Plumage Legend 〜二重の神話〜 第五章・起動
<< text index story top >>





 不思議な部屋だった。
薄暗く、けれど、部屋の中に何があるのかははっきりと認識できる。
丸いサンルームのような部屋の壁を隙間無く埋め尽くすのは無数の書物、中央に置かれた1脚の椅子には、一人の女、先ほどの白髪の美女が腰掛けている。目線をあげれば、天井に明かり取りと思われる、小さな丸い硝子窓が嵌め込まれていた。
部屋を出入りするための扉は、どこにも見当たらない。
「お前は、何者だ」
『先ほども申し上げましたとおり、黒き薔薇の名を持つ者。それ以上は、今は、どうかご容赦ください』
彼女は頭を下げて謝罪し、ソウルの、それ以上の言及を拒絶した。
ソウルも、仕方なく押し黙る。
『このような場所に、突然お招きしたことをお詫び申し上げます。何度も申し上げておりますように、お伝えしたいことがあって参りました』
そう言った彼女は、つと手を上げた。
その手に握られているのは、一冊の分厚い書物。何もないところから突然、滲み出るようにやってきたそれに、ソウルは圧倒されて息を呑む。
彼女はその本を開き、ぱらぱらとそれをめくって……ゆっくりと顔を上げた。
微笑みかけられる。
『あなたは、なぜ地界が存在するのか、ご存知ですか?』
問われて、首を振る。
「俺は、神話にはあまり詳しくない」
『神話、ではありません。あれは真実、この世界を築く歴史のひとかけら。ご存じないならお教えいたしましょう』
速読でもしているかのように、彼女は本のページをめくり続ける。
『今の地界は、私たち天に住まうものの罪を償う魂の牢獄。この世界に存在する魂は全て、天を中心に存在します。そこで法に逆らったものは翼を奪われ、天から追放され、地で罪を償います。償いが終われば再び魂は天へと昇り、新たな生と、翼を与えられる。そうして存続してきたのが、この世界なのです』
うっすらと笑みを浮かべた女が、ついと腕を掲げた。
自然に流れていく視線の先には、彼女の手が握った、一つの光がある。
『天を中心にしていると申し上げましたが、それは魂が天に留まろうとするだけ。この世界の天と地は、切り離すことの出来ない対等なもの。ご覧ください』
彼女の視線が、その指先へと移った。
その手に握られていた光が、ぼんやりと揺らぎ、やがて形を変え、二つの世界を形作る。
世界の縮図が、今、彼女の手に握られている。
『天と地は、ひとつのものでつながり、互いを支えあって存続しています。この世界を支える、それが時空樹です。時空樹は地に根を下ろし、地界に根を張って天へと伸び、その枝葉で天界を支えています。この樹の存在は、世界に必要不可欠なもの。失えば世界も失われることでしょう』
 二つの球体……おそらくは太陽と月……が、ゆっくりと周回していた。平たい世界の端からは、人間が『海』と呼ぶ部分に満ちている水が、絶え間なく滝のように流れ落ちている。その世界の中心に根を下ろした時空樹……すなわちディリュードは、迷うことなく真っ直ぐに伸びて、空を支える。そのディリュードの枝葉を覆い隠す雲の上には、被さるように、もうひとつの世界が存在していた。
神話として語られる、けれど確かに存在する天界。
 そこは、地界の面積の半分にも満たないささやかな世界。けれど、そこに感じ取れる気配は、確かに地界よりも多い。
『先ほどは、地界を牢獄と呼びましたが、間違えないでください。天と地はひとつのもの。どちらかに従属するものではありません。もしも今、どちらか一方でも欠けてしまえば、この世界は、全てを失うことでしょう』
「……どういう、意味だ?」
問いかけた言葉に、返事は無かった。ただ、微笑みが返ってくる。深い憂いを秘めた、悲しい微笑みが。
『今、この世界に迫っているのは、崩壊の危機です。ある方の歪みが、いつからか世界をも歪ませ、そして、それだけに留まらず、世界の崩壊へと導こうとしています』
「崩壊……させたら、その『ある方』とやらも生きてはいられないんじゃないのか?」
『もちろんです。けれど、天にいるからと言って、世界の成り立ちを知っているわけではないのです。それを正しく知る者は、いまや数少ない嫡子と『翠』に『赤薔薇』……あの方は、ご存知ではないのです。歪んでしまった、あの方は』
彼女はそう言って、目を伏せた。しばし訪れるのは、沈黙の闇。
『あの方は、今や世界の侵略者でしかありません。私はあの方を止めたい。けれど、あの方の前では、私はあまりにも無力……あなたが、あなたと彼女が、共に巻き込まれてしまったのも、私の力が足りないせい』
ソウルの前で語られる懺悔の言葉が、ソウルには理解できない。
それを知るのは、まだ先のこと。
『あの方は、二つのものを犠牲にして、世界を壊すおつもりです。あの方にとっての彼は、きっと他の誰よりも特別な人なのでしょう。穢れに犯されやすいあの方を、そちらへと傾かせてしまったのも……きっと、彼が原因のひとつ。一番大きな原因は……あの方の、弱さ、なのでしょうけれど』
憂いを湛えた瞳が、ゆっくりとソウルに向けられる。
いつしか、彼女の手に握られていた美しい世界の縮図は消え、掲げられていた手は本の上へ降ろされていた。彼女の視線は、揺らぐことのない意志を表すように、真っ直ぐとソウルに注がれたまま。
『あの方は、天に残された者たちの嘆きを利用しています。すべての引き金になるのは、あなた……『蒼』と『白薔薇』です。あの方の指示を受けて、この地に、影が集まり始めていますから。どうか、お気をつけて。そして、世界を。私たちを、救ってください』
「ちょっと、待ってくれ、何なんだ、その『蒼』と『白薔薇』ってのは。その前にも、『翠』と『赤薔薇』ってのが出てきたよな? それも、やはり創世神話に関係があるのか……?」
問いかけに、彼女はひとつの頷きで答えた。曖昧な答えだ。
『そう、ですね。関係が無いわけではありません。けれど、この世界には創世神話で語られていないこともあります。あなたになら、全ての疑問が解けるでしょう。諦めずに、いてくれるならば』
そうして、彼女は手の中の本を閉じる。
重たい音は、その本が役目を終えたことを告げる。何気なく見つめていたそれは、ふぅっと霞んで、消えた。
『私が伝えられるのは、ここまでです。私の力も、そろそろ限界……どうかあなたが、あなた方が私を……いいえ、私たちを救ってくださいますように』
やや遠く、こもって聞こえた声に、ふと顔を上げる。
と、先ほどまでははっきりと形作られていたその体が、少しずつ、薄れていくではないか。
「待ってくれ、俺は」
『どうか、諦めないで。忘れないで。そして、私たちに、明日をください』
声が、ゆっくりと遠ざかる。手を伸ばして、触れようとして……けれど、やはり手は届かない。
「……っ」
自分で何とかしろ、とは、言えなかった。それは、巻き込まれたとは言え、自分ともう1人の『誰か』……いや、『彼女』に、深く深く関わることだから。
それならば、他人任せになどしてはいられない。
他人を頼ってはいけない。まず、自分が動かなければ。
もどかしさに唇を噛む。どうせならもっとはっきりとした情報を与えてくれればいいのに。曖昧な、不確かな言葉ばかりだ。
『先ほどは、失礼をいたしました。記憶と思考を、少し弄らせていただきました』
彼女の言葉に、眉を顰める。
思考を、弄った?
「もしかして……ケレスに細工のケースを取りに行けと言ったのは」
『私が、干渉しました。彼女の前で、あなたをこの場所へ連れ去るわけには、参りませんもの』
大したことではない、とでも言うように、彼女はごく自然に頷いた。
ソウルにとって、記憶も、思考も。
最も触れられたくないものを揺さぶられた、嫌な出来事だと言うのに。
それは、彼女の言う『あの方』だけでなく、彼女自身までもが歪み始めている証だろうか。
『還る前に、彼女の記憶も、少し弄っておきましょう。あの子は、彼女の言葉に頷いて、この街を去り故郷へと帰りました。あなたからの餞として、細工物のピアスを1組受け取って。それで、すべては過去になる……』
やめてくれ、と、ソウルが言葉にする前に。
ふつり、と、彼女の声が途絶え。
世界が唐突に塗り替えられ、視界が広がった。
目の前には、光が満ち、一瞬目を焼かれ……世界は、切り替わる。新たな扉が開き、そこから飛び込んでくる記憶、過去の世界に飲み込まれた。




<< text index story top >>
Plumage Legend 〜二重の神話〜 第五章・起動