Plumage Legend 〜二重の神話〜 第五章・起動
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 「もうすぐ来ると思うわ。お茶をご一緒しましょう、って言ってあるから」
ケレスの言葉に、思わず身構える。
テーブルに被せただけの、淡いグリーンのクロスの端を握り締めてしまい、糊の利いたそれについた皺を、慌てて伸ばした。
「そう、か」
「やだソウル、何してるの? せっかく新しいの出してきたんだから、お客様をお迎えする前に駄目にしないで頂戴」
あの日の様子が嘘のように、ケレスは普段通りだ。
ソウルにとってのあの日は、今でも体の奥で燻っているというのに。
 ケレスの体調がようやく安定してきたあの日、ケレスは頬に、首筋に触れる手の平を拒絶しなかった。相変わらず、はっきりとした答えを求めず、漠然とした問いかけを寄越すだけのケレスに、心からの言葉を託したあの日のことは、まだ記憶に新しい。実際、あれからまだ二日しかたっていないのだ。
「私のことなんか、すぐに忘れてくれるといいんだけど。えぇっと、ラーダ、さん」
「……あぁ」
辛うじて返事をしたものの、それは無理だろう、と思わず心の中で呟いた。
だが、この方法を選んだのはケレスだ。ソウルがわざわざ、彼に与える傷が浅くなるよう計らう必要などない。ケレスがどんな言葉でそれを……彼との婚約の拒絶を伝えるのかは想像も出来ないが、ソウルは、彼女に要求されたことをこなすだけ。
やはり忘れられない、あの晩の約束を守って。
 ケレスが、何かを決断したような瞳でソウルへの問いを投げかけた日の夜、ソウルは、彼女の部屋へと呼び出された。
暗くなってから彼女の私室を訪れるという行為に、ソウルは少なからず躊躇いを覚えたが、本人が何一つ気にしていないというのに、こちらだけ身構えているのも馬鹿らしい。
午後のひとときの余韻を引き摺ったままではあったが、素直に応じることにした。
そして、告げられたのだ。
ラーダからの婚約の申し込みを断ること。それをソウルに、見届けて欲しいと言うことを。
そのときは一も二もなく頷いたが、しばらく考え、それがソウルとの婚約の了承であるかどうか、はっきりしないことに気づいた。
けれど、それに気づいたのは彼女の部屋を出て数刻が経ってから。
そのまま機会を逃し、一度も訊ねることが出来なかった。
そうして、気がつけば今日、彼女は学校から帰ってきて、突然『今日にしたから』などと言い放ち、今、こうして彼のために、テーブルの準備などしているのだ。
「……どうしてだろう」
「え? なぁに?」
「何でもない」
呟いた独り言を聞き咎められて、ソウルは首を振る。ケレスは、そう、と言って一輪挿しに白いマーガレットを挿した。
 かつ、かつ、と、ドアノッカーの音が玄関ホールに響き渡った。
あ、とケレスが顔を上げ、手を止めて部屋を出て行こうとする。
「いい、俺が、行くから」
サンルームに用意した準備は、まだ完全ではない。
ケレスに行かせるよりは、ソウルが行った方がいい。
ケレスを制して、扉をくぐった。
 玄関の扉を開けてやると、そこにはやはり、彼がいた。
迎えに出たのがソウルだと分かると、彼は少し不機嫌そうな顔を見せ、けれど、すぐに愛想笑いを浮かべて扉の隙間に身体を滑り込ませてきた。
「……こっちだ。ケレスが、待っている」
それだけを言って、ラーダに背を向ける。
後ろをついてくるその気配に、妙な違和感と希薄さを抱きながら。

 籐の椅子に腰掛けたラーダが、不思議そうな顔でこちらに視線を注いでくるのを感じながら、ソウルは黙って、彼の正面に置かれた、二人掛けの長椅子に腰を下ろす。ケレスは、おそらくキッチンに行ったのだろう。何も話すことがなくて、ソウルはただ、ケレスを待つことしか出来ない。
「……どうして、お前がここにいるんだ。僕たちの邪魔をしたいのか?」
「違います。ソウルがここにいるのは……私のわがままなんです」
口を開く余裕もないくらい、間髪なく発せられた声は、ケレスのものだ。振り向けば、そこには緊張した面持ちでトレイを持ったケレスが立っている。
「あぁ、ケレスさん。本日はお招き、ありがとうございます」
「お礼なんて、言わないでください。私は、これからあなたを、とてもとても傷つけるのに」
やや強張ったケレスの顔が、泣き出しそうに歪んだのを、ソウルは見逃さない。
「ケレス、いい、言うな、俺が」
「駄目。言わせて?」
「ケレス、さん……?」
不穏な空気を感じ取ったのだろう、彼は戸惑いを浮かべた瞳でケレスを見、そして、比べるようにソウルに視線を送ってきた。
それを避けてケレスの様子を伺うと、彼女は自分を納得させるためか、ひとつ頷いて、微笑んだ。
普段通りの足取りでこちらへと近づき、彼女の手にあるトレイはそっとテーブルに降ろされる。陶器のティーセットの隣で、砂時計の中の時が止まった。
「お茶には、お砂糖やミルク、入れますか?」
「え、あぁ……砂糖だけ、ください」
ケレスが傾けるポットには、赤と白、両方の薔薇の花が散っている。銀のストレーナーを通り越して、明るい紅の液体が注ぎ込まれた。
3客のカップが、テーブルに並べられる。2客はまったく同じ、白薔薇を模した柄のようだが、1客だけ。
「どうぞ」
ラーダに差し出されたものだけ、濃い赤薔薇の絵付けが為されていた。
ケレスの硬い対応に、やはりラーダは困惑を浮かべた瞳でそれを受け取る。
彼がケレスの差し出したシュガーポットから、二つの角砂糖をカップに落とす、その仕草をぼんやり眺めて、ソウルはケレスの言葉を待った。
「単刀直入に、申し上げます」
カップに手をつけもせず、ケレスは薄い笑みを浮かべたまま、はっきりと告げる。
「私、やっぱりあなたとの婚約は、お受けできません」
きん、と陶器に金属の触れる高音が響いた。
ケレスに注いでいた視線を音の方へと向ければ、ラーダがスプーンをソーサーに戻したそのままの姿勢で、表情を強張らせている。
「あなたにも、あなたの家名にも、何の不備もありません。けれど、私はあなたと婚約を了承するわけには、いきません。ごめんなさい」
ケレスが、深く深く頭を下げ、そしてゆっくり顔を上げる。
真っ直ぐにラーダへと向けるケレスの瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた。
それと分かっていて傷つけるのは、自分を傷つけるのとさほど変わらない。
堪えきれずソウルは、ケレスに囁いた。
「ケレス、金庫から、俺の細工物を収めたケースを」
そう言ってしまってから、わずかな疑問を感じる。
今、どうして細工物のケースなどを取りに行かせる必要があるのだろうか。言いたかったのは……もっと別のこと。
「え? ……うん」
脈絡の無い頼みごとにも関わらず、彼女は素直に部屋を出て行った。
それも、おかしい。ケレスならいくら動揺していても、絶対に疑問に思ったはずだ。
なのに。
 ドアが閉まる音を聞き、改めてソウルは顔を上げる。
視線の先にいるのは、ラーダ。彼が妙な力を持っているとは思わない。けれど、おかしいのは事実だ。
「……僕はやっぱり、お前には勝てないのか」
ぽつりと呟かれたのは、自分を納得させるための言葉か、それとも問いかけか。
返す言葉が見つからず、また、まとまらない思考の乱れに、ソウルはただ、沈黙を返した。
「あぁ……僕は何のために」
響く、声が。
少しずつ変質していく、その違和感。
彼の輪郭が、ぼんやりと薄れていく、その過程を、ソウルは目の当たりにした。
「え……お、い、待て、ラ」
「――約束は、守ったわ。時間切れね」
それは、愁いを帯びた優しい女性の声。
思わず部屋を見回したが、ラーダ以外に誰の姿もない。
いや。わずかに動いたものを、ソウルは見逃さない。
影だ。ラーダの影が、ラーダの体の動きに連動せず、それ単体で、確かに揺らいだ。
「お休みなさい、愛しい子。悲しい償いは間もなく終わり、その魂は天へと還ることでしょう。この世界が……このまま、壊れてしまわなければ」
ゆらり、ラーダの体が傾ぐ。
籐の椅子に腰掛けていたのだから、そんなことはあるはずがないのに。
彼の身体はその椅子の背もたれを、まるですり抜けるように真っ直ぐ後ろへと倒れて行き。
「ラーダ……っ」
掴もうとした腕は、確かにソウルの手に届いていた。けれどソウルの手は、彼の腕を掴めず、空を掻く。まるで、幻影に触れようとしたときのような、手応えの無さ。
目の前に確かに存在する、非現実的な光景。眩暈がしそうだった。
ソウルの戸惑いなどお構いなしに、ざ、と、背後の影が揺れた。倒れていく身体は、そのまま……立ち上がった影と同化するように、飲み込まれる。
「改めまして、申し上げます」
先ほども聞いた、女性の声が囁いた。ラーダの身体を飲み込んだ影は、ゆっくりと輪郭をぼやけさせ、じわじわと形を変え……揺れ戸惑って、やがて、一人の女の形をとった。
「私は、黒き薔薇の名を持つ者……『蒼』たるあなたに、伝えたい言葉があって参りました」
さらり、と肩を滑る、真っ直ぐな白い髪。足元で霧のようにたゆたっているのは、まだはっきりと形を成していないせいだろうか。眉の辺りで切り揃えられた前髪の向こうに、大きく、鮮やかな朱の瞳が覗いている。肌は血の気も無く青白く、生気が感じられない。
「……改めまして?」
「はい。あ……お分かりになりませんか。一度、お目にかかっているのですが」
言われて、しばし考える。そう言えば、見たことがあるような。
「もしかして……ラーダを迎えに来た」
「エル、と名乗りました。この世界で、名も無く存在するのは困難でしたので」
そして、彼女は揺らぎを振り払うように一度身じろぎして、微笑んだ。
「あの方のご意思に反そうとも、あなたに伝えなければならないことがあるのです。時間が、ありません。ご無礼をお許しください」
微笑みは、あまりにも鮮烈に瞳へと焼きつき、視線を逸らすことを良しとせず、ただソウルは、意志に逆らって動こうとしない身体を持て余す。
何を、と問いかける余裕も無く、意識が、深いところへと引きずり込まれる。
 ――それでは、私の記憶からお見せいたします。私を、いいえ、私たちを、思い出して……!
脳髄に響き渡る、悲痛な呼び声。
それは記憶の中でいくつかの扉の鍵を開け、ソウルを揺さぶる。
瞼の向こうに光を感じて目を開ければ、そこは、見たことのない世界だった。




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