全身に浴びて……、その目は、確かに、愉悦の色を浮かべていた。
 髪が、衣装が、翼が朱に染まる。
周囲に立ちはだかる者がいなくなって初めて、己という存在を自覚した。
指一本動かすことでさえ億劫になるほど、動作は緩慢として、先程までの剣戟が嘘のようだ。全身に浴びた血の匂いに酔いながら、髪を掻き上げる。普段のさらさらとした手触りなどない。あるのは、重くなった髪の束。それでも……恍惚としたその時の感覚は、愛する少女を夢に誘う、それに酷く似ている気がした。
 その彼女は、風天使で、医者で、腹に穴が開いていても治してしまうような途方もない能力の持ち主であるのに、なぜか異形の血は苦手だった。返り血を浴びて、そのまま彼女のもとへ帰った時には、こちらを見るなり倒れてしまったことがある。
 倒れるたび、青白い顔で強がってみせて。
まずこちらの体を心配し、真っ直ぐに、懸命に生きる、可愛い女。
小さな体で、激しさも荒々しさも、苦痛でさえも受け止めてしまう、強く、愛しい少女。
何もかもを覚えている。
余すところなく触れた肌も、腕に抱き上げた時の手ごたえのなさも。

 ――抱き上げた?
 ふと、想い出と呼ぶに足りるのかも分からない、はっきりとした記憶を楽しみながら、ソウルは自分の中の一部分にある、冷めた視点で感じ取る。その時の抱き上げた感触、いや……その気配を、いつかの自分自身の記憶に重ね合わせてみる。確かに、ソウルはそれと同じ気配を知っていた。
……いつだったろう? つい最近だったように思う。
 ――ソウルが、一番好き……。
そう言って、自分に身を任せたケレスだ。ふわふわと漂う匂いや、体が触れる場所、抱き心地、その色彩、周囲を取り巻く空気。そうだ。ケレスを抱いた時だ。
 なぜ、ケレスと同じなんだ?
その問いに答えられる者はいない。それを実際に感じ取ったのは、ソウルであって、ソウルではない者だから。
 どこかで、自分を非難する声が聞こえた気がした。
『ソウル……早く起きて。目を開けて……ソウル……!!』
ケレスだ。目覚めはじめた意識が、耳に入った大切な少女の声を認識する。優しいが、酷く哀しい響き。それは、自分のためだ。
 そう思うと、トルクにもラーダにも邪魔できないくらいケレスを独占していられるような気がして、とても嬉しかった。
 嬉しいが……こんな声を聞きたかったわけではない。哀しく響くケレスの声など、二度と聞きたくないし、体が目覚めを待ち望んで疼いている。ラーダの言い残した台詞も気になった。
 この世界には、何かがある。
ひっそりと、しかし確かに存在する深い確執と秘密が。
自身の中に眠る膨大な記憶と、その経過で培われた勘が叫んでいた。
とてつもない大きな悪夢が、現実となる。この身のみならず、何よりも大切な『彼女』を巻き添えにして。
覚えている。血臭に彩られた、とろけそうに甘い最後の口づけ。頬に落とされた熱い涙も。
 ――起きなければ。
ソウルはゆっくりと眠りから覚める。
何も始まっていなかった。すべては、これから始まるのだ。
目を覚まして。ケレスの涙を止めて。
 それから、色々と考えよう。
どうして自分はあんな記憶を持っているのか。
どうしてケレスの色彩が記憶に出てくる少女とまったく同じなのか。
ラーダの残した言葉は……何を意味するのか。
ケレスの声に応えるために、そして自分自身のためにも、ソウルはゆっくり、重い瞼を開きながら囁く。瞳にぼんやりと色を映す。唇が震える。伸ばした指先が触れたのは、丸い線を描く熱い頬。指先が、暖かな滴で濡れた。
「ケレス……泣かないで」




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